ちょっと一言: 2010年6月

「お金に印」をつける。「美しい稼ぎ」と「美しい使い方」

前回、役員報酬1億円以上開示の話しをした。「美しい稼ぎ」の予告をしたので、勢いに乗って、続いて書くことにした。よく「お金に印はついていないから、○○で結構です」というような話し方を聞く。経済価値と言う意味では、1万円は一万円である。為替変動も、そういった価値の平準化のために本来存在するから、まさに「お金にしるし」はないはずなのである。しかし、僕は、いつの頃からか「お金には色分けがあるなあ」と思うようになってきた。よい例が、倉本聰の「北の国から」で純君が貧しいお父さんから汚れた1万円札をもらったが、その「なけなし」の思いを、泥のついたお札に感じ、ずっと使えないで封筒に入れて大切にしていた場面だ。あのドラマを観た人は、印象に残っているのではないだろうか。これ以上は「お金に印」の説明はいらないであろう。

1億円以上の年俸を開示するのはよいが、もっといいのは、その使い道を開示することだと思っている。もし、生活が慎ましやかであるが、報酬の多くを福祉施設などに寄付したり、部下の慰労にせっせと身銭を切っていたりしているのなら、それこそ高額報酬を取るに相応しいあっぱれな方であろう。具体的には、今の日本では、家族の人数にもよるだろうが、せいぜい数千万円もあれば、贅沢な生活ができるだろう(僕には想像でしかないが)。それ以上は「死に金」になる恐れがある。悪いこと(なんでしょうか?)に使ったり、相続で子供たちがもめる材料になったり、働かない子供になったり、、、など。

ここで、恥をさらそう。僕が、医学事務所&クリニックを始めてから、26年にもなるのに、業績は低迷している。しかし、業務は滞りなく行い、多くの人の役に立ってきたと自負はしている。主侍医という「民間の侍医」を契約ベースで提供している。契約には、いくばくかの契約金と、月額10万円以上の費用がかかるから、普通の人にはなかなか手が届きにくい。そこが辛いところでもあるが、今のところ仕方がないので、別途奉仕的な相談業務も行うことで、自分を納得させている。そんな高品質ではあるが、若干高価でもある医療サービスを提供しているが、未だに年間の売り上げは1億円には遥かに届かない。利益ではなく売り上げの話しであるから税務署に睨まれるどころか笑われるはめになっている。その中から、やや贅沢なスペースであるが華美ではない事務所の家賃を払い、僕を含め3名の主侍医と78名の救急担当主侍医と4名のスタッフの給料に振り分けているが、誰も貧乏にあえぐような生活ではないし、そこそこ誇りを捨てないでもいいくらいの生活は出来ている。営業や人材確保の先行投資や万一に備えてのリスクヘッジまでの余裕がないのは、経営者として失格気味なのだが。言いたいのは「一億円」とはそれくらいのお金なのだということだ。「一億円の報酬は、私のような優秀で選ばれた人物には当然」と思っているご仁。それを言うなら、僕の事務所、代表の僕は東大の医学部出身で、それなりの研修を積んで、経験も30年ある。一人のスタッフドクターは、東大の後輩であり、優秀な上に人格もよろしいし、勉強好きで現在東大の法科大学院で司法試験にもチャレンジ中である。もう一人は慶應の教え子であり、学生時代に「塾長賞」まで頂いた優秀で、これまた抜きん出た性格の良さである。救急を支えてくれる数名の医師たちも、教授や部長クラスを交えての陣容。事務局専任スタッフもみな、20年以上勤続の精鋭たち。手前味噌と言われるかもしれないが、これが束になっても「一億円役員」の能力に敵わないとはとても思えない。

「1億円」とはそんな額であるということだ。これを理解するためには「お金には印がついている」と思うしかないであろう。そんな報酬を頂くのは、決して会社から頂くのではなく、その逆の「社会」から頂くのだから、公表してもいいくらい「生き金」として、世の中の模範となり還元するようなあっぱれな使い方をして欲しいものである。是非、「使い方」の開示を実現して欲しい。

つまり「ノーブレス・オブリージ」の考え方である。

これに関して、更に言及すれば、世の中には1億円などとは桁違いに稼ぐ人がいて、大衆も「あのゴルファーは、野球の選手は、1億円しか年俸がない」などと言うくらいに感覚が麻痺してきている。人間はほとんどの刺激に対して慣れ現象を起こすからだ。しかし、そういった超人的に稼ぐ人は、やはりその使い道に「ノーブレス・オブリージ」を意識して欲しいと願っている。

そのためにアイデアがある。5000万円くらい以上から、福祉目的に税金が累進的にかかり、1億円以上は99%を税金とする。しかし、そのお金には印を付けよう。お札に「遼」とか「ビル」とか「マイケル」とか印刷し、福祉目的で使う。「遼に感謝しながら、リハビリする」とか、「ビルのお陰で、老後が安心」となれば生き金となるだろうし、遼もビルも鼻が高いから、稼ぐこともまんざらではない。空想ではあるが、楽しく明るい空想ではないだろうか。

最近の報道で、この不景気なのに富裕層の人数が増えた、とあった。危険な徴候だ。「分かりやすくするためには、極端に考える」というのが僕のひとつの思考ルールがあるが、もし、世の中の30%が超富裕層で、残り70%が貧困ではなく日本での年俸に換算して数百万円の、それなりにがつがつしないでゆったり人間らしく生きたいという層の2層になったらどうなるだろう。もはや超富裕層のお金の価値はなくなり、そのお金で買えるサービスは限定され(サービス提供者がいなくなる)、富裕層間のカジノのなかのダミーのチップのようになり果てはしないだろうか?まあ、この危惧は現実的でない、空想、妄想であればいいのだが。富裕層のみなさま、自分の首を絞めることの無きように。

役員報酬1億円開示に思う

最近の新聞紙上を賑わしているもののひとつに「役員報酬の開示」問題がある。1億円以上を開示すると最初に聞いた時に「そんな高額なのは滅多にないよ。その半分位から開示してもいいのではないだろうか」と思った。ところが、豈図らんや。続々と登場するではないか。驚きであきれかえってしまう。そしてまた、開示に反対する経済界の重鎮たちがいることを知り、不思議に思っている。そして、アメリカなどと比べると、1億円くらいの年俸は低いと言っているご仁もいる。話しにならない。そういう人たちは「勤務医と開業医の報酬」論争の記事をどういった思いでみていたのだろうか?彼ら役員報酬開示の金額の大凡10分の1以下のレベルでの論争なのである。

僕は、報酬やら儲けには限度があるべきだと考えている。普通に質素に生活すれば、今時は、年俸300万円でも暮らせると言われている。かといって資本主義の現在、世の中の発展のためには「頑張って稼ごう」というような向上心が必要なことくらいは理解している。そのためには、必要最低限年収に近い額の10倍かせいぜい20倍くらいまでの格差は容認しないといけないであろう。しかし、それ以上は、そもそも過剰なのである。過剰なものは還元せねばならないものだ。さもなくば破綻がいずれ訪れる。お金を中心に(実際は、お金だけでと言ってもいいくらいだが)物事の価値判断をせざるを得ないアメリカ型経済価値観が蔓延し、スポーツ選手も芸術家も学者もただのお金持ちも同じセレブというレベルで集まる最近の風潮。面白味がなくなったと思っていたが、危険な徴候を示している。相撲界がその例かもしれない。そして、我々も、情けないことに、音楽家でも画家でも(医者でも)有名であることや肩書きや所属先などだけで評価をしてしまう。勿論、実力があったからこそ有名になったのであるが、何事も行き過ぎはよくない。

話しを戻そう。役員報酬について。「会社の業績に見合った額である」「経営者の特殊な能力で会社は巨大な利益を上げたのだから当然」尤もな話しに見える。人間の能力の格差は歴然たるものがあって、一握りのリーダーが歴史を塗り替えてきたし、天才の発明により、我々は当たり前のように電気文明を享受し車にも乗っている。才能ある者は、世の中のためにつくすものだから、それはそれでいい。しかし、才能ある者が、弱者から搾取することとは随分違う。歴史を塗り替えるくらいの才能は希有なものだが、弱者から搾取するくらいの才能はたいしたことはない。極端な話しをしたが、こういったことを防止するためにも、大企業の役員報酬の制限をするべきだと僕は思っている。そもそも大企業は(マスコミも一緒だが)、それだけで巨大な力を持っていることを自ら認識すべきだからである。いくら優秀な人でも、個人の力ではなしえないことが、大企業の看板があるからできるのである。その大企業は、過去の多くの人の力の結集で大きくなったのである。ゴールド○○サッ○スという会社のやり口を報道で知った人は、美しいと思うだろうか。業績に直結連動する報酬システムを取っているから当然あのようなやり方になってしまう。役員が数多くいる大会社には、毎日、会社のお金で飲み食いだけしているような人が結構いると聞く。大病院で、50歳を超え部長クラスになった今でも当直業務を週に1度以上やり、早朝から夜遅くまで勤務する優秀な医師たちの報酬の数倍をそんな人たちでさえ貰っているとしたら、搾取以外のなにものでもない。

医療界を理解して頂き、[医療崩壊]を食い止めたいために、この文章を書き始めた。高額役員報酬をもらっている人たちの言い分は、大きな声では言えないだろうが、「私の優秀な経営能力で稼ぎ出したのだから。報酬の格差は、人間の優劣があるのだから仕方ない」と思っているのであろう。では、優秀論について、俗っぽく考えてみたい。学生時代を振り返ったり、子供たちの受験について思い出してほしい。「いい大学に入りなさい。東大、京大を目指しなさい。国公立の医学部をなんとか。」僕たちが、ある程度大人になって迎える最初の登竜門が大学受験であることを否定する人はいないだろう。そして、国公立の医学部がいかに難関であるかは、ほとんどの人が知っている。勿論、大学受験ごときで人間の優劣は決められないが、ひとつの尺度であることは、誰しも認めているからこそ「学閥」なる言葉もあるし、高い授業料を払って有名予備校にいったり、有名受験校を目指す訳だ。そんな医学部OBは、一流企業の役員たちと、平均的に見て遜色のない優秀な一群である。その群間の平均年俸には数倍以上の開きがあることをどう考えるか。先ほど、例に挙げた50歳の大病院部長の平均的年俸は1000万円くらいだ。また、どんなにのぼり詰めて、日本を代表する病院の院長になったり、大学の医学部長になっても3000万円を超えるとは思えない(実際を調べた訳ではないが)。勿論、魂か身体を売ってまで稼ぎまくると言われる医師もいるだろうが、たかが知れている。

では何故、受験戦争で勝ち抜いた彼らが、そんな低報酬(大企業の役員から見れば)の世界でいるのか?答えは簡単だ。お金以外の価値観で生きているからである。人のために尽くす喜びを知っているからだ。しかし、最近、医療紛争ブームを契機に、医師を敵視する傾向が高まり、善良な医師たちのマインドが急低下してきた。そうなると医師の価値観が揺らぐ。他の企業人のようにお金の価値観を優先するようになるかもしれない。すでに危険な徴候も出てきている。エステサロンのような「お客様は神様です」的クリニックが増えてきたし、東大の医学部を卒業して、外資系の証券会社に就職する人も出てきた。頭のいい人はさすがに先見の明があるのだなあ、と仲間内でも苦笑いだ。「医師という職業には、偏差値70を超えるような秀抜性はいらない。まずまずの頭脳とすぐれた器用さと盤石の体力を持ち、きちんとした使命感が根底にあることのほうが重要だ」というのが僕の持論である。ならば、東大の医学部など受験戦争の権化のような特殊なところでは、卒業しても他の分野に行くことは気にしなくていいし、むしろ医学部の過剰人気が低下し、医学部の受験が易しくなるのはむしろ歓迎では?とも反論される。部分的にはその通りだが、日本はとかく行き過ぎるから、ある程度以上優秀な人材が医学部で確保できなくなる時代がくるかも知れないと危惧している。

国民のみなさま。世界に誇る日本の医療水準を守るために、より深い理解をしていただきたく、かなり過激な思想を書いた。

次の機会に、資本主義における「美しい稼ぎ」のあり方について意見を述べたい。

「戦中・戦後子育て日記」を読んで

先日、いとこの一人から本が送られてきた。亡き母のお姉さんの三男にあたる方である。その叔母は昨年95歳の長命で亡くなった。その遺品の中に古びたノートがあり、子育て日記だと分かったらしい。兄妹4人で相談した結果、その日記を本にしようと考え、標題の本が生まれた。象の森書房というところからの自費出版である。その伯母さんには、僕が小さい頃から可愛がってもらい、いとこ達もみんな年上で兄貴分、姉貴分でよく面倒を見てもらったことを記憶している。僕の母は末っ子特有の甘えん坊で、人見知りをよくする息子の僕がいうのもなんだが、「とても気の弱くて優しくて可愛い」人だった。叔母は、学もあり、教師をしていたというだけに、気品と知性があり、「けんぞー、、、、、、したほうがいいわよ」なんて言われると、背筋がびしっとするような威厳があったように記憶している。 その伯母さんの、子育て日記というからには、よほど厳しい指導書みたいなものかなあ、と丁度実家の和歌山に向かう途中の車中で読み始めた。 1日目「たあちゃん(長男のたかしさん)、大きくなってこれを四でちょうだい。そして父ちゃんと母ちゃんがどんなにあなたを愛したか、それを考えてどうか曲がった道に入らないようにしてちょうだい」という言葉を読んで、何故か胸がつかえてしまった。あの利発で冷静な伯母さんの言葉に驚いたのか、早く亡くなった僕の母に思いが重なったのか、自分の子供のことや、妻が息子に対して感じているだろう気持ちとだぶったのか?恐らく、それらが複合体を作ってこころをえぐったに違いない。 そのまま、一気に読み切ってしまった。 ただの日記の文章だけだが、昭和16年から昭和28年までの世相が、すごくリアルに伝わってくる。これは僕の母のお姉さんの特殊な日記ではない。当時の親たちの平均的な状況を表している。子育ては、子供の病気との闘いでもあった。今だったら、抗生物質ですぐに治るのになあ、など仕事柄気になる部分もある。 その伯母さんが長男を生んだ頃、東京にいたことを初めて知ったが、長男のたかしさんが、長患いしたときに、僕の母(まさこ)からの電報が届いた。「マサコイコウカ。ヘンマツ」という単純な一文。その時の母は、まだ十代であったろうから、僕などは影も形もない運命にひらひらしている頃である。 しかし、この電報の一文のリアリティといったらすごい。心配性で優しい母の顔が浮かんだ。勿論、そんな若い頃の母は知らないのだが。 こんな私的な日記であるが、子育て中の皆さんにもチャンスがあれば是非見て欲しいなあと思う。アマゾンで購入できるらしい。 僕の最近のテーマである「命よりこころ」を、ものの見事に再確認させて頂いた本である。

「はやぶさ」と事業仕分け

昨日は、久々に明るい話題が日本に訪れた。それも2つも。ひとつはサッカーワールドカップで大方の予測に反して、カメルーンから初勝利を奪った。あまりサッカーに興味がない僕にとってはたいした出来事ではないのだが、日本中が盛り上がった様子をニュースで見て、それなりに嬉しかった。 もうひとつは惑星探査機「はやぶさ」の地球帰還のニュースである。朝食時に妻とテレビを見ていて、二人とも目をウルウルさせてしまった。特に、大気圏突入前,最後に撮った地球の写真がまるで涙でかすんだように写っているではないか!愛らしくて、可哀相なその最後の「はやぶさ」の姿を想像しただけで泣けてきた。それからまもなく燃え尽きることになったわけだ。 この宇宙事業には多くの無邪気で夢のある研究者やスタッフが関与しているのだろう。国家予算からみれば相当な経費がかかり、今回の事業仕分けの対象となったと聞いた。「役に立つかどうか」は一体、どういう判断でするのだろうか。政治家や企業のトップたちが私腹を肥やすための税金や会社の経費の無駄使いとは全くの別物ではないだろうか。確かに、3億キロも離れたところに宇宙船を飛ばしても「なんぼのものか?」といったところであろう。しかし、どれだけ多くの人がこのニュースに心を明るくしたり、癒されたり、夢を持ったことだろう。これが無駄使いと一緒かどうかよく考えてみる必要があると思った。僕の持論の「お金には印がついている」を実感した。「生き金」とはなにか再度考えてみたい。

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