専門分化と統合のバランス

ばんぶう

医学における専門分化と統合のバランス

ばんぶう

1994.4

日本医療企画出版


「分析」を基本概念にすえた現代科学がいま、曲がり角に立っている。さまざまな応用分野でズレが生じているからだ。

そこで、「分析」一辺倒から「統合」中心へのパラタイムシフトが起こっている。臨床現場でも方向性は変わらない。


現代は自然科学の終着駅なのか。次のスステップへの乗換駅なのか

あらゆる自然科学の分野において、その終着駅が近づいてきたのではないだろうか。こんなことを言うと、「科学の世界はそんなに浅はかなものではない。まだまだ奥深い未知のことが山積みなんだ」と反論されるかもしれない。また、それとは逆に、「世紀末」という言葉で代表される漠然とした不安から、「行き着くところまで来た」 というムード的共感が得られるかもしれない。
 人類の何万年、何十万年の歴史においてボタンひとつで夜も昼並みに明るく過ごせたり、何百キロも離れたところへ一日で行けたりするようになったのは、わずかこの数百年前後なのである。食生活ひとつを考えてみても、この100年の変化はいかなるものであろうか。家の造りを考えてもそうである。蛇口を捻れば簡単にお湯が出る。エアコンのない家は少なくなった。というより、蛇口からお湯が出ず、エアコンもなく、電気も通わない家には住むことができない人間が多くなっているのである。アウトドアライフが流行している。ところが、そういったキャンピング場に行くと、トイレ、電気の供給完備とある。

<思わず考え込んでしまう。こんなに文明が進み、生活様式が変わってきたのに、一万年前の人間と現在の人間とは、その構造や機能が医学的にみて変わっているのであろうか。答えは 「否」 である。
 そもそも科学とは何であろうか。今までの科学の根本的姿勢は 「分析」 にあったと考えられる。物質は何から出来ているか。分子、原子、素粒子、クウォークと分析されていき、その過程のなかで、核分裂や核融合の現象が発見・解明されていった。

その応用の結果、原子力発電という偉大な文明の利器を得た代償に、「核兵器」という副産物を得た。その副産物は、地球を破壊しうる力を持つものである。フロンガスとオゾン層の破壊に代表される環境問題にしても同じである。人間がつくり上げた科学文明が、我々人間の根幹にかかわってきた。このことを私は、冒頭に 「自然科学の終着駅」と述べたのである。
 それでは、本当の終着駅なのか、それとも、ターミナルとしての乗換駅なのか。
それを見極めることが今後の課題なのである。


「分析」一辺倒の考え方から「統合」概念を中心にした方向へ転換

話を、我々の属する医学の分野に限定してみよう。医学の世界の最近のトピックといえば、「人工臓器」「臓器移植」「遺伝子操作」 「人工授精」などが思い浮かぶ。これは、生命の誕生や変造といった操作を可能にした技術である。本来なら神に委ねる神秘の領域に、人類の「叡知」の手が伸びようとしている。ここで叡知を、「 」でくくったのには意味がある。
叡知とは、「深遠な道理を知りうるすぐれた知恵」という意味だ。
 こういった最先端の技術を支えているのは、まさに分析の成果なのである。試験管を昼夜振っている研究者や、DNAの解析だけをやっている研究者、人工臓器の素材の研究者などなど。これらは「科学の叡知」の結集であって、「人類の叡知」の結集ではないのである。
 超最新の医療技術が人類の掌中にあるのに、実際の医療の環境はどうであろうか。世界でもトップレベルの日本の医療環境。ところが、医療への不安や批判が連日のように新聞紙上を賑わしているのである。
 人間の生命の創造にかかわることができるようになったのに、かぜや腹痛といった日常的な病気に対する診療体制への不満が慢性化。ましてやガンの治療などにおいても、「日本中どこでも安定した評価の高い治療を差別なく受けられるL状態に程遠いのである。いい治療を受けられるかどうかは、「運」と「人脈」によりかなり差が出てくることを皆が知っているのか、または過敏になりすぎているのか、「いい病院、いい医者探し」に躍起となるのである。
 こういった「科学の発達」と「実際の応用」のズレがいろいろな分野で起こっていると思われる。そこで、先ほど述べた「自然科学の終着駅」を、さらにその先への「乗換ターミナル」とするには、「分析」一辺倒の考え方から、「統合」という概念を主体にした方向へ転換するべきと私は考えている。
 「ガン細胞は取り除いたが、患者さんは死んだ」という皮肉に代表される「臓器中心型」の医療から、人間全体を視野においた医療を考える時代になったのである。医療という応用科学の分野においては、「分析から統合への移行」ということが特に急がれる。
 こういった視点で、医療システムの今後の方向性を考えてみると、専門分化に偏った医学教育や医局制度を大幅に見直さなければならないであろう。
 もちろん、基礎医学研究という立場では、従来の分析中心型の手法がある程度主流にならざるを得ないだろうが、臨床医学においては、統合中心型の研究や教育システムが必要である。現在の大学の臨床医学研究室のように、「研究」「教育」「診療」を同時に行うということは一見高度なような錯覚を与えるが、実はどの分野も不完全な体制が、甘えの構造として成立してしまうのである。
 このシステムの構築に際しても、「分析と統合」の考え方が生かされる。研究専門家、教育専門家、診療専門家という横割りシステムと、それらの有機的なつながりの構造をつくるべきなのである。現在のシステムは全くの逆である。循環器や呼吸器、耳鼻科や眼科と縦割りにして、それぞれのなかで研究、教育、診療を混在させて、しかも、それぞれの縦割り間のネットワークがほとんど機能していない。
 医学、医療の現場で真摯な研究や診療活動を行っている医師にとって、このように感じているものは多い。しかし、封建的で、かつ巨大な日本の医療システムをどのように変革していくかは、考えただけでクラクラするような途方もないことである。


相談に応じ総合的な説明・指導を行う健康管理「主侍医制度」を提唱

私は、臨床医療の一線の現場において、「分析と統合」のバランスを念頭においたシステムとして 「主侍医制度」を提唱している。国民の医療へのアクセスのシステムを一定化することにより、より効率よく、しかも品質の安定した医療を国民の誰もが受けられると考えたのである。
医療を交響曲に例えれば、指揮者のような医師を養成することである。「どんな病気でもまず最初に相談でき、専門的診断や治療に関しては必要に応じて最適な専門医に依頼するが、総合的な説明や指導は行ってくれる。また、健康なときから相談ができ、すべての医学データを常に保管管理してくれる」。こんな医師のことを私は 「主侍医」と呼んでいる。主に治す医師を「主治医」と呼ぶのに対して、健康なときからいつも側にいる医師のことを「主侍医」として区別している。
 国民みながこの主侍医を持つことにより、むだな「名医探し」や「ドクターショッピング」「二重投薬」などが解消されるであろうし、何よりも安心で安定した医療を誰もが受けられるようになる。
 「主侍医」になるには、一定の経験と継続的な最新医学情報の研修が必要である。もちろん、「主侍医」に対してはそれなりの対価を支払う必要があるが、長期的には医療費の抑制にもつながるシステムと思われる。
 私の医学事務所では、「主侍医システム」のプロトタイプとして五年前から「主侍医倶楽部」を運営している。私が自ら主侍医として100名くらいの方の健康管理のお世話をしている。実際の運用では合理化していかないと経済的に成立しないであろうが、倶楽部会員の方からは喜ばれているし、実際多くの病気に未然または軽症のうちに対処できた。これは、各個人にとって大きなメリットがあるし、国家的に見ても医療費の抑制につながっている。今後、私以外の第二、第三の主侍医を養成していきたいと考えているが、国家的な主侍医システムの誕生を切に願っている。

    

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