主侍医のつぶやき: 2010年3月

共感と同情

医療や看護やカウンセリングの心がけで大切なイロハは「傾聴と共感」とよく言われる。この共感に似たようなものに「同情」がある。どうも日本人は「同情」が好きなようで、代議士などの投票に際しても「同情票」というような言葉が存在するくらいである。「共感票」とは言わないのが普通である。ということは「共感」と「同情」は明確に区別されている事になる。僕は、この辺のところが医療に大切だと思っている。医療者として活動してく際には患者さんの苦しみへの共感が必要であり、それを原動力として解決への努力のエネルギーが発生するような気がしている。日常的な診療では、いつもそこまでは意識していないだろうが、患者さんがかなり困難な状況に陥ってそれに対処するの医師側にも困難が山積みな場合は、相当エネルギーが必要である。その場合に意識するのが「患者の苦しみへの共感」ではないだろうか。 では「同情」ではいけないのだろうか。言葉のあやなので、言語学的な追求は別として、「同情」に続くものにはプロの判断が出来にくいと思っている。先ほどの「同情票」のようにともすれば正しい判断を逸脱する可能性がある。「同情」には、良い意味でも悪い意味でも感情移入が色濃く入ってしまうからであろう。 では、患者側から見たらどうだろうか。よく「患者の痛みの分かる医者は少ない」との批判を耳にする。実際そうであろう。痛みはなかなか伝えにくいものであり、理解も難しく、理解をしたつもりでも患者から見れば分かってくれていないように感じるものである。患者サイドからみると、やはり医師に自分の痛みを分かって欲しいのである。その時に「同情」して欲しいと感じているか「共感」をして欲しいと思っているか「理解」だけしてほしいと思っているかはかなり個人差がある。 患者と医師とのコミュニケーションはつくづく難しいと思う。うまくいっていると信じていても、結果が悪く出ると、関係はこじれることが多い。それに他の医師の不用意な言葉などが加味されると、関係の悪化は加速してしまう。このような嘆きは、本当に多くの医師仲間から聞かされる。普段、真面目に医師稼業をしている人からよく聞く。商業主義的または権威主義的な医師からはむしろ聞かない。「聞く耳」「共感するこころ」をあまり持ち合わせていたないからであろう。医を打算的に行うためには「聞く耳」はとても障害になるし、権威主義で名誉地位のみを追うものにとって「共感するこころ」は1次試験落第である。 患者も医師も同じ人間。時に患者は「共感のような演技」「同情のような振り」に騙される。「プロとしての共感」を理解できず、結果に振り回され自分にとっての良医と袂を分かつことがしばしばある。医療決断支援の仕事をしていてつくづく残念に感じることである。同情が好きな日本人の特徴であろうか。

昔提言、今疑問の理由(わけ)その1 医局の功罪

今の事務所を設立する前後の頃だから、30年近く前になる。その頃から、医療の仕組みに関心が向いていた。「こんな仕組みがあれば医療の質があがるのに」とか「この仕組みが改善されれば、もっと快適な医療環境が実現するのに」というような思いが、次から次へと気になった。いわゆる「勿体ない思想」だと思っている。「せっかく各論としての医療技術や医師の能力が高いのに、もっと安心で満足できる医療の実現が可能なはずだ」という思いが根本にあった。 その頃、主張していた数ある提言の中に「教授の個人的利益の温床の部分が残り形骸化しつつある医局システムの改善改革が急務」というのがある。30年近く前のことだから、まだまだ医師の世界は医局主義で「出世を狙う医師は医局を中心に活動することが必須」と思われていた時代である。僕は、幸いと言うか不幸にというか最後に属した医局の一部の人の醜さに耐えられず単身で飛び出したわけだが、医師仲間から「勇気あるねえ!」となかば憐れみを持った励ましの言葉をたくさん頂いたものだ。 ご存知のように、その後しばらくして、医局の中の教授を中心とした権力構造事件などがあり、高名な先生方も医局廃止論を展開するに至り、日本独特の「そりゃあ、尤もだ」的「みんなで渡れば怖くない」的流れで、名実共に医局制度の崩壊が進んだ。特に医学部が集中する都心部でその傾向が強く、新卒の若い医師たちは従来のように医局に属し服従するというような慣習は「そんな時代もあったのね」というくらいに医局講座制の崩壊が進んだ。勿論、ある意味ではイノベーションであり、医学医療の向上に寄与した部分もあるが、地方における医師不足を生み出した元凶ともなった。医局を中心にして医師を地方にもローテートさせるという仕組みが事実上崩壊したからである。 そもそも医局講座制は、ドイツゆずりの仕組みで、教授を中心に後輩たちを育成教育していくことを目的としたものである。そして中世ヨーロッパのギルドのように、同業技術者組合みたいな機能も含み、同じ組合員の職の安定供給をサポートする役割も大きい。また隠れた役割として、同じ釜の飯の仲間の交流の場として厳しい仕事をする者にとっての精神的よりどころともなっていた。こう考えると結構役立っていたのである。 僕が当時、医局のあり方を批判していたのは、本来の医局の役割を逸脱して、一部の人の権力を守るためにのみ使われ、今の政治の党や派閥のような悪い部分のみが目立ってきたことへの警鐘であった。医局廃止論ではなく、医局ルネッサンスであった。しかし、時代の流れは医局廃止の方向へ進み、その流れは止められない。それも時代の流れだと思っている。では、どうすれば医師の偏在(と言われている医師不足)を是正できるのであろうか。いろいろな意見が飛び交っているが、決め手はない。だから、単純に医師の数を増やそうとしている。医療費抑制と医師数の増加をセットに考えているから、薄利多売医師の粉骨で成り立っている日本の医療は再生どころかますます崩壊するのではと危惧している。もっと本質的な方法論はないものだろうか、知恵を集める必要があると強く感じている。 そんな訳で、昔は「医局は改革せねばならない(こんな医局ならない方がまし、、、とまで言ってはいなかったが)」から、今は「本来の医局的なものは必要なのでは」と思っている。 例によって、口先だけではという批判に答えるために、モデルとなるような実践をしてみたいと考えているが、民間でやるからにはなんらかのスポンサーシップや経済的にも運営可能な仕組みを内蔵しなければならないので苦慮中である。これはと思う方の応援を期待している次第である。

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