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医療関連豆知識

1993/4 ~ 10 に掲載されたものです

医療関連豆知識

KAIGOjournal

1993.10

イメージラボラトリー「生活介護図書館」発行


療養型病床群(療養病棟)とは

医療法改正により1993年4月より施行される「療養型病床群」とは、老人慢性疾患の患者を対象とした老人病院に対し、老人に限らず長期入院を要する愚者すべてを対象にしている。
環境も患者1人当たりの病室面積と廊下幅が、従来の1.5倍程度と広くなっているので、4人部屋でも一般病院よりもプライバシーが保て、居住性が高くなっている。

また、機能訓練室、食堂や談話室、浴室などの設置、廊下には適当な手すりを両側につけることが望ましいとされ、身の回りの世話を行う看護補助者を配置することが義務づけられている。


安楽死について ひと言

安楽死の是非をめぐって様々な討論がなされています。「私は苦しむのはイヤだから賛成だ」と考えている方も多いと思います。

しかし、もう一度よく考えてみて下さい。あなたの最愛の人がベヅドで病に苦しんでいます。簡単に人の手で死を早めることが出来るでしょうか。

私たち医師の役割の基本は“人間の生命の延長”にあるべきと考えています。その上で、“命の質の向上”を更に追及した医療理念が望まれるのです。“痛みを軽減する”こともそのうちの一つです。

これだけ発達した医学のもとでも、根本から治せる病気は、わずかです。しかもほとんどは、“自己治癒システム”の手助けをするだけにすぎないのです。“治療、検査のためだから痛いのはがまんしなさい”という態度は許されません。しかし、“人間の生命の延長”が医学の基本にあることをふまえて、「安楽死」についても、真剣に考えるべきではないでしようか。


尊厳死について ひと言

“自然な形で死を迎えよう”という考え方が尊厳死の定義になるようです。日本流に言えば“たたみの上で死ぬ”ということでしょうか。

医療の進歩のおかげで、人工呼吸器、人工栄養などで、例えばガンの末期や脳卒中で意識の無いままに延命できるようになりました。点滴などのチューブにつながれた状態を“スパゲティ(マカロニ)症候群”と皮肉られています。

こういった形で、病院で最期を迎えるケースが多くなりました。

「心停止だ。人工心マッサージをするから、家族の方は外へ」とよく医者は言います。私が患者だったら辛い時程、家族といっしょに、妻に手を握られていたいと思います。日本では「病気だからがまんしなさい」という発想が基本にあります。私は“尊厳死”より、それ以前に、“尊厳ある医療のあり方”を私たち医療スタッフも、皆さん方もまじめに考えるべきだと考えています。


癌の告知について ひと言

癌の告知に限らず“不治の病”の診断を患者さんに告げるのはとてもつらいことです。私が仲間の医師100人にアンケート調査したところ、癌の告知経駿者は半数いました。その先生方は以降の治療が積極的に出来たと、ひとまずの評価をしていました。

ところが“自分の家族に癌の告知をするか?”との問に、「する」が15%、「しない」が41%、「保留」が42%という結果でした。これは、“癌の告知はするべき”と、ひと言では片付けられない問題であることを物語っていると思います。

医療を提供する技術者である医師と、医療を受ける患者さんとの間に本来の意味での人間関係が存在することが基本的条件である、という私の持論はこの問題においても唯一の糸口になると思います。

私が顧問医を勤めさせて頂いている方には、元気な時から“癌になったときなど告知をどうするか”話し合って決めています。愛情と責任に基づいていれば癌の告知をする場合でもしない場合でも、納得できるのではと私は思います。


エイズについて ひと言

エイズに対する危機感は、一般人にとっても我々専門家にとってもまちまちです。でも患者数確実に増加しています。今のところ対抗策は予防しかありません。そのためにも正しい知識と自分自身の抗体検査をするように私は勧めています。

 

”自分には身に覚えがないから”とか”どうせ発見されても治療法が無いから” と検査を拒否する方が多く見受けられます。大変嘆かわしく思っています。自分のためだけではなく、人類のことや次の世代のことを少しでも真面目に考えられないものかと言いたいのです。
それでも、私の周囲の友人に呼びかけて300人程度のエイズ抗体検査をしました。

結果の報告を見るときは私自身が緊張します。もし陽性だったら、私も共にエイズという病気と戦っていく覚悟です。幸い、今まで“良かったですね”と伝えるだけで済んでいます。彼らはみんなこんなに安心するものだとは思わなかったと、子供達の世代のことにも気配りできる余裕の笑額で感謝してくれました。


脳死について ひと言

よく脳死と尊厳死、安楽死を全部混同して理解している人がいます。でも、その根本的意味は全然違います。後2者は、すでにこの欄で説明しました。

脳死は“人の死の定義”です。特に、臓器移植の技術が進んだ今日必要になった定義なのです。

医学医療の根本は“生物(人間)の寿命を有効に延長すること”だと思います。医学の進歩のために、人間の死の定義を、従来の心臓停止より早い場合がある脳死に変えるのは大きな矛盾を抱えている論理であると私は考えます。勿論、臓器移植の賛否両論は論議を尽くすべきです。私自身、自分の息子が心臓移植をすれば助かるとなれば・・・と想像します。その時は何を望むかわからないと考えると怖くなります。

脳死の判定基準にもまだまだあやふやなところがあり、心臓停止のように単純明快にはいきません。脳死の決定は、憲法改正にも匹敵する重大事として論議すべきなのです。


薬漬け医療に ひと言

病院で貰った薬を勝手にまびいて服用していると得意げに話す人をよく見かけます。また入院患者さんの点滴の数が多いことがよく話題になります。いわゆる“薬 漬け医療”を非難しての話題です。

どうしてこうなったか? それを考えないといけません。 もし、私が日常の診療で投薬した 半分しか患者さんが服用していないとなると、危険な場合もあると危惧しています。日本の診療報酬体系が薬や検査に偏り過ぎていたことが、大きな原因であることは明白です。 そして最近は医学技街の進歩に 伴い、専門医や大病院指向の傾向が強くなり、医師と患者の間の信頼関係が薄れてきたから冒頭に書いたような事態が起こるのです。

我々医師も、患者となるみんなも、医療の基本となるべき道徳的背景を考え直すべきではないでしょうか。

おりしも、 質実国家を目指す日本なのですから、豊かな医療体制を作り上げるためには医療従事者のみならず、みんなが医療の現実を理解して,正しい方向に向けていく努力をしなければならないと私は考えます。

かかりつけの医師の選び方と付き合い方

“かかりつけの医師”の選び方と付き合い方

NECけんぽ

1996.1

朝日生命保険相互会社発行


現在の保険診療では、医師にかかるには何らかの病名がつかなければなりません。病気でなくても、「大腸ガンの疑い」があるというようなことがなければ、健康な人が病院に行ったり、医師の診断を受けたりしても、それは医療行為とみなされず、医療報酬も保険財源からは支払われません。
 しかし、たとえ今は健康であっても、ほとんどの人は自分や家族の健康に疑問を持ったり、不安を抱えています。つまり病気のケア以前の健康維持という問題や、病気になったらどうしようという問題に、多くの人が悩み、心配しているといってもよいでしょう。

「主侍医」ということと「かかりつけ」ということ 


ここに私が提唱し、実行している「主侍医」というシステムの存在価値が生まれます。主侍医という言葉は、ふつう使われる病気を治すための「主治医」ではなく、健康なときから「あなたのそばに侍(はべ)る」という意
味をこめて私がつくった造語で、契約制の顧問医を指すものです。この主侍医を私が実践した経験から、多くの方が望んでいる「かかりつけの医師」とはどのようなものかがわかるようになってきました。その要望の多くは次ようなことです。

かかりつけ医に対する要望
  1. 今は健康だが色々な相談をしたい
  2. ある症状が出たが、どの専門医にかかればよいかがわからない
  3. 専門医にかかって治療中だが、このままで良いか不安だ
  4. 治療方針の選択や決定などに関して、自分の立場に立って親身にアドバイスをして欲しい
  5. 気になる病気の基礎的知識と最新の治療法などを教えてほしい
  6. 病気にかからないように、またかかっても大した症状にならないよう、生活上のアドバイスがほしい

もちろん病気になったとき、かかりつけの医師がいればまず安心です。しかしそれ以上に、相談相手としての医師を必要としているということがクローズアップされてきました。
ただここで問題になるのが、くり返すようですが、健康時の相談は現在の保険診療では保険点数にならないことです。
 日本ではまだ相談や情報は無料という意識が強いのですが、この意識を変えて、かかりつけの医師を探し、健康相談などをしてもらう契約などをしてみてはいかがでしょう。もちろん個人では負担が大きくなりますから、
グループなどでまとまって、いろいろ相談することも考えてください。
 私の主宰している「健康医学塾」という寺子屋的集まりもひとつの方法だと思います。
近所の方など20~30名が集まり、月に1~2度、教養としての医学を勉強するのです。その講師になってくださる医師を探し、講師のほかに「かかりつけの医師」もお願いしてみてはどうでしょうか。もちろんこの集まりのとき、健康相談をお願いすることもできます。費用も月謝として、子どもの習いごと程度におさめられるのではないでしょうか。

遠くの名医より近くの良医をかかりつけの医師に選ぶ

「かかりつけの医師」ということがいわれていますが、そのような医師を探すことはそれほど簡単なことではありません。特に最近では医師が専門化し、勤務医が多くなってきました。開業医も高齢化し、数も減ってきています。そして患者さんの側でも、専門医に診断をしてほしいという要望が強いのです。
 私も専門医の経験をしてきましたが、現在の医療の枠組みに疑問を感じます。病気は専門的にだけ診ても、わからない場合が多いと思うようになりました。人間の身体というものは総合的に診なければならない……そしてその判断から、もっとも適切な専門医に紹介して、治療するなどの方法を採ることが必要だ、と考えています。総合的に診ることは専門的であることとは違い、ディレクター的な仕事であり、音楽でいえば指揮者のような立場です。指揮者はピアノなどはピアニストほどうまくは弾けないでしょうが、すべてを知り、まとめあげる能力を持っています。この総合的な知識や能力は、今日の医学界でもなかなか評価はされにくいものですが、本当は大変難しく、もっとも大切な仕事なのです。
 さて、そのような大切なあなたの健康のディレクターである「かかりつけの医師」をどのように探したらよいのでしょうか。その条件を下にあげてみました。

かかりつけの医師を選ぶポイント
  1. 近くに住んでいる医師
  2. いつでも診てくれる医師
  3. 何でも相談にのってくれる医師
  4. 心から信頼できて相性が合う医師
  5. 専門医ネットワークをもっている医師<
  6. 探す側の立場として‥主侍医は1人に決めておく(ドクターショッピング-浮気-はしないこと)

これらの条件をすべてクリアするのは困難なことですが、医師との日ごろの人間関係でかなりの部分が可能になります。

医師とよい関係を築くためにはよい患者となるこ亡も大切

「かかりつけの医師」を探すといっても、一方的に探すということではありません。医師といっても人間ですから、好ましい患者像を考え、そのような人には多少の無理も聞きたいということになhソます。
 ほかの医師の悪口を聞くと、私などは、いずれ自分もこういわれるのかと考えずにはいられません。そして「先生」と呼ばれるよりも「00先生」と呼ばれるほうが、個人的に親しさを感じます。「注射をしてほしい」とかの治療法の指定はしてほしくありませんが、クスリは少なく、レントゲンは控えたいなどの希望ははっきりさせたほうがよいでしょう。
 また、診断を受けたらその後の経過を教えてください。特に治った場合、ほとんど連絡がないのですが、治って調子がよいなどという“お知らせはがき”を送ってくれれば、さらに親しさが増します。医師の側でも、その症状の成功した治療経験が増えることになり、自分の治療に自信を持つことにもなります。
いいにくいことかもわかりませんが、よくならないときも、ほかの医師を訪ねる前に、その結果を知らせてほしいのです。
 電話での質問などは、医師が時間の余裕のあるときに‥‥。といっても、これなどはかなりその医師と親しくなければわかりません。前もって電話連絡してよい時間帯を開いておけばよいでしょう。

医師から見たよい患者
  1. 他の医師の悪口を言わない
  2. 医師の名前を覚える
  3. 治ったときなどに医師にメッセージを送る
  4. 治療法は指定しないが希望ははっきり言う
  5. 担当医が忙しい時の連絡は避ける
かかりつけの医師の選び方とつき合い方

治療はクスリを出すだけではない。話をする満足を知ってほしい

医師と患者さんと人間的な関係がなければ、よい「かかりつけ」の関係もできないと考えています。患者さんの中には検査をしたり、クスリなどを出さないと、診察を受けたという実感を抱かないことも多いのです。時間をかけて患者さんの話をよく聞くことは、本当はもっとも重要で手間のかかることなのですが、それだけでは満足されない‥‥。医療とは、どれだけていねいに患者さんと関わるかだと考えているのですが、このあたりにも「かかりつけの医師」を持つ障害がありそうです。
 さて最後になりましたが、相性の合う医師ということでは、ご自分の年齢よりちょっと若めの医師を選ぶということがひとつの目安になります。これは同世代意識があり、話も通じやすいということからの理由です。

専門分化と統合のバランス

ばんぶう

医学における専門分化と統合のバランス

ばんぶう

1994.4

日本医療企画出版


「分析」を基本概念にすえた現代科学がいま、曲がり角に立っている。さまざまな応用分野でズレが生じているからだ。

そこで、「分析」一辺倒から「統合」中心へのパラタイムシフトが起こっている。臨床現場でも方向性は変わらない。


現代は自然科学の終着駅なのか。次のスステップへの乗換駅なのか

あらゆる自然科学の分野において、その終着駅が近づいてきたのではないだろうか。こんなことを言うと、「科学の世界はそんなに浅はかなものではない。まだまだ奥深い未知のことが山積みなんだ」と反論されるかもしれない。また、それとは逆に、「世紀末」という言葉で代表される漠然とした不安から、「行き着くところまで来た」 というムード的共感が得られるかもしれない。
 人類の何万年、何十万年の歴史においてボタンひとつで夜も昼並みに明るく過ごせたり、何百キロも離れたところへ一日で行けたりするようになったのは、わずかこの数百年前後なのである。食生活ひとつを考えてみても、この100年の変化はいかなるものであろうか。家の造りを考えてもそうである。蛇口を捻れば簡単にお湯が出る。エアコンのない家は少なくなった。というより、蛇口からお湯が出ず、エアコンもなく、電気も通わない家には住むことができない人間が多くなっているのである。アウトドアライフが流行している。ところが、そういったキャンピング場に行くと、トイレ、電気の供給完備とある。

<思わず考え込んでしまう。こんなに文明が進み、生活様式が変わってきたのに、一万年前の人間と現在の人間とは、その構造や機能が医学的にみて変わっているのであろうか。答えは 「否」 である。
 そもそも科学とは何であろうか。今までの科学の根本的姿勢は 「分析」 にあったと考えられる。物質は何から出来ているか。分子、原子、素粒子、クウォークと分析されていき、その過程のなかで、核分裂や核融合の現象が発見・解明されていった。

その応用の結果、原子力発電という偉大な文明の利器を得た代償に、「核兵器」という副産物を得た。その副産物は、地球を破壊しうる力を持つものである。フロンガスとオゾン層の破壊に代表される環境問題にしても同じである。人間がつくり上げた科学文明が、我々人間の根幹にかかわってきた。このことを私は、冒頭に 「自然科学の終着駅」と述べたのである。
 それでは、本当の終着駅なのか、それとも、ターミナルとしての乗換駅なのか。
それを見極めることが今後の課題なのである。


「分析」一辺倒の考え方から「統合」概念を中心にした方向へ転換

話を、我々の属する医学の分野に限定してみよう。医学の世界の最近のトピックといえば、「人工臓器」「臓器移植」「遺伝子操作」 「人工授精」などが思い浮かぶ。これは、生命の誕生や変造といった操作を可能にした技術である。本来なら神に委ねる神秘の領域に、人類の「叡知」の手が伸びようとしている。ここで叡知を、「 」でくくったのには意味がある。
叡知とは、「深遠な道理を知りうるすぐれた知恵」という意味だ。
 こういった最先端の技術を支えているのは、まさに分析の成果なのである。試験管を昼夜振っている研究者や、DNAの解析だけをやっている研究者、人工臓器の素材の研究者などなど。これらは「科学の叡知」の結集であって、「人類の叡知」の結集ではないのである。
 超最新の医療技術が人類の掌中にあるのに、実際の医療の環境はどうであろうか。世界でもトップレベルの日本の医療環境。ところが、医療への不安や批判が連日のように新聞紙上を賑わしているのである。
 人間の生命の創造にかかわることができるようになったのに、かぜや腹痛といった日常的な病気に対する診療体制への不満が慢性化。ましてやガンの治療などにおいても、「日本中どこでも安定した評価の高い治療を差別なく受けられるL状態に程遠いのである。いい治療を受けられるかどうかは、「運」と「人脈」によりかなり差が出てくることを皆が知っているのか、または過敏になりすぎているのか、「いい病院、いい医者探し」に躍起となるのである。
 こういった「科学の発達」と「実際の応用」のズレがいろいろな分野で起こっていると思われる。そこで、先ほど述べた「自然科学の終着駅」を、さらにその先への「乗換ターミナル」とするには、「分析」一辺倒の考え方から、「統合」という概念を主体にした方向へ転換するべきと私は考えている。
 「ガン細胞は取り除いたが、患者さんは死んだ」という皮肉に代表される「臓器中心型」の医療から、人間全体を視野においた医療を考える時代になったのである。医療という応用科学の分野においては、「分析から統合への移行」ということが特に急がれる。
 こういった視点で、医療システムの今後の方向性を考えてみると、専門分化に偏った医学教育や医局制度を大幅に見直さなければならないであろう。
 もちろん、基礎医学研究という立場では、従来の分析中心型の手法がある程度主流にならざるを得ないだろうが、臨床医学においては、統合中心型の研究や教育システムが必要である。現在の大学の臨床医学研究室のように、「研究」「教育」「診療」を同時に行うということは一見高度なような錯覚を与えるが、実はどの分野も不完全な体制が、甘えの構造として成立してしまうのである。
 このシステムの構築に際しても、「分析と統合」の考え方が生かされる。研究専門家、教育専門家、診療専門家という横割りシステムと、それらの有機的なつながりの構造をつくるべきなのである。現在のシステムは全くの逆である。循環器や呼吸器、耳鼻科や眼科と縦割りにして、それぞれのなかで研究、教育、診療を混在させて、しかも、それぞれの縦割り間のネットワークがほとんど機能していない。
 医学、医療の現場で真摯な研究や診療活動を行っている医師にとって、このように感じているものは多い。しかし、封建的で、かつ巨大な日本の医療システムをどのように変革していくかは、考えただけでクラクラするような途方もないことである。


相談に応じ総合的な説明・指導を行う健康管理「主侍医制度」を提唱

私は、臨床医療の一線の現場において、「分析と統合」のバランスを念頭においたシステムとして 「主侍医制度」を提唱している。国民の医療へのアクセスのシステムを一定化することにより、より効率よく、しかも品質の安定した医療を国民の誰もが受けられると考えたのである。
医療を交響曲に例えれば、指揮者のような医師を養成することである。「どんな病気でもまず最初に相談でき、専門的診断や治療に関しては必要に応じて最適な専門医に依頼するが、総合的な説明や指導は行ってくれる。また、健康なときから相談ができ、すべての医学データを常に保管管理してくれる」。こんな医師のことを私は 「主侍医」と呼んでいる。主に治す医師を「主治医」と呼ぶのに対して、健康なときからいつも側にいる医師のことを「主侍医」として区別している。
 国民みながこの主侍医を持つことにより、むだな「名医探し」や「ドクターショッピング」「二重投薬」などが解消されるであろうし、何よりも安心で安定した医療を誰もが受けられるようになる。
 「主侍医」になるには、一定の経験と継続的な最新医学情報の研修が必要である。もちろん、「主侍医」に対してはそれなりの対価を支払う必要があるが、長期的には医療費の抑制にもつながるシステムと思われる。
 私の医学事務所では、「主侍医システム」のプロトタイプとして五年前から「主侍医倶楽部」を運営している。私が自ら主侍医として100名くらいの方の健康管理のお世話をしている。実際の運用では合理化していかないと経済的に成立しないであろうが、倶楽部会員の方からは喜ばれているし、実際多くの病気に未然または軽症のうちに対処できた。これは、各個人にとって大きなメリットがあるし、国家的に見ても医療費の抑制につながっている。今後、私以外の第二、第三の主侍医を養成していきたいと考えているが、国家的な主侍医システムの誕生を切に願っている。

冷房対策

シニア世代の医学ファイル

冷房対策

毎日が発見

2000.7

ファンケル出版 発行


基本は冷やしすぎないこと

最近は家庭にもクーラーが普及し、夏は随分過ごしやすくなりました。でも、快適だからといってクーラーに頼り過ぎると、冷房病や夏バテなどを招きます。
シニア世代では、女性だけでなく、男性にも冷房がこたえる人が増えてきます。冷房病を予防する基本は「冷やし過ぎない」ことです。室温は26~28℃を目安に外気温と極端な差が無いように。又、噴出し口の風が直接あたらないように、風向きにも注意しましょう。温度を一たん設定すると、気候や身体の変化に関係なく、そのままの状態で使い続ける人がいますが、面倒がらずにこまめに、快適な温度、風向き、換気などの調節をおこないましょう。
 又、汗をかいたまま、クーラーにあたると、気化熱で体温が急に奪われて体力を消耗します。冷えた室内に入るときは、よく汗をふいてからにしましょう。ちょっとした注意を、おっくうがらずに実行することが大切です。
 外出先での冷房対策としては、羽織るものや、ひざ掛けなどを用意して自己防衛することをお勧めします。
 又、すぐにクーラーのスイッチを入れてしまう人が増えていますが、出来るだけ自然に近い状態で、夏の暑さを楽しむくらいの気持ちを忘れないことが、身体には良いのではないでしょうか。
 庭に打ち水をする、昼ね用のござ、パリッとのりの効いた木綿のシーツなど、涼を演出する昔の日常生活のひとこまを思い出してみると、夏を快適に健康に過ごす知恵やヒントがいっぱいです。

カビやほこりから、「空調病」になることも

今年になって初めてクーラーを使用する前には必ずフィルターの掃除をしましょう。急に暑くなったからといって、半年以上放ったままの状態でスイッチを入れると、フィルターやエアコン内部に付いたカビやほこりを部屋中に撒き散らすことになり、アレルギー性肺炎の一種「空調病」にかかることもあります。「花粉症が長引いて」とか「夏カゼが治らなくて」なんていう悩みを持つ人はエアコンのカビやほこりを疑う必要もあります。又、数年に1度は専門の業者や掃除サービス会社にクーラーの掃除を依頼するのもよいでしょう。
 昔は梅雨明けの頃に「大掃除の日」を決めて、地域全体で畳の虫干しや床下の掃除をするのが、年中行事でした。湿気を取り除き、カビやほこりをきれいにして夏を健康で快適に過ごす知恵だったのです。

こまめにちょこちょこ水分補給

夏の暑さは胃腸機能を低下させます。そんな時には夏の旬の緑黄食野菜の出番です。身体が欲している栄養素を多く含んでいます。お腹の調子を整えるオクラ、利尿作用を持つきゅうり、免疫力を高めるビタミンAが豊富なピーマンやかぼちゃ、胃液の分泌を促進するトマトなどを積極的に食べるようにしましょう。
 又、香料の効いた料理は食欲を増進させます。年中暑い東南アジアの料理には、唐辛子やカレー粉などの香辛料がふんだんに使われています。バジルやペパーミントなどのハーブを上手に使うのも食欲不振を解消するのに役立ちます。
 シニア世代が特に気を付けたいのは暑い時期の水分補給です。水分補給を怠ると、血液が濃くなり心筋梗塞や脳梗塞を起こしやすくなります。
 又、炎天下を歩く時は、熱射病による脱水にも用心しましょう。
 水分補給は、冷たい飲み物をごくごく飲むよりも、人肌程度の生ぬるいお茶や水をこまめにちょこちょこ補給するのがいちばんです。
 一気に大量の水を飲むと胃酸が薄まり、膨満感で食欲不振の原因にもなります。
 汗をよくかく夏は水分が排出されて尿が濃くなり、女性は膀胱炎を起こしやすくなります。トイレが近くなるのが嫌だといって水分を摂らない人がいますが、膀胱炎の予防にも水分補給は大切です。

むくみは不調のサイン

むくみは不調のサイン

むくみ

メイプル

2000.9

集英社 発行


第1回目である今回は、特に女性に多く見られむくみについてお話しましょう

そもそも「むくみ」というのは、医学的には“浮腫”といい、体内の細胞の間の組織が通常よりも沢山の水を含んでいる状態です。自分でチェックするには、むこうずね、つまり、すねの前面の内側(脛骨けいこつと腓骨ひこつが接近するところ)を指で押してみて、指のあとがへこんで残るようなら、むくみです。

はれぼったく、水ぶくれのように感じるむくみの中身は、水なのです。身体は沢山の水を含んでいます。体重の約2/3は水が占めている程。その水の多くは細胞の中にありますが、血液にも含まれ、細胞と細胞の間のクッションとなる組織にも組織液として含まれています。

これらの水は身体の調整機構によって、それぞれ一定に保たれています。ところが、何かの病気で血管の圧が非常に高くなったり、血液成分が変化して浸透圧が低くなったり、血管が痛んで弱くなったりすると、血管から水分が漏れ出て組織液が異常に増えることがあります。

それが、むくみという症状として現れるのです。

しかし、むくみのすべてが病気から起こるというわけではありません。例えば、一日中立ち仕事をしていたり長時間同じ姿勢を続けていたりして、足がむくむのは、健康な人でもよく起こること。これは重力によって水がしたの方へと集まったため。

つまり、身体の中で組織液の分布が変わっただけで、組織液が増えたわけではありません。時間がたてば自然に治る、心配の無いむくみです。

それでは、悪いむくみとはどのようなものでしょうか。
一つの目安になるのは、体重の増加を伴なったむくみ‥‥異常に組織液が増えるとその分体重が増えるのです。
他の症状がある時や、立ち仕事など、むくみの原因に心当たりが無いのに、いつもむくんでいるという場合‥‥内分泌、腎臓、心臓、肝臓などの病気が隠れている可能性があります。


むくみセルフチェック
むくみの場所 特に気になるむくみ 他の症状 考えられる主な病気
特に目の回り 体重増加 皮膚の乾燥 疲労感 寒気等 慢性甲状腺炎
特にまぶた 風邪の症状の2~3週間後にむくみが出た 急性糸球体腎炎
まぶた 顔 頭部   上大静脈症候群
顔と下半身 まぶた 足のすね 尿の量が減った ネフローゼ症候群
下半身   腹が張っている 食欲不振 倦怠感 肝硬変
  足の圧迫感 痛み 静脈瘤 血栓性静脈炎
下半身を中心に全身   息切れ 動悸 疲労感 食欲不振など 貧血
うっ血性心不全
月経前の周期的なむくみ   月経前浮腫
    特発性浮腫

「悪いむくみ」の場合、心配な病気が幾つか考えられます。どんな時に、どんな病気の恐れがあるのかきちんと知って、気になる時は必ず早めに病院で受診するようにして下さい。


慢性甲状腺炎

30~50代の女性に多い甲状腺機能低下

顔のむくみ、特に目の回りのむくみがある時に心配なのは、慢性甲状腺炎が重くなり、甲状腺機能低下症を起こしている場合です。慢性甲状腺炎は「橋本病」呼ばれる内分泌の病気で、女性に多く、特に30~50代での発症が目立ちます。本来、健康を守る働きである免疫が自分の身体に対して働いてしまう、自己免疫が原因で起こると考えられています。
 この病気は軽いうちはのどの甲状腺が少しはれているという程度で他の症状は無く、甲状腺の機能にも異常はありません。
ところが、病気が進行すると、甲状腺の機能が低下し、甲状腺ホルモンの分泌が不足することがあるのです。
 甲状腺ホルモンは体内で色々な物質の代謝を促進する、いわば元気の素ともいえるホルモンです。その甲状腺ホルモンが不足するために代謝が落ち、むくみや体重増加が起こったり、疲れやすい、寒気を感じる、皮膚が乾燥する、便秘、食欲の低下といった様々な症状が現れます。また、むくみは顔に目立ちますが、全身に及び、押してもへこまない張りのあるむくみであることもこの病気の特徴です。
 慢性甲状腺炎をはじめとした甲状腺機能低下症で甲状腺ホルモンが不足している時は、ホルモンを補充する治療を受ける必要があります。血液中のコレステロールが高くなるので検診で発見されることもありますが、気になる症状があるときは早めに受診しましょう。


急性糸球体腎炎

早期発見が慢性化の防止

むくみというと、腎臓病を連想する方が多いでしょう。実際、身体の老廃物を排泄する、体内の水分や、塩分のバランスを一定に保つ、血圧を調整するホルモンを分泌するまどの腎臓の機能が落ちると、むくみやその他の症状が現れます。
 しかし、慢性化した腎臓病で症状が現れるのは、病気がかなり進行した時。慢性化させる前に、検診を受けたり、急性の腎臓病である急性糸球体腎炎を見逃さず、早期に発見したいものです。
 急性糸球体腎炎(急性腎炎)の殆どは、扁桃腺や咽頭炎にかかってから、2、3週間後に起こります。顔のむくみや尿の量が減る、血尿などの症状が現れ、高血圧や尿タンパクが検査で解かります。
 腎炎が起こるきっかけは、溶連菌をはじめとした細菌やウイルスの感染。返答炎や咽頭炎がおこっている間に、複雑な免疫現象がゆっくりと進行し、やがて、腎炎が発症するわけです。
 小学校低学年から思春期の子供に多い病気ですが、大人に起こることも少なくありません。早期に発見して慢性化させないことが、肝心なので、風邪の症状の後にむくみが出た時には、すぐに、受診をしましょう。腎炎と解かった場合は、安静と食事療法を中心とした治療を受けることになります。


上大静脈症候群

心臓から上のむくみや血管のはれに注意

上大静脈という血管が、何らかの原因で狭くなったり詰まったりした時に起こります。心臓から上の両腕や首、頭部を流れた血液は静脈を通って上大静脈へと集まり、心臓へ戻っていきます。この上大静脈のトラブルで血液の流れが滞ると、両腕や首、頭、顔面にむくみが出たり、はれや充血が起こり、重症になると呼吸困難やめまい、失神発作を起こすこともあります。
 原因となるのは上大静脈の炎症や、肺か胸いずれかの腫瘍や炎症など。悪性腫瘍という可能性もあるので、胸から上のひどいむくみや静脈のはれ、ふくれに気づいた時は、ただちに受診しましょう。


ネフローゼ症候群

強いむくみが特徴

血液中のタンパクが尿に大量に漏れ出てしまう病気です。原因は違っていても一群の同じ症状が起こってくるものを症候群といいますが、ネフローゼ症候群の場合も原因は様々。どのような原因であれ、1日に3,5g以上のタンパクが尿に出てしまう場合をネフローゼ症候群といいます。
 自覚症状は強いむくみ。最初は顔、特にまぶたがむくみ、やがて足もむくんで、すねを指で押すとへこむようになります。尿の量が減り、さらに重症になると身体中がむくみ、胸や腹に水がたまって呼吸が苦しくなり、食欲も落ちてきます。検査をすると、尿タンパクが陽性となり、血中コレステロールが高くなっていることが解かります。タンパクが尿に出てしまうために血液中のタンパクが極端に少なくなり、浸透圧によって血液中の水が漏れ出てしまいむくみが起こっているのです。
 子供に多く、子供の場合には治りやすい病k見なのですが、大人の場合は少々厄介です。慢性腎炎や、膠原病、糖尿病などが原因となっていることが多く、安静と食事療法、薬物療法などでの長期の治療が必要となります。


肝硬変

ウイルス性C型肝炎が進行していることも

肝硬変はアルコール性肝炎から、というイメージがありますが、実は日本人はウイルス性のC型肝炎による肝硬変が多いのです。C型肝炎は他の肝炎に比べて症状が軽いため、気付かないまま慢性化し、肝硬変へと進む頃に、むくみをはじめとした症状で発見されることも。肝臓が悪くなると血液中のタンパクが減り、水分が漏れてむくみが出ることがあるのです。
 むくみ、腹水による腹の張り、食欲不振、倦怠感などの症状があるときには、すぐに肝臓の検査を受けましょう。又、C型肝炎は血液を介したウイルス感染でおこるので、かつて輸血を受けたことがある人も検診を。慢性肝炎、肝硬変では安静と食事療法、薬物療法、場合によっては、インターフェロンでの治療を受けることになります。


血栓性静脈炎

足の静脈血がつまる

足の静脈は圧迫を受けやすいため、血液が滞ったり詰まったりしやすく、血栓性静脈炎を起こしがちな部位。多くの場合は手術の後がケガ、他の病気で病床にあるときなどに起こりますが、肥満の人や脱水を起こしている時、あるいは、長時間の旅行などで座り続けている時にも起こることがあります。
 むくみと同時に圧迫感や痛みがあったり、血液の詰まった場所から静脈瘤ができることも。また、静脈炎が重くなると、足全体がはれて痛み、歩けなくなる場合もあります。
 軽い時には患部を冷やしたり消炎剤などで、重い時は血栓を溶かす薬などを使って治療を受けることになります。


貧血

重症になると、むくみが出る

貧血というと、だるさや動悸、息切れといった症状を思い浮かべます。しかし、例えば月経の出血量が多かったりしてじわじわと鉄欠乏性貧血が進行し、気づかないままでいると、かなり重症の貧血となり、むくみが現れることがあります。心臓に負担がかかるために、下半身などの静脈の血液が滞り、むくみが出てしまうのです。
 貧血にも色々な種類がありますが、女性に圧倒的に多いのは鉄欠乏性貧血。鉄剤の服用などで、治すことができますから、心配なときは病院で受診しましょう。


うっ血性心不全

心臓病、高血圧の人、要注意

全身のすみずみに血液を送るポンプの働きをしている心臓が弱り、ポンプ機能が低下した状態が心不全です。心不全の症状は、動脈に血液を送り出す左心室か、静脈からの血液が戻ってくる右心室か、いずれの機能が低下しているかによって異なります。左心不全の場合は気管支ぜんそくに似た症状が現れますが、右心不全の初期の症状はむくみ。うっけつ性右心不全になると右心室の収縮力が弱まり、血液を吸い上げる血からが弱くなって、静脈の血液が滞り、むくみが出たり、肝臓がはれたりといった症状が出るのです。足に始まるむくみで初期の右心不全が発見されることも少なくありません。
 原因は心筋梗塞や狭心症、弁膜症、高血圧などの心臓にかかわる病気。原因となる病気を持っていたり、そうでなくても、下半身を中心としたむくみが頻繁で、心不全が心配という人は、循環器内科で相談し、医師の指示に従った日常生活を心がけ、心不全を予防しましょう。症状がすでに出ている場合には、状態に合わせて心臓の収縮力を増加させる薬や利尿剤での治療を受けることになります。


月経前浮腫

PMSの一症状

月経の前に起こり、月経が始まると治まるむくみが周期的に繰り返される時は、<PMS(月経前症候群)の一症状としてむくみが起こっている月経前浮腫なのです。
 PMSがなぜ起こるのか、はっきり解かっていませんが、排卵後のホルモンの変化から、引き起こされる体内水分貯留が先ずあって、その上に様々な症状が起こるのだろうと考えられています。月経前浮腫や体重増加、乳房の張り、頭痛、便秘、肌荒れ、などはいずれも体内スイブbb貯留によって、起こる症状。さらにPMSでは、自律神経のアンバランスも生じ、イライラなどの精神症状を訴える人もいます。
 月経の始まる1週間から10日前くらいからは、水分貯留を防ぐために、水分・塩分の取りすぎを控え、充分な休養と睡眠を心がけることで症状を和らげることができます。しかし、様々な症状が重なってつらい場合は、婦人科で相談しましょう。症状に応じて利尿剤や、消炎鎮痛剤、精神安定剤、などの治療を受ける場合があります。


特発性浮腫

原因が不明なむくみ

特に病気は考えられず、原因がはっきりしないむくみを特発性浮腫といいます。むくみ以外の症状は無く、立ち仕事を長く続けた時などにむくむけれど、一晩休むと翌朝には治っている、という時などは、殆どがこの特発性浮腫だと思われます。
 水分や塩分を取り過ぎないようにし、一定の姿勢を長時間続けないようにするなどの注意をしましょう。頻繁に起こる時は、病院で相談してみましょう。利尿剤で治療することもあります。

 

 

生活習慣病予防対策

学校保健と地域保健が手をつないだ生活習慣病予防対策

公衆衛生

2001.6

The journal of public health practice 発行


全国の事例や活動に学ぶ

学校保健と地域保健が手をつないだ生活習慣病予防対策

生活習慣病の予防は小児期から行う必要がありますが、実行のためには種々のハードルがあり、中でも特に学校保健との連携は難しいといわれています。

石川県では平成11年度予算で、厚生部と教育委員会が学童に対する健康教育をそれぞれ独立に企画したところ、財政課から一本化して行うよう指示があり、思いがけず両者が本格的に手を組んだ事業が誕生しました。

当センターは、各医療圏ごとに一つ選ばれたS小学校と連携して児童とその保護者を対象に様々な試みを行いました。事業の担当はそれぞれに分かれていますが、実際には学校と保健所が協力して行いました。

県教育委員会が行った「生活習慣等実態調査」によると、児童では「朝食をほとんど食べない」が2.1%、「ほぼ毎日夕食後から寝る前までに何か食べる」が23.4%あり、保護者では「学校における給食指導で現在よりもカを入れてはしいもの」の1位は「栄養バランスのよい食べ方」ということがわかりました。

これらの結果を踏まえ、学校では全員参加の「校内すこやか教室」で朝食の質の見直しや「すこやか健康カード」を利用した自分自身での健康管理を、当保健所では自由参加の「学童食育よもやま塾」(下写真)でおやつの成分や栄養表示の見方を中心にした学習を行いました。また、保護者には「キレる子どもにしないために」と題したフォーラムを開催し、食事と子どもの心の関係を学習しました。しかし自由参加の行事では、健康への関心が高い児童や保護者が主として参加する傾向にあるという問題点がみられました。

2回目の「子どもの健康・食育検討会」で各事業の評価を行いましたが、学校関係者から「学校の風通しが良くなった。学校をもっとオープンにし、外からの人材を取り入れる必要性を感じた。」との発言もありました。

今年度は3年目を迎え、新たな学校をモデル校として事業に取り組んでいるところですが、今後は

  1. 学校の総合学習などの中にカリキュラムとして定着させる
  2. 校内すこやか教室と学童食育よもやま塾の一本化を図り本当に参加が必要な子どもが全員参加できるようにする

必要があります.

この事業が地域保健と学校保健の連携強化の追い風となり、保健所が地域の専門家集団として、この事業のみならず学校保健全体を支援していけるようになりたいと考えています。

●たなかたかこ:前石川県石川中央保健福祉センター健康推進課
 連絡先:石川県立金沢女子専門学校 〒921-8042石川県金沢市泉本町6-105(℡ 076-243-2168)


コメント(寺下謙三:寺下医学事務所)

「成人病」という呼び名が「生活習慣病」というように変わって数年がたつ。元来、「成人病」という呼び名は医学用語として生まれたものぞはなく、日本の厚生省が1950年代より使いはじめた行政用語であり、これに該当する言葉は欧米にも存在しない。近年、日本人の疾病構造において食生活を中心とした生活習慣に関与する糖尿病、高血圧症、高脂血症、痛風、肥満症などの慢性病が急増している。また、こういった病気にかかる人の年齢層が低下してきたという理由もあり、この一連に分類される病気は「成人病」という言葉から連想されるような中年以降の壮年、老年に限定される病気ではないということの警告を込めて,厚生省は1997年「生活習慣病」という呼称を使おうと提唱したのである。

実際に小児の肥満や高コレステロール血症、高尿酸皿症などが高頻度に出現してきている。原因はいろいろあろうが、ファーストフードなどをはじめとした食生活の変化をまともに受けているのが、ほかならぬ子どもたちである。また、小学生以下の段階の食生活習慣は、成人後の健康状態にも強く影響を与えるほか、学校でのいじめの問題、不登校、青少年の犯罪の多発などにも少なからぬ影響を及ぽしているといえる。生活習慣といえば、食生活がほぼ中心ではあるが、運動習慣、テレビゲームなどの遊戯習慣、喫煙、飲酒、麻薬類などの問題も未成年の間で問題になっている。その他、人間関係を中心とした精神心理的なことも広い意味での生活習慣に含まれるであろう。

しかし、こういった児童にとっての生活習慣の重大さはわかっていても、学校の内部において、その改善に具体的に取り組むのは意外と困難なのが実情である。とりわけ日本の場合、学校教育の管轄と、保健事業の管轄の官庁が異なるために、学校自体も総合的に取り組むことが困難である。今回の試みは、財政上の理由から偶然にも地方自治体の教育と保健の立場を交えて、小児の食生活の改善に取り組んだ事業として注目に値する。学校では全員参加の「校内すこやか教室」を中心に、児童の自分自身の健康管理のための知識の指導を行い、保健所では自由参加の「学童食育よもやま塾」を実施したが、いずれも児童自身の自覚を促すという考えであり非常に評価できるものである。今後こういった活動を踏まえて、普段のカリキュラムとして小児の生活習慣の改善のための総合学習の場を作り,自由参カロの健康塾にも積極的に参加する児童を増やす努力をするという意気込みは特に支持したい。日本は官庁制度が優先するあまり、縦割り的行動が支配してきたが、健康分野でも、例えば産業保健は旧労働省、家庭の保健は旧厚生省の管轄であり、その協同作業が困難であったが、今回の厚生労働省の新設で、そのことは改善していくぞあろう。従来の枠にはまったやり万を踏襲するだけでなく、今回の事例のように、現場主義を取り入れ、より実践的に役立つ方法を採用していくことが大切であろう。

こういった事例を全国的にも紹介し、学校保健と地域保健の連携の重要さをアピールしていただきたいと切に願うものである。

医師の常識を問う8つのオピニオン

学力偏重の入試システムで何が悪い

医師の常識を問う8つのオピニオン

ばんぶう

2001.7

日本医医療企画 発行


相次ぐ医療過誤の報道のもと、医師のモラルの低下を追及される場面によく遭遇する。
「患者の話を聞かない医者」「偉そうな医者」「無愛想な医者」「本当に患者のことを考えない医者」 - いろいろな批判を耳にする。そして、その理由として「偏差値教育の弊害」という決まり文句が出てくる。
 教育全体をとっても「ゆとり教育」などという、言葉が独り渉きして、今ごろになって「学力の低下」の危機が叫ばれている。 まったくあきれる事態である。
 日本は平等という言葉が好きで、しかも平等の意味を勘違いしていて、内心は平等が本当は良いとも思っていないという、矛盾に満ちた国民性があると、払はひそかに思っている‥「学力テストに順番をつけるな」「運動会で徒競走はやらない」「東大が何だって言うの」と口を揃えて言うくせに、幼稚園からお受験、お受験と騒ぎまくる国民である。
 私は学問にしろ芸術にしろスポーツにしろ、英才教育をもっと奨励してもいいし、国が補助したり、資産家がパトロンとして名乗りを上げたりすることがあってもよいと考えている。
 今や、日本は英雄が牡まれるのを嫌悪する風潮が染み付いている。国民集団ヒステリー的総嫉妬状態である。
少し何かに秀でた者が出現すると、引きずり下ろしたくな。教育の平等と称して、出来の悪い子供に集団全体を合わせようとすることが正義と勘違いしている。ある分野で秀でた子がいれば、それを伸ばしてあげる環境を提供することこそが、むしろ国全体にとって大切なのではなかろうか?

評価基準のトップはやはり「腕」

自分の身体を預けることを考えれば、当然の結果と言えよう。
 しかし、「安心感」「信頼感」を与えてくれる人柄や「どれだけ親身になって話をしてくれるか」といったコミュニケーション能力など、人間としての総合力にも、同様に厳しい目が向けられている。
 患者意識の高まりを反映してか「診療情報をどこまでオープンにしてくれるか」という意見も少なくなかった。

アンケートは5月下旬に実施(20~60代の一般市民の記述式で解答を得た)

弊社アンケートより
Q 医者を評価する基準は?(複数解答)
技術 41人
人柄 38人
コミュニケーション能力 38人
情報開示の度合い 11人
知識 9人
世間の評判 6人
経験 5人

話は随分脱線したかのようだが、医学部入試の話も同じである。
「数学などの学力を偏重したから、モラルのない医師が生まれて現状の医療がある」という論理は一見当たっているようではある。よしんばその論理をある程度許しても、「人間性が大切だから、学力テストは止めて面接試験にしよう」という短絡的な判断はとても許し難いものがある。
 しかし、世の中はその方向に向いていて、最近の大学の受験要綱を見て驚くことに、後期の試験などはほとんど面接だけで(センター試験も参考にするのだろうけれど)決まるところもみられる。競争率10倍や20倍の受験者の中から面接で決めるのである。ここに大きな落とし穴がある。「学力偏重はいけない」イコール「人間性をみる面接」という図式は極めて短絡的である。面接を実施する人がどういう基準で合格者を選ぶのか、全くもって不透明である。
大抵は医学部の教授たちが持ち回りで面接官になるようだが、彼らに人間性を見抜く力が特別にあるのか。10人、20人の中から1人の医師に適した若者を選ぶなんて神様のような仕事である。それを初対面の数十分で何が分かるというのか。
 今や、医学部予備校では「受かる面接のノウハウ的授業」があると聞く。
その結果、演技力を養った若者がもし受かるのなら怖いし、面接官の個人的感情や、下手をすれば個人的損得で選ばれるようなことが万一あれば(実際に入試問題や国家試験問題が漏洩されているではないか)、もっと怖い事態である。
 こんなことなら、多少の問題はあるにしても、すっきりと学力で競ってもらったほうが安全であるように思える。そして面接は、複数の精神科医が医師として極めて適性に欠けると判断した学生のみをゲートキープするというのが妥当ではなかろうか。
 面接重視派の「良い医師になるには、それなりの強い動機が必要」ということには賛成である。「医師になりたい強い動機」を調べるには、長期間そのために努力することができるかどうかを見ればいいのである。確かに数学や物理学についての天才的発想力は医師には必要ないであろうが、知識や技術を身に付けるために、たゆまぬ努力をする忍耐力は不可欠である。かなり大量(全部覚えるのは不可能なくらい)の受験用の問題を設定してそれを公開し、それらを各大学がアトランダムに比較的大量に出題することにより、受験生の努力の度合いを、それこそ公正に判定するような方法こそが、少なくとも国公立の医学部には採用されるべきなのではないか。私学の場合は、企業の新入社員面接と同じく、一定の特色ある人材がほしいという要望を生かすうえで、面接で多少好みに応じた人材を優先することは許されるかもしれない。
 信頼できる医師を育てるには、入学試験の改革だけでは駄目である。
入学後の教育システムがさらに大切であるが、その論議は別の機会に譲りたい。

共にプロフェッショナルとして

共にプロフェッショナルとして医療レベルの向上に貢献を

薬立つ話

2001.8

協和発酵工業 発行


医薬分業のシステムが日本に導入されはじめてから、もうかなりの年月がたちます。
 最初に訪れたブームの時は「薬剤部を医療機関の敷地の外に出しただけ」のいわゆる第二薬局が多く、本来の医薬分業の意義が十分に発揮されていませんでした。
 しかしここ数年の医薬分業ブームは様相が全く異なります。インフォームドコンセントやセカンドオピニオンの必要性が叫ばれてきた社会的背景もあり、保険薬局のスタッフは患者さんに渡す薬の説明を、よりきめ細かに行うようになりました。
 薬の相互作用による併用禁忌などについて、処方医と薬剤師によるダブルチェックが行われるようになり、実際に投薬ミスも減少してきていると思われます。
 患者さんも、そういったメリットを期待して、保険薬局で薬をもらうことを希望する方が増え、また、医師の処方せんを自宅近くの保険薬局に持って行くケースも増加してきました。
ヨーロッパでは薬局薬剤師にかなり大きな権限があり、医師の処方に疑問がある時は、その権限と責任において処方の変更も可能と聞きます。
 日本では薬の種類も多く、まだそういった形は一般化しないでしょうが、今後、共に医療プロフェッショナルとして「薬診連携」を強化し、薬剤師さんが疑問に思ったことは気軽に、ないしは日常業務的に医師に確認や相談を行えるような雰囲気とシステムを作ることで、医薬分業は日本の医療レベルの向上に、より大きく貢献するものと期待しています

安らぎのある住環境

生物学的衣食住から社会学的衣食住へ

安らぎのある住環境

消費科学

2001.9

日本繊維製品消費科学会


生物学的衣食住から社会学的衣食住へ

昔から人間の生活の基本は「衣食住」であるといわれている。生きるためにはまず食べなければいけないのは動物として当然であるから、「食」は絶対的必要条件であろう。「衣」と「住」はその次の必要条件となるのであるが、現代人にとって「食」とほぼ同列の必要条件と断定してもそんなに多くの反論はないであろう。確かに太古の昔から曲がりなりにも住処といえるものは例え洞穴とはいえ存在したであろうし、寒さなどをしのぐための最低限の身にまとうものは存在している。こういった意味での「衣食住」は、私のオリジナルの定義であるが、いわば「生物学的衣食住」といえるのではないだろうか?

この「生物学的衣食住」に対して、私は「社会学的衣食住」という概念を提唱したい。世界的視野で見ると、「生物学的衣食住」を考えなければならない地域はまだまだ多いのであろうが、少なくとも今回の論議は、地域を日本に限定して話を進めていきたい。「生物学的衣食住」が「生きていくため」であるなら、「社会学的衣食住」は「快適に暮らす」ためということになる。何も快楽主義的な話ではない。もっと根源的、根本的なレベルの話である。昔、私が学生だった頃、自称文学青年、文学少女の間でよく話題になったことだが「生きるために食べる」のか、はたまた、「食べるために生きる」のかという命題がある。前者がやせたソクラテスで、後者が太った豚にも例えられた時代である。勿論後者を軽蔑してのことである。でも、こういった論議は最近ではそぐわなくなった気がするがいかがであろうか?もっと自然な構えで「生きるために食べる」のか「食べるために生きる」のかという命題を考えられるようになった気がする。私の定義では、前者が「生物学的食」であって、後者が「社会学的食」であるということは言うまでも無い。こうして考えると、紀元後の衣食住の発達の歴史は「社会学的衣食住」の発達の歴史といえるのではないだろうか。

衣食住から医職JEU(じゅう)へ

前項で述べたように「社会学的衣食住」を考えていくと、キーワードとして「快適」「満足」「安心」などが浮かび上がる。現代の「衣」についていえば、寒さや外敵からまもる「生物学的衣」に、カッコよく見せる「社会学的衣」の要素が加わってきている。それぞれの職業にふさわしいユニフォームも「社会学的衣」の意味合いの部分が大きい.「食」も同様である。飢えからまもる「生物学的食」から、美食を追及する「社会学的食」の要素が現代の食生活には欠かせないものとなっている。勿論、仲間と楽しく食事をするという人間交流のツールとしての食も「社会学的食」に分類される。住についても全く同じ事が言える。寒さや自然の過酷さから守る「生物学的住」に、快適性、便利性を追求した「社会学的住」の要素が建築の重要アイテムとなってきている。

こういった「社会学的衣食住」では、日本において「住」の部分が他の「衣食」に比べてやや立ち遅れている感があると私は日頃から感じているのであるがいかがであろうか。その原因の大部分は土地に対する過剰な愛着(それを執着というのだろうが)が発生する国民性と土地所有制とその価格形成の歪みに起因すると私は考えているのだが。いまどきの日本人は食べるものを奪いあったり、着る服を奪い合わないが、住居の所有をめぐって、親子兄弟までが醜い争いをするし、住宅ローンが一生の目的化したりしている現状から容易に想像がつく。そんな中で、どのような「住まいのあり方」が望まれるのか論議していきたい。

また、私は、現在の「いしょくじゅう」は「医職JEU」のことを考える必要があるといっている。すなわち、健康のこと、仕事のこと、そして遊びのことである。最後の「JEU」はフランス語で「遊び」という意味である。これらが生活の中でバランスをとれていれば快適であり生きがいというものが育まれやすい。社会学的住を考える上でも、このことが大切と考えている。

辛いのも、楽しいのも人の触れ合い

人間のみならず、動物は生きていく上で、何らかの形で群れをなしている。天涯孤独の一匹狼とて、行きずりの出会いを楽しむものである。いわんや、一般的な人間や動物にとって仲間との触れ合いは生きていく理由の最大といってよい動機なのである。話を人間世界に限定してみよう。子供たちの世界では、今いじめということが問題になっている。これは、実は今に始まったことでもなく、子供たちに限ったことでもない。昔からある問題であり、大人社会でも存在する問題である。このいじめの本質についての論議は、本題のメインテーマではないのであるが、いじめの方法論(?)について考えてみたい。最強のいじめ方法は、お金を要求したり、肉体的に痛めつけたりすることではないのである。

最強のいじめ方法として子供たちが採用しているのは実は「しかと」なのである。つまり「無視する」ということである。大人の世界でも事情は似ている。いま、企業のリストラが注目されているが、退職勧告の方法として「窓際族」という言葉があり、ひどい場合は「独房に机ひとつ」という場所に配属させるという極めて悪質ないじめが大人の世界でもある。リストラするほど企業が窮乏しているのだったら、たくさんの仕事を押し付ける方がよいと思うのだが、それは究極のいじめにならないのである。

こういったことは心理学の一般的原則からも説明がつく。人間同士の触れ合いのことを心理学用語では「ストローク」と呼ぶ。よいストロークもあれば、悪いストロークもあるわけであるが、人間にとって一番嫌なストロークは強い負のストロークではなく、「ストロークが無いこと」が一番辛いと感じるのである。

人間関係楽しいこともあれば、苦しいこともある。苦しく、辛いこともまた、楽しいものである、という考えが何事においても重要なのではないだろうか。

お祭りの楽しみと日常の楽しみ

今昔物語のなかにもある言葉であるが、我々の生活には「晴れ」と「け」という時間がある。「晴れ」は、いわゆるお祭り的晴れ晴れしい公的な時間であり、「け」は日常的であり、普段であり、私的な時間であると定義できよう。私自身どちらかと言うとお祭り人間であり、いろいろなイベントを主催するのが大好きである。お祭りは賑やかで盛大なほうがよろしいのは古今東西共通であろう。そしてまた、一世風靡したフォークソング歌手吉田拓郎の「祭りのあと」の歌詞の中にもあるが「祭りのあとのさびしさや物悲しさ」が祭りにはつき物である。だから、それを癒すためにも次の祭りが必要になるのである。

私だけではなく人間は、本質的にお祭りが好きなようである。ある学者がいくつかの民族の死亡率の季節的変動を調査してみたら、大きなお祭りの前には死亡率が低く、お祭りのあとのほうが、死亡率が高いということがわかった。これは、臨終が近い人も「なんとか次のお祭りを見るまでは生きていきたい」という思いが、寿命を延ばすのだろうとその学者は結論付けていた。

お祭りの効用を説くお祭り人間の私も、年齢とともに「け」の楽しみの深さが最近なんとなく理解できるようになってきた。「いつもと変わりない日常の楽しみ」ということである。いつもの家族、仲間といつものような食事をしたり、いつものような会話をしたり、一見刺激の無いような生活である。そんな日常の楽しみを演出するのが実は「住居」なのではないだろうか。

IT情報化満載の家は「便利で幸せ一杯か?」

世の中IT時代である。あらゆる家電製品が携帯電話やコンピュータと無線で結ばれる日は近い。外出先からでもテレビの予約が出来たり、風呂のお湯を張ったり、電子レンジで簡単な料理ができたり、手紙も電話もメールも世界中どこにいてもリアルタイムに応答できる。「なーんて便利で幸せ!!」というテレビコマーシャルが目に浮かぶ。なるほど「便利」ではあるが本当に「幸せ」なのであろうか?妻や子供たちや私の事務所のスタッフたちともよく論議する。文明の利器の発達と人間の幸せの相関関係についてだが、時に議論は白熱する。「水洗トイレはやはり幸せ。水洗トイレの無い外国から帰ってきてそれは実感する」「携帯やメールはみんなが持っていていつでも連絡取れるから楽しいし、持っていないと仲間はずれになりさびしい」「家に帰ってすぐにお風呂に入れるのもなんだか幸せだなあ」などもっとな意見でもある。

でも、「なんだかしっくりこないなあ」というおぼろげな反論もある。鉄腕アトムの世界を夢見ていた私にとっては、現在のIT化には感無量なのであるが、夢と言うものは実現するととかく色褪せるものである。「多少の不便があったほうがなんとなく情緒があるのかなあ」と感じるのは私だけではないと思うがいかがであろうか?

家族行事のススメ

子供時代を振り返ると、一年の初めはまず家族で恒例の初詣に出かけ、おせち料理を食べ、そのうち鏡開きをして、その餅で作ってくれるおぜんざいを楽しみにしていたものである。4月にはお花見に出かけたり、7月には七夕で笹の葉を川に流しにいったり、スイカを縁側に大きく新聞を広げてその上で食べたり、月見の日は、いつのまにか月見団子がお供えされていたり、クリスマスにはそんなに日常的ではなかったケーキやささやかなクリスマスプレゼントが用意されていたし、大晦日には年越しそばと紅白歌合戦を家族で見るというのが定番になっていた。

こうしてみると結構家族行事があったのであるが、今は一般的にどうであろうか?クリスマス以外家庭行事として厳然と残っているものは少ないような気がする。特に東京など都会での傾向であろうが、食べ物をはじめとした季節感が薄れてきたことも一つの原因と考えている。高気密住宅の普及による住まいの中での季節感も薄れてきている。その裏腹に快適性を得ているのであるが。しかし、家庭行事の減少はこういった季節感の希薄化だけでは説明がつかないことは承知している。テレビ、コンビニ、ファーストフード、携帯電話、インターネットなどの普及にともなう国民のライフスタイルの変化が総合した結果、家族行事が減少してきたのであろう。
何も私は家族べったりのマイホーム主義を提唱しているのではない。まあたまには家族お揃いの季節行事もいいのではないだろうと思うのである。「モノより思い出」と何かのコマーシャルであったように、思い出はあとあと価値が出てくるのではと思っている。

独立と連携――本来の個人主義

「みんなで力を合わせて」ということはまことによく使われるフレーズである。幼稚園時代から教えられたし、政治家まで「大同団結して」とか「政党を超えた協力体制で」などと言っているし、日本の企業の「護送船団方式」とかいうのもそういった教えから来ているように一見見える。

しかし、その結果はご存知のように上手く稼動しなくなってきている。平たく言えば「内輪もめ」状態となっている。

逆に、航空会社などで見られる、「アライアンス」という手法がある。日本語にすれば「同盟」「連合」と言うことになるのであろうが、マイレージを共有したり、飛行機を一部共有したりするものである。

これらは、根本的には「似て非なるもの」と考えている。「連携と独立」か「独立と連携」かと言う問題である。つまり、連携が先か独立が先かということである。政治家の世界で例えて言うと、前者は「同じ政党なんだから横並びで同じ意見を持って頑張りましょう。変な雑音的なことは言わないように」ということが前面に出る。人間もとを正せば勝手気ままな自由がよいから、細かい意見の相違が大きな食い違いになり、本来の政策どころではなくなってしまうよくあるいわゆる『内輪もめ』状態の争いとなってしまうのである。後者の場合はどちらかと言うと、政治家一人一人が、国民のための政治と言う理念で、個人個人の独立した信念を持った上で、力を発揮するためにある程度共通できる政策を持ったものが連携しあうという形を指すものである。どちらが望ましいかは容易に想像がつくはずである。

話はとんでしまったが、住まいや家族を考える時にも参考になるのではと思っている。最初にくっつけようとすれば反発し、独立性をある程度大事にしてその後つながりを考えると言う順番がよさそうだと言うことである。

ハードのバリアフリーから、ソフト(心)のバリアフリーへ

バリアフリー住居ということがよく提唱されている。トイレやお風呂への段差を無くしたり、階段に手すりをつけたりということである。それはそれでよいのであるが、今回問題にしたいのは、そういったハードのバリアフリーではなく、ソフトのバリアフリーということである。言い換えれば心のバリアフリーと言うことである。極端に言えば、広いワンルームに家族数名が過ごせばハードもソフトもバリアフリーなのかと言うと、実は全然違う。むしろ、ある程度のバリアーがあることがソフトのバリアフリーなのだと私は考えている。この椅子は親父専用のものだとか、一家の料理人(普通は主婦なのであろうが)の体型に合わせたキッチンだとか、離れのようなトイレ(これは狭い我が家ではなかなか実現しがたいが)だとか、ユニバーサルデザインやバリアフリー住居の考えからすると非難を浴びそうなのであるが、意外とこんなところに心のバリアフリーがあるのではと思っている。2年前に作った私の家も、もともと狭いのであるが、リビングダイニングを敢えていくつかのコンパートメント風に小さく分割した。ファミリーダイニングで本を読んでいる妻に、室内テラスのような2畳くらいの狭い暖炉コーナーで寝そべる長男、その隣の細長いリビング(これはホームシアター実現のために細長くなった)でテレビを見る次男、別のダイニングコーナー(まさしくコーナーと言ってよいほどの空間しかないのである)で遅れた夕食を取っている私。お互いの存在を感じながらも、それぞれ勝手なことが出来るのは楽なものである。適度なバリアーの必要性を勧める所以でもある。

ルールとモラルと掟が同居する家の提案

我々が物事を判断する時、知らずと何かの規範に従っているものである。赤信号で交差点を通過しないのは、「規則(ルール)」でそうなっていて罰則を伴っているからで、いかに夜中で他の車が無くてもたいていの人は信号を守るものである。道端でやたらとゴミを捨てないのは(捨てる人もいるが)本人の持って生まれたか小さい頃から育まれた「モラル」からである。村の「掟」というような言葉があるように、その地域に限定された風習のようなものがあり、他の地域、集団ではルール違反であったりマナーに反することもその地域では「掟」としてまかり通るようなことが結構ある。

都会のエスカレーターで歩いて上る人のために半分は空けておくと言ったものも広い意味の「掟」である。その風習を知らないと両側に立ち止まって乗ることもあるし、かといってそれを罰すべきとも思われないし、失礼な人だとモラル批判をすることもない。その他の判断規範として「気分」や「行儀作法」「経験」などがあろうが、ここでは住まいの中での規範として、「ルール」と「モラル」と「掟」を基本的な要素として取りあげてみた。子供の門限、食事の時間などは「ルール」といえるだろう。門限を守らないと叱られるし、食事の時間を守らないと一家の料理人(母、妻)に嫌われる。それぞれの家人の個室をノックもせずに急に開けて入っていくのは、これは「モラル」違反かもしれない。ある家では(最近はごく少なくなっただろうが)お風呂に入る順番は、一家の目上の人からという掟があるかもしれない。これは、家でも通用するものではないし、罰則規定も無い不文律として存在している。他の家庭がとやかく言う問題ではないところが「掟」たる所以である。

こういった意味で、家庭の中に「ルール」「モラル」「掟」がバランスよく存在するような住まいというのが理想的ではないだろうか?

「ちょっぴり不便で、まあまあ便利」な家がいいのかなあ

「住環境に心を取り戻す」という精神論的なテーマで論議を進めてきたこともあり、内容はやはり具体性を欠く総論的なものになってしまった。でも、基本理念が固まれば、あとは趣味の問題である。心豊かな住まい作りは、各人により随分違ってきて当然である。私の言いたかったことをかいつまんでみると「便利で快適」を追求しすぎると、決して心豊かな住まいにはならないんではないか、ということである。では、100年前の住宅をそのまま持ってきたり、キャンプ感覚の家がよろしいかと言うとこれまた現実的ではない。「ちょっぴり不便で、まあまあ便利な家」ぐらいが適当なのかなあ、という気がするのである。このちょっぴり不便なところに、住まいの味が生まれ、家族の絆や対話が生まれていくような気がする。「ちょっぴり不便」をいかに演出するかが、大切なわけであるが、これは単に「住まいの作り方」だけではなく「住まい方」の演出が大きな要素を占めるものだと私は考えている。

財産としての家は心を滅ぼし、暮らした家の思い出は心を育む

「子孫に美田を残さず」というが、日本人は特に土地や家を残すことが、財産を子供たちに残す基本と考えているようだ。そして、その土地や家を巡って子供たちは醜い争いを繰り返していることも否めない事実であろう。日本の土地本位制に基づいた土地所有制の悲しい宿命であろう。せっかくの自分が育った思い出の場所が、子供たちの心を砕くモノと化すのであるから、こんな悲しいことはない。バブル崩壊の後、日本の土地神話が崩れるとのもっぱらの風評である。それが本当になることを祈ってはいるが、そう簡単には変わらないのが世の常。どうなっていくかはお楽しみではあるが、やはり「モノより思い出」である。小さい頃から暮らした家(マンションでもアパートでも)の、数々の思い出は何物にも代えがたい。「柱のキズ」であったり、その地域であったり、また、いろいろなシチュエーションそのものであったりする。繰り返すことになるが、便利だと思った思い出より、不便をした思い出のほうが結構余韻を持って残るものである。快適さを損なわない「不便の演出」がやはりキーワードになるのかなあ、と思われる。

もっといい日

「医療決断支援が私の仕事」

もっといい日

 「月刊がん」 提言

2003.5

株式会社日本医療情報出版


”  医療決断支援が私の仕事”  

「赤のカードに賭けなさい」。

プロのギヤンプラーは私にそんなアドバイスをした。答えは簡単である。赤のカードが20枚、黒のカードが15枚入っていることが分かっていたからである。

しかし、私は、黒のカードを引いてしまった。プロのギャンブラーのアドバイスは間違っていたのか?

医療の話をしているのに賭け事を引き合いに出して不謹慎と言われかねないのを承知で、冒頭のたとえ話を作りました。医療方針の判断、決断に際して、それらが確率に左右されることゆえの不確実性を体感していただきたいため、あえて単純な例を示したのです。

つい最近、朝日新聞の「カルテの余白」というコラムでも、同じ話を引用しました。学生への医療判断の講義や一般の方へ医療決断のお話をするときに、「われわれは0点と100点の選別判断をすることはほとんどなく、1点から99点のなかの判断であり、その多くは60点と65点を比較判断することを迫られるのです。そして、その両方の結果をあらかじめ見比べることができないために、その判断が正しかったかどうかの評価、反省が実に困難なのです」ということを必ず説明します。

つまり、結果が良かったから正しい判断、結果が悪かったから間違った判断、というふうに評価できないのです。

今は、がんの治療方針にも、さまざまな選択肢があります。

手術をするか、化学療法でいくか、放射線治療にするか、免疫療法は加えるのか、民間療法も気になる、といった具合に、考えれば考えるほど迷います。ひとつを選択するということは、ほかの選択肢を捨てるということになるのですから、決断は簡単にはいかないのです。患者の気持ちとしては、結果が良いことがすべてなのですが、冒頭にお話した理由で、結果から正しい判断だったかどうか判定できません。

このような背景があるからこそ医療決断をする際には、本当に手間隙かけたいものです。たとえその結果が悪い方向へ行ったとしても、「別の選択肢を選んだよりきっと良かった」と思えるほど、よく考えて判断、決断することが何より大切です。

アメリカの医学生が卒業するときに、ヒポクラテスの誓いをします。「患者に良いことのみを行い、決して悪いことを行ってはならない」。

医師にとって、この当たり前のことを医療の結果のみから判断すると仮定すれば、厳密に実行することは到底不可能です。副作用のない治療法はないのだろうし、誤診のない診断の名医は存在しません。ましてや、私の主唱する「科学的根拠に加えて、患者の心理学的状況や社会的背景までも考慮した医療判断理論」において模範解答は存在しないのです。

しかし、誤解しないでほしいのは、医療の不確実性を理由に、不誠実な診療や、勉強不足の医療人に言い訳の余地を与えるつもりはないということです。医療の分野において不確実性は常に伴うけれど、かのヒポクラテスの究極の命題を常に追い求める姿勢を持った医師や医学者であるということは不可能ではないのです。皆さんも、そういった姿勢を持った主治医と出会えることを祈っていますし、もし出会えたら、その主治医を信頼し大切に付き合っていってほしいと思います。

ストレス社会と心の主侍医

表紙

メンタルヘルスマネジメント

ストレス社会と心の主侍医

企業診断 no.6

2003.6

同友館


癌より怖い心の病気1

「見た目は健康,でも心はポロポロ」「ぼろは着てても心は錦」どちらがよいか,簡単な問題のようであるが難しい問題でもある。私は映画鑑賞が趣味の1つであり,映画の中の,気の利いた台詞が特に好きである。「セント・オブ・ウーマン」というアル・パチーノが主役の退役軍人を演じる映画のなかで,彼が次のように語る。
「私は軍の指揮官として,多くの若者が戦闘で手や足を失うのを目の当たりに見て,戦争の悲惨さを思い知らされた。しかし,もっと悲惨なことがあることを知った。若者たちがそれをなくしてもっとみじめな姿になるものがあることに気づいた。それは『人間としての心』である。戦争のため心が破壊され,失っていく若者を見ることが一番辛かった。手には義手,足には義足がつけられるが,なくした心に義手や義足のようなものはない」
うろ覚えであるが,このような内容であった。
この話は,メンタルヘルスの重大さを端的に物語っている。私の医学事務所は,次の項でお話しする「主侍医」として,企業の経営者や社員の健康危機管理を受託することを主な職務としている。
その経験のなかで,最も多く相談を受けるのが「癌の治療」についてと「心の問題」についてである。癌の治療についての相談の場合,日本の高水準の診断や治療を受けられるよう,さまざまな医療決断の支援をし,最善の専門医を探し出し,紹介することに関して,われわれの事務所では比較的安定して提供できるに至っている。
問題は,「心のトラブル」に対する処方箋である。
こちらは,事務所の19年間の活動の蓄積をもってしても,なかなか困難な作業である。ケースごとに,オーダーメイド的に対策を考えているのが実情である。
職場のメンタルヘルスがなぜ問題になるのか。
その大きな理由はいくつかある。1つは,心の病気は,体の病気のように目に見えたり,検査データに現れたりしないから,自分で気づくのも遅く,周囲の理解も得にくいということである。もう1つは,体の健康よりもさらにプライバシーや人事などへの警戒感を抱くことが多く,社内の福利としての相談体制では対処できない傾向にあるということである。
それに加えて,気軽にかつ適切に治療が行える医療機関が少なく,そういった医療機関へのアクセスのための情報が一般人にはさらに入手が困難である。これらのことが,職場のメンタルヘルスの管理をより難しいものにさせている。
たとえば,ある職場で,1人の社員が「癌」に罹患し,その治療のためしばらく休み,その後職場復帰するという状況と,社員が1人うつ病を抱えながらなんとか出社しているという状況を比較してほしい。その職場の生産性や快適性はまだ,前者のほうが被害は少ないだろうことは想像がつくであろう。癌の場合は,残りの社員は「彼(彼女)の分まで頑張ろう。復帰したら,彼(彼女)があまり無理をしないでよいように体制を考えてあげよう」ということになり,なんとか生産性を落とさずに乗り切れる。
しかし,うつ病の場合,病気自体の周囲の人による理解も難しいから「彼(彼女)は,怠けているのか,やる気がないのかなあ」「病気だとしたら,どのように対処したらよいのかなあ」などと周囲も悩むし,時には周囲の人間もつられて精神的に落ち込む場合がある。うつ病は風邪引きのように流行(うつ)るものだ,とよくいわれるゆえんである。

主侍医」つてなんですか?2

「医療の新しい仕組み作りの提案と実践を通じて,医療の品質の向上に貢献する」ことを目的に,1984年に私が医学部時代の同級生たち十数名と立ち上げた事務所が,トータルメディカルシステムズ(現寺下医学事務所)である。最初の数年間は,主にハイテクを使った医療システムの開発と医師人事を中心にした医局システムの改革,先端医療モデル病院設立構想が3本の柱であった。この頃より,電子カルテや全国の医師間コンピュータネットワーク,民間医局としての医師派遣業務などを開発してきた。

今から思えば,事業として考えると,随分時期尚早な試みだったと多少の反省をしている。そういった開発をしていくなかで「安心できる医療」を追求すると,「昔ながらのお医者さん」がキーワードであることに気づいた。多くの人が「昔のお医者さんは往診もしてくれたし,家族のこともわかってくれていたし・…‥」というからだ。

でも,そんなことをいうかと思えば,かたや,いざ病気になると「大きな病院が安心」と大病院へ足を運んだあげく「3時間待たされた」「若い先生で頼りなかった」「いつもドクターが変わる」「威張った態度の医者だった」「検査,検査で,結果は,はい,1カ月後」などと不満,不安を聞かされる羽目になる。

医学の進歩に伴い,昔のような「なんでも診られる医師」という要求は,はっきりいって不可能に近い。医学が進歩したということは,当然,専門分化が進むという現象を伴う。科学としての医学なら仕方のないことだが,実際の医療の現場ではこの専門分化が曲者になる。せっかくの進歩が一般の人には享受できない現象が生じることになる。医学は着実に進歩しているのに,実際の医療現場では不安が一杯,ということになっている。

この現象を音楽にたとえると,昔の医療は「室内楽」であったが,現在は「交響楽」になったということになる。室内楽では演奏者が少人数であるから,指揮者役は,なにかの演奏をする人がかけもつことができる。しかし,交響楽のように大人数になると全体をまとめる専門家である指揮者が演奏者とは別途に必要になる。このように考えると,そういった指揮者的専門家が現在の医療の世界では必要になることが理解できよう。

そこで,注目したのが皇族の侍医のシステムである。天皇家には5名の侍医が常時所属している。もちろん,健康なときからである。健康なときから,体調などを側でみておくと,いぎ病気になったときに,より適切な対応が可能だ。昔の御典医も同様である。私自身が,医療を受ける立場になって,どんな医師を身近におきたいか考えてみた。

「そうだ,健康なときから,弁護士や会計士などのように,医師に相談役として側近にいてもらうと,普段の健康管理のみならず,大きな病気のときにより早く適切な診断と治療を受けられるよう水先案内をしてくれる。なにより安心だ。健康なときからそんな医師と契約するのだから,病気になってから弱い立場で初めて出会うのではなく,より対等に近い立場で出会うことになる」と考えた。病気の治療を担当するのが主治医だから,健康なときからそばにいるという意味で「主侍医」と名づけた。

今度は,医者の立場で考えると,この主侍医のシステムを維持するには,恐ろしいほど手間ひまがかかる。単なる「総合診療外来」なら,今までの内科医としての延長線上で何とかできるが,主侍医となると,もっと幅広い医療知識に加え,病気や患者の状況,医師の能力などを見立てる力と,多くの専門医との生きた人脈が不可欠である。それらをキープしていくためには,楽屋裏の活動として相当なことが要求されるが,楽屋裏の仕事は目に見えにくいから評価されにくい。

こういったサービスを国からの補助を一切受けずにわれわれ民間の事務所が続けていくには,それなりのコストをクライアントに負担していただかなくてはならない。車作りにたとえるなら,手作りのスーパーカー工房ということになる。そこで,クライアントは法人のみとして,契約の種類は,経営者の健康危機管理を引き受ける経営者契約と,制限付きではあるが社員の健康管理まで含める法人契約の2種類に限定している。

業績のよい企業で,その経営者がその企業の屋台骨になっていて,経営者の健康危機管理をすることがその会社の危機管理に直結することが自他ともに明らかで,かつその経営者が理解を示してくれる,という三つの条件が揃ったとき,初めてわれわれと契約していただけることになる。

主侍医」はどんな医者?3

では,医者であればだれでも主侍医になれるか,というとそうはいかない。主侍医の専門医の研修コースなどまだ存在しない。さまぎまな病気の初期判断ができて,適切な専門医へ紹介できる人脈を有していることが条件になる。言葉でいえば簡単だが,これを,個人の医師が十分にこなすことは並人抵ではない。

まず私自身が見本になろうと,幅広い医学知識と技術を習得し,各科にわたる専門医人脈を構築してきた。具体的には脳神経系,循環器系,消化器系の基本的な臨床訓練を受けて,心療内科的診察法を体験学習し,専門医人脈を築くために1,000名以上に及ぶ医師と実際に交流した。そして,クライアント第1号には友人でもある経営コンサルタントのSさんが名乗りをあげてくれた。それ以降,まったくの口コミで50件余りの契約数を平均して維持している。法人契約も含めると,担当クライアント数は100名くらいになる。

そして待望のスタッフ主侍医第1号として,卒後10年になる渡邉医師が3年前より私の片腕として活動しながら,医療判断医としてのトレーニングを積み,主侍医活動も本格化することになった。

「心の主侍医」の必要性4

13年間に及ぶ主侍医活動の体験のなかで,わかったことは,クライアントの相談事は「身体のサポート半分,心のサポート半分」ということである。

私の最初の予想では,身体の相談が9割,心の相談が1割くらいの配分ぐらいだろう,と思っていた。何といっても通常の医療では,心のサポートなどゼロに等しいのだから,それでも主侍医は心のケアを重視しているということになると考えていた。

ところが,いざ,蓋を開けてみたら,冒頭のごとくである。主侍医の主な仕事は,クライアントが重大な病気になったとき,何科にかかればよいか,具体的にどの専門医がよいのか,いくつかある治療法のうちどれを選択すべきかなど,医療のさまざまな決断場面において100%クライアント側に立ち支援することである。そのときの判断基準として「医学的根拠」「心理学的情況」「社会学的背景」の3つを徹底的に考慮する。一言でいえば,不安を安心に変尤るお手伝いをすることになる。

クライアントは癌などを中心にした身体の重大な病気を心配し,それらに備えることを主にイメージして,われわれと契約をする。しかし,実際には,日常のちょっとした医療問題の相談に加え,自分の健康に対する不安や,会社経営上の不安や,家族や社員との人間関係の不安などについての相談が圧倒的に多くなるのである。クライアントにとって,こういった不安を少し抱いたとき,遠慮なく相談できる専門家が身近にいることは,筆舌に尽くしがたいほど安心なことである。もちろん,このことが病気の早期発見にもつながる。

先ほど,癌と心の病気を対比したが,実はこの2つはとてもよく似ている。どちらの病気にとっても,早期発見は重要であるが,病気の初期は症状が少ないために,相当意識しないと早期発見が困難である。どちらの病気も会社に知られたくない,忙しくて検査する暇がないという気分になりやすい。しかし,発見が遅れるほど治療が困難になるし,合併症も増えてくる。職場復帰のタイミングが難しく,再発も心配される。以上のように癌と心の病気の間には共通点が多い。では,解決方法は何か。おのずと次のような答えが出てくる。

  • 気軽に検査や相談がきる窓ロを作る。
  • プライバシーに配慮する。
  • 自己チェックができる方法があれば,その活用を促せる。
  • 病気と判明したら会社の組織とは関係の少ない医療機関で治療が継続できる体制を準備する。
  • 予防的行動を周知させる。
心の病気のワクチン5

「仕事が忙しすぎたり,人間関係に疲れたりでストレスがたまっています」という状況と「うつ病の初期」とは小さくて大きな違いがある。前者から後者へ移行していくことは十分考えられる。しかし,前者の段階なら簡単な気分転換で解消してしまうことも多い。この時点で,各人がストレス過多状態を自己認識し,なんらかのストレス発散法を行うことである。インフルエンザ予防のための「手洗い,うがいの励行」とよく似ている。ストレス発散法としては,スポーツでもよいし,カラオケでもよい,各自に合った方法を持っておくことである。

では,インフルエンザの場合のワクチンにあたるものはないであろうか。私は「認知心理学」の応用をお勧めしようと考えている。うつ病や神経症の治療には,薬物療法と広い意味での精神療法がある。後者のなかに,精神分析療法,カウンセリング,森田療法,行動療法,認知療法などがある。私の診療では,最後に挙げた「認知療法」を実践しているが,この認知療法を応用することにより,うつ病や神経症のワクチン代わりになるのではと思いついた。

認知療法の詳細は,専門書に譲るが,ここでは,簡単に説明する。認知とは,各人独自のものの考え方や判断の仕方であり,今まで各人が生きてきた過程で作られている。自己判断のための一種のパターン認識システムが構築されているといってもよいであろう。もともとこの認知のシステムにゆがみがあると,本格的なうつ病や神経症になる。

普段は正常に認知システムが作動していても,ストレスが多くなると,この認知システムにゆがみが生じる。必要以上に悲観的に考えてしまったり.発想が狭くなったり,取り越し苦労をしたり,同じことを何度も考えたり,いつもは持っている自信をなくしたりする。

そうなると,さらに,気分が落ち込み悲観的になり,行動も極度に消極的になるという悪循環に陥り,うつ病や神経症になってしまう。認知療法とは,こういった脳の中のメカニズムを理性において認識し,認知のゆがみを矯正していこうという考えであり,今 もっとも新しい精神療法といわれているものである。 悪循環を招く思い込みを冷静に自覚し、理性的な思考パターンを自分自身に言い聞かせ説得する」という「心と頭脳のストレッチトレーニング」である。

われわれの認知療法の経験では,一度 うつ病になったとしても,認知療法をきちんと受け治癒した人から,「病気以前より,しっかりとした思考を持ち,生き甲斐を見つけられるようになった」と喜ばれることが多い。

この認知療法の最大の欠点は,とても手間がかかるということで,日本の保険医療ではほとんど実施が不可能に近いことである。臨床心理士と医師が手を組んで治療にあたるシステムがあまり実存せず,論理はあるが実践的にはなかなか受けることが難しいというのが日本の認知療法の現状である。かといって,うつ病や神経症になってから,自己の素人判断で認知療法を行うことは困難だし,時には危険が伴う。

そこで,私は 心の病気になる前に,認知療法の自己学習をすることを勧めているわけである。

自己学習のための本は,いくつか出ている。私の事務所でも,教材を開発中である。

心の病気の早期発見6

心の病気は癌と同じように早期発見が大切だと私は力説しているし,多くの専門家も同意見であろう。しかし,具体的な方法論がないというのもこれまた実情である。私たちは,別の項の執筆者でもある野村忍医師(現早大人間科学部教授,元東大医学部心療内科助教授)らとともに,ストレス自己チェックシステム「MIST」を開発した。 企業単位で採用し,個人単位でプライバシーを守りながら,自己チェックができるシステムである。 別項での野村医師の説明を参考に,ぜひ,利用していただきたいシステムである。

こういったシステムが入手できない人のために,いくつかのコツを教えよう。

  • 寝つきが悪くなったり、中途覚醒が頻繁になるなどの睡眠障害が数日続く。
  • 悲観的な考えが,何度も頭に浮かんでしまう。
  • 悪夢が多い。
  •  
  • 電車や飛行機に乗るのが不安になった。
  • 会社を休みたいと何度も思う。
  • 好きな食べ物も美味しく感じない。
  • いつもイライラしている。
  • 酒やタバコの量が多くなった。
  • なんとなく不安である。
  • 友人に会うのが億劫になった。

以上の10個のうち,2個でも当てはまるようになったら要注意である。

ストレス解消法を試して,変化がなければ精神科医か心療内科医と相談してみよう。

3個以上当てはまれば,すぐにでも専門医を訪ねるべきであろう。

医療判断医という選択

医学生・研修医に告ぐ

医療判断医という選択

月刊 junior no.427

2003.11


はじめに

「赤のカードに賭けなさい」プロのギャンブラーはそんなアドバイスをした。答えは簡単である。赤のカードが20枚、黒のカードが15枚入っていることが分かっていたからである。しかし、私は、黒のカードを引いてしまった。プロのギャンブラーのアドバイスは間違っていたのか?
医療の話をしているのに、賭け事のたとえ話を引き合いに出して不謹慎と言われかねないのを承知で冒頭のたとえ話を作った。医療方針の判断、決断に際して、それらは確率に左右されることゆえの不確実性を体感していただきたいため敢えて単純な例示をした。
医療判断学の存在意義の説明を容易にするために、このようないくつかのたとえ話を引用することにしている。学生への医療判断の講義や一般の方へ医療決断のお話をする時に、「我々は0点と100点の選別判断をすることはほとんど無く、1点から99点の間の判断をするのであり、しかも、その多くは60点と65点を比較判断することを迫られるのです。そして、その両方の判断後に起こった結果を見比べることが出来ないために、その判断が正しかったかどうかの評価、反省が実に困難なのです。」ということを必ず説明する。結果が良かったから正しい判断、結果が悪かったから間違った判断、というふうに評価できないからである。
例えば、癌の治療方針について考えてみよう。大抵の場合、複数の選択肢があり、手術をするか、化学療法でいくか、放射線治療にするか、免疫療法は加えるのか、民間療法も気になる、といった具合に考えれば考えるほど迷うことになる。ひとつを選択するということは他の選択肢を捨てるということになるのだから、決断は簡単にはいかない。患者の気持ちとしては、結果が良いことがすべてだが、冒頭に書いた理由で、結果から正しい判断だったかどうか判定できない。このような背景があるからこそ医療決断をする際には、本当に手間隙かけたい。例えその結果が悪い方向へ行ったとしても、「別の選択肢を選んだよりきっとよかった」と思えるほど、よく考えて判断、決断をすることが何より大切である。アメリカの医学生は卒業する時に、ヒポクラテスの誓いをする。「患者に良いことのみを行い、決して悪いことを行ってはならない」医師にとって、この当たり前のことを医療の結果のみから判断すると仮定すれば、厳密に実行することは到底不可能である。副作用の無い治療法はないだろうし、誤診のない診断の名医は存在しない。
私の主唱している「科学的根拠に加えて、患者の心理学的情況や社会学的背景までも考慮した医療判断理論」において模範解答は存在しない。しかし、誤解しないでほしいのは、医療の不確実性を理由に、不誠実な診療や、勉強不足の医療人に言い訳の余地を与えるつもりはないということである。医療の分野において、不確実性は常に伴うけれど、かのヒポクラテスの究極の命題を常に追い求める姿勢を持った医師や医学者であるということは不可能ではない。医学生や研修医のみなさんも、そういった姿勢を持った医師に育っていただきたいが、クラスに一人か二人は「医療判断医」の道を歩んでいただきたく、勧誘の意味を込めて、医療判断医について概説する。

1. 医療判断医の定義

「医療を受ける際に生じる患者や家族の様々な選択や決断を支援することを専門とする医師」と定義している。何故、そのような専門医が必要なのか?ここでもたとえ話で考えてみたい。現在の医療と一昔前の医療とを比較すると、現在の医療技術は格段に進歩している。専門分化が進み、治療方法も各種開発されて、患者のみならず医師でさえも選択の岐路に立たされることが多くなった。一昔前の医療を音楽に例えるなら、室内楽ということになる。少数の楽器の集合であり、その楽器のうちの誰かがリーダー役となり、全体の流れを引っ張っていくということでバランスを取ることが可能である。一方、現在の医療を例えるなら、交響楽ということになる。楽器の種類も数も多く、もはや演奏をしながら全体の指揮をするということは不可能になり、全体のバランスをリードしていくことを専門とする指揮者が必要となる。一昔前なら、内科医が患者の総合指揮者役を行い、必要に応じ外科や耳鼻科、眼科と他科依頼をして全体の取りまとめ役を担ってきた。しかし、今や、内科自体でさえ、消化器、循環器、内分泌、神経などと細分化されつつあり、患者を一人の人間として取りまとめて医療全体のバランスをとっていく役割を担う医師は存在しなくなっている。
こういった現象が、医療技術の高度化に反比例して、患者の医療満足度や安心度が低下している理由でもある。
このような状況を打開するために、患者にとって医療の指揮者役である「医療判断医」の必要性を私は提唱しているのである。

2. 「医療判断医」の専門性

医療判断医の定義から考えて、幅広い医療技術と知識を有することが不可欠となる。これは、簡単なようで至極難しいことである。医療技術が急激に進化変容していく現在においては尚更困難である。
医療判断医にとって医療面接、カウンセリングの技術を習得することは必須である。現状、可能な方法論として精神科や心療内科の研修を修了することが望まれる。
また、臨床医療判断理論として特異度や感度を考慮した確率論の理解も必要となってくる。
最も難易度の高いことは、各分野の専門医との人脈を継続的に有するということである。国全体としての有機的なシステムが存在しない今、医療判断医は個人的な努力によって、各分野の専門医との人脈レパートリーを築かないと、医療判断医の職務を全うできないことになる。総合病院内に限定した医療判断医活動は比較的簡単に出来るかもしれない。しかし、これだけ医療技術が複雑化し、国民の活動の場が広がった状態では、一人の患者が常に同じ病院内で医療を受けるということは非現実的である。昨今厚生労働省や医師会が主張する「かかりつけ医」のシステムでは、最初から総合病院中心の医療システムを想定していないから、患者は複数のクリニックや病院を受診することが必然的な結果となる。

3. 医療決断支援の三つの要素

臨床現場での医療決断に際し、現在一般的に重要とされているのはEBMである。EBMとはご存知の如く「科学的根拠に基づいた医療(Evidence Based Medicine)」ということになる。医療判断理論においても同じく、EBMは基本となる考えである。それに加えて、私は「心理学的情況」と「社会学的背景」を考慮した総合医療判断の必要性を説いているし、実際にそれに沿った活動を行い、多くの患者(クライアント)から支持されている。冒頭の話のように、ギャンブルでも医療でも「結果よければ全て良し」というのはそのとおりであろう。問題は、悪い結果が出た場合である。その場合の身体的被害を最低限に押さえることと共に、精神的ダメージを最小限にする方法論が医療判断理論の心髄であるとも言える。その辺のテクニックが「心理学的情況」を配慮した判断ということになる。
有名なプロゴルファーの杉原輝夫が、前立腺癌の治療を受ける際「プロゴルフ人生を優先する」ことを理由に、手術ではなく保存的治療を選択したという話は有名である。この時の判断には「社会学的背景」を重要視していることは容易に理解できるであろう。社会学的背景には、患者の職業、家族のこと、経済的なこと、宗教上の問題など医療決断の際に無視できない要素が結構ある。
「[科学的]医学的根拠」「心理学的情況」「社会学的背景」に基づいて、時間軸も考慮しながら医療決断はなされるべきである。重症な病気の時は、本来間断ない決断の連続が必要とされることが珍しくないのである。現場ではあまり深く考え検討するまもなく時間が経過して、慎重な判断がされようとされまいと医療行動は実行されていく。その原因は、臨床医療決断は極めて高度で専門的かつ知的な活動であり、一般の患者には荷が重過ぎるし、担当主治医にはそのための十分な時間もないというだけでなく、当然そのための修練も積んでいない。普通の医師にとって病院の枠を越えた専門医人脈を十分に築いている暇もなければチャンスも少ない。
こういった理由で、重病時治療の管制塔の役割を専門として果たす医療判断医の存在意義がある。

4. 現状の医療保険制度の中に位置する医療判断医

医療判断医という概念は新しい考えであり、当然既成の医療保険制度には組み入れられていない。前述したような医療判断医の活動に対して、医療保険を適用させるのがいいのか、自己負担にて自由にさせるのがいいのか、まだ研究の余地があると筆者は思っている。少なくとも、医療判断医による医療決断の支援があると、重複診療や重複検査などが激減し、保険財政にも好影響を与えることが予想されるから、その財源で医療決断支援活動を保険である程度は支持するべきであろうとは考えている。
しかし、これは将来の話であり、現状では、保険や国から一切の補助を受けずに医療決断支援活動を行わなければならない。
重病の治療時は、個人にとって、いわば裁判を抱えるくらいの重大事であり、弁護士を雇うように、自分の命を守るために医療判断医を雇うことが賢明であるという時代がくると筆者は予測している。そういう意味で、しばらくの間、医療判断医は自由診療の世界で食べていかなくてはならないから、生活は厳しいかもしれない。ただ、考えようによっては、実力があり、しっかりクライアントの人気をつかめば、有能な弁護士のように高い名声と高所得を得ることができるかもしれない。
後述するが、日本では類を見ない医療判断医の活動でもあり、専門医の人脈など個人では十分なものを築くのは困難なので、私どもの医学事務所に所属をしていただいたり、アライアンスを組んで頂く形でサポートをしていきたいと考えている。

5. 医療判断医の研修や認定

何度も繰り返しているように、医療判断医という概念はまったく新しいものであり、既存の研修システムは存在しない。勿論、認定医システムもない。私の事務所で、実習体験しながら勉強するしかない。音楽の世界における指揮者の専門課程のようなカリキュラムを想定している。現状では、消化器系、循環器系、神経系、内分泌代謝系のうち2つ以上の臨床をそれぞれ2年以上経験し、心療内科または精神科の臨床経験を2年以上行った医師を医療判断医実習の要件としている。基本実習は、私もしくは医療判断指導医(私の事務所で一定の研修を積んだ医師)と共同で、重病時医療決断支援活動を20案件行い、「医療判断実施記録」という所定の様式に20案件のレポートをまとめることを目安としている。

6. 主侍医という概念

医療判断医の主な仕事として、「重病時の医療決断支援」以外に、もう一つ大事なことがある。予防医学的指導や日常的、軽微なまたは慢性の病気の管理である。いわば、小さな医療決断支援の集合体ともいえるものである。重病時の医療決断支援が順調に行われるための条件として、患者(クライアント)との信頼関係がある。そのためには重病になってからではなく、健康な時から近しい関係を築いていることが大切である。
そこで、私は13年前より「主侍医」という概念を導入している。病気になってからの主治医に対して、健康な時から側にいるという天皇の侍医のような顧問医の意味で、「主侍医」と造語した。医療判断医の業務として、この主侍医業務を加えることにより弁護士の顧問契約のような形が成立する。あくまでも治療担当医である主治医は別途存在していて、こちらの主侍医は、100%クライアントの味方として、管制塔や指揮者の役割に徹することになる。
こういった主侍医を持つということは今の日本ではとても贅沢なシステムなので、我々の事務所では企業の経営者向けのサービスモデルだけ運営している。一般大衆向けのシステムを考えてもいるが、日本の保険制度はそれなりに優秀で、それ以上の満足を目指すこのシステムには相当の手間隙と費用がかかるので、本格的な普及バージョン運営には、国レベルの参画が必要であると考えている。むしろ我々のような小さな研究室では、天皇の侍医に勝るとも劣らないような手作りロールスロイスバージョンを運営するのが使命とも考えている。そういった極限のシステムを研究運営することで、より様々なノウハウが生まれるものと確信しているからである。そのノウハウを公開し、本格的な普及バージョンを国や大企業が作り出すことを促したいと考えている。

7. 医療データの一元管理

これだけの情報化社会のなかで、個人の医療データが一元的に管理されていないのが不思議である。なぜか?「個人のプライバシーがあるため、カルテ情報を簡単にやり取りできない。」「カルテの電子化が進んでいないので、技術的に困難」「カルテ開示の賛否両論に結論が出ていないから」などの理由がある。しかし、これは医療の提供側からの問題である。患者にとって、医療データを一元管理するのは文句なしに良いことである。しかるに、貯金通帳の管理は一生懸命するのに、自分の医療データをこまめに管理する人はまれである。「そんなこと言ったって、医者にデータを貰いにくいから」という言い訳も確かにあるが、やはり言い訳である。著者らが個人の医療データ一元管理サービスを有料で行おうとしたマーケット調査では、有料では意外に需要が低い。無料なら受けたいという声が多く、医療に関しての甘えがこの国ではなんと浸透していることかと今更ながらあきれるところではあるが、残念ながら事実である。主侍医業務のもう一つの役割に、この医療データの総合一元的管理がある。いろいろな専門医で行った検査データや服用している薬剤や治療歴などを時系列で保存し、いつでも取り出せるようにして、変化に敏感に対応する体制を整えておくことである。

8. 医療判断医の将来性

アメリカ型の医療の影響を多く受けた日本の医療界では「専門医」を尊ぶ風潮が強い。そしてまた、大学病院や医局に所属し、大学教授になることが唯一の成功の道と信じている医師がまだまだ圧倒的に多い。医局の医師の間では、開業することを「野(や)に下る」などと表現したりする。実際に、医療を支えているのは一線の臨床医であるのだから、ピントがボケた話でもある。いずれにしろ、私も含め、医師を職業として選んだ理由には、「人助けをしたい」、「人類の役に立ちたい」などという思いと共に、「仕事に誇りを持ちたい」、「名誉名声を得たい」、「人から感謝されたい」、「経済的にも評価されたい」などという願いも持っていて当然だと思う。医者の本音を泥臭く言えば、名誉系の「教授」、お金系の「開業医」に2分されるであろう。建前としては、「最も社会貢献が出来る職業が医者」という理由が燦然と輝いている。しかし、もう一歩進んで考えれば、「建前こそが本音」という人間の気持ちの真実に突き当たることになる。誰にでも人に喜ばれたいという気持ちはあるからだ。そういう意味では「人のためになることをしたい」というのも本音なのである。
話は脱線気味になったが、医師としての仕事を真っ当にかつ高品質に行っているものが、経済的にも名誉的にも評価されるシステムこそが大切と力説したい。自分の良心を投げ打って、名誉欲や金銭欲のみに走った人が、地位や栄誉や高収入を得るという図式がまかり通っているのがこの国の医療システムである。「医師はお金を稼いではいけない」「医者も科学者の端くれ」などという風潮があるから、本当の実力者よりも策略家のほうにとって都合がよい世界なのである。臨床医の実力に応じて、地位や収入の評価が正当にされるシステムこそ今の日本の医療に必要だと私は考えている。ただ、そんなシステムは一朝一夕には出来るものではない。結構水準の高い医療保険システムや大学医学部の教室体制、学会システムが現存するだけに、改革には当初血を流すことを覚悟しなければならないだろう。
そんな中、我々も小さな力にならんがために、医療判断医の地位と相応の報酬システムの構築には全力をあげるつもりである。音楽の分野の指揮者専門養成学科みたいなものであるから、少数精鋭を考えている。我と思わん方は、是非我事務所の門を叩いて欲しい。

スーパーファーストオピニオン

表紙

医師と患者の信頼関係回復を願って

スーパーファーストオピニオン

月刊 新医療

2006.1

株式会社エム・イー振興協会


セカンドオピニオンの定義

セカンドオピニオンについて考察する前に、その言葉の定義を碓認したい。以下に、本誌「月刊新医療」2004年2月号に掲載した文章を改変し、記載してみる。

「患者が受けている診断や治療について、現在の、に主治医以外の医師から求める別個の意見のこと。医師が患者に診断名やいくつかの治療法を説明し、勧められた治療法に同意するという考えはインフォームドコンセントと呼ばれ、米国では一般化している考え方である。この制度を支える仕組みの一つとしてセカンドオピニオンがあるとも言える。日本では、独白の日本人的気質や保険制度の面からもまだまだ一般的ではない。ここ数年でインターネットを利用したセカンドオピニオンの提供サービスや、外来にセカンドオピニオンの受け入れを明記する医療機関も増えてきた。現状の保険制度では、『1つの疾病に関しては1つの医院や病院のみにしかかかることはできない』という重複診療の禁止と呼ばれる規則があり、原則的にはセカンドオピニオンは保険の適用とはならない。現状では一部の医師の善意や病院の広報活動のもとに細々とセカンドオピニオンが実行されているにすぎず、今後、医療制度としてまたは医療ビジネスとしてセカンドオピニオンのシステムが整備され、医療レベルの向上や患者の安心増大に寄与するのではと医療関係者と国民双方から期待されている」。

インフォームドコンセント・インフォームドチョイスは患者のためか

「医者が丁寧に説明しない」という患者側の不満は「待ち時間が長い」という不満とともによく聞かれる代表的な国民の声であろう。旧来の日本の医療を批判する目的で「密室医療」という表現が使われることが多い。「閉ざされた医療」「お任せ医療」なども何様の意味で使われている。密室医療ゆえに医師の傲慢さが助長され、今日のような医療ミスが多発する現象を来しているという論理であり、なるほど一理ある思われる。そういった声に対して応えるべく、「開かれた医療」「情報開示」「カルテ開示」などという一連の動きが出てきたのが、日本の最近の医療社会動向である。しかし、私はこのような動きに対して若干の疑問と憂慮を感じている。 「治療A、治療B、治療Cと説明しましたが、患者様であるあなたが自己責任において好きなコースを選んでください。もし、いずれもお気に召さなければ、転院も気兼ねなしにどうぞ。今までの料金も一切必要ありません」と医師が商売人顔負けで話している姿を想像してほしい。

そもそもインフォームドコンセントはアメリカでは、医師側を守るために普及してきたのであろう。医師としてきちんと科学的な説明をして、患者が自己責任で同意したり選択するのだから、その結果の責任は患者側にあることを明確化するためである。日本では、従来からの「お任せ医療」的医師の説明不足を糾弾する目的で、インフームドコンセントの必要性が叫ばれてきた。もちろんそのお陰で、一昔前に比べると、医師も時間を何とかやりくりして分かりやすく説明するようになった。その意味では、インフォームドコンセント普及活動は役立っていると私も思う。

しかし、患者は医師から治療法を説明されて、それに同意するだけではなく、いくつかの選択肢から1つを選ばなければならない。これは患者にとって大変なことである。健康や生命の危機に瀕している患者がいろいろな医療決断をするのは、あまりにも荷が重いからである。

セカンドオピニオン崇拝が招くドクターショッピング

このようなインフォームドチョイスをするに当たって、素人の患者だけでは判断がつかないことが多い。となると必然的に別の専門家の意見を聞こうということになる。これがセカンドオピニオンである。しかし、現状の日本ではまだまだ問題点が山積されている。専門家にとって、別の専門家の意見に対して異なった意見を言うことはとても責仕が重い重労働である。ところがそういった活動に対して、日本の医療保険は報酬を規定していないどころか、重複診療の禁止ということで表向きは初診料など一切の診療報酬も認めていない。医師や病院の奉仕や営業的サービスに負っているのである。

実際、セカンドオピニオンを聞きに、患者は知人の紹介やインターネットなどの情報で別の医師の診療を受ける。もちろん、保険診療のカルテを使ってである。重複診療であるかどうかはその病院では判断できない。それどころか患者さんを断ることもできない。セカンドオピニオンをするためには、、まず現状の医療経過を十分聞かなければならない。多くの外来患者を待たせながら聞くことになる。それでも熱心な医師たちは最大限懇切丁寧に対処する。しかし普通の外来では1人に30分くらいが限界であろう。それもそんな患者が1日に2人もいればその外来は崩壊寸前となる。他の待っている患者の逆鱗に触れるからである。実際、私は何度もそのような体験をしている。悩みを相談し始めると30分はあっという問で、1時間でも「今日は短時間しかお話できなかったので」という帰りがけの患者の言葉にに驚くこともしばしばである。私が患者の立場でもでも同様に感じるのだと思う。

そんなわけで、一旦セカンドオピニオンを聞き出すと、なかなか満足できず患者の不安は増強し、もう1人の医師の意見も聞きたいということになる。これが「ドクターショッピング」という不孝の始まりとなる。中には「最低3人の医師の意見を聞いて多い方の意見に従うことに決めている」という方もいらっしゃる。これは医師にとっても、日本の医療財政にとっても、なによりもその患者自身にとっても大きな不幸である。

医療判断はとても難しい!

物事を決断することは概ねしてとても困難である。夕食を何にするか。どの車を購入するか。楽しい迷いであっても、時に決断に苦しむ。ましてや、命にかかわる医療決断をすることは素人には酷なほど難しいし、実は医師にとっても難業なのである。

なぜかというと、医療決断は単なる医学的根拠のみでできるものではないということである。私が考えるだけでも「心理学的状況」「社会学的背景」という大きな要素が別個存在する。それぞれの病気の最新の治療法などはインターネットなどで簡単に入手できるであろうから、医学的根拠以外の要素が医療決断には重要になってくる。そういう意味では単に同じ専門分野の別の医師に意見を聞くということだけでは、セカンドオピニオンが完結しなくなる。

今まで述べた理由にょり、臨床医療決断支援の専門家が必要になると私は考えている。

医師と患者のマッチング(出会い)とスーパーファーストオピニオン(SFO)

前述の「臨床医療決断支援の専門家(医療判断医)」なるものが日本に定着すればよいが、実際は夢物語かもしれない。実現可能な案として、私が次に提唱していることは患者が適切な医師にスムーズに出会い、信頼関係を築くための、より現実的な方法論である。

「患者と医者の信頼関係を良好にすることが大切」とだれしもがもっともらしく言うが、そんなことはそれこそ誰もが分かっていることである。問題はその方法論である。私は16年前より健康な時から傍にいる民間版侍医なる「主侍医」活動をパイロットファームとして行ってきた。嫌というほど「患者と医師の信頼関係」の重要さを身につまされてきた。ところが自分という人間にとって適切な医者に出会い、しかもその生身の人間である医師と信頼関係を築くのはそう容易ではない。いくら頑張っても、一般的に与えられた初診の診療時間内には不可能である。

私の長年の経験では、最低でも2時間の面談が必要であると考えている。どんな高級レストランに行っても、どんな高額オペラを観に行っても、シェフや歌手などの職人を2時間も独占することはできない。医療の世界では、高度な職人である医師を独占しなければならない。ここが患者と医者の信頼関係作りの極めて困難なゆえんである。私は今、この「患者医師マッチングシステム」の実現のために東奔西走している。患者の病気に適し、また相性がよいと推定される医師を探し、2時間の面談相談で信頼関係を築く。時には、医療決断支援専門スタッフが面談に同伴する。そうなると、セカンドオピニオンなどを患者がしなくてよい。プロである医師が患者のために前もって他の医師とも相談しベストな道を考えるからである。天皇陛下は侍医たちに「セカンドオピニオンを聞いてみたい」というであろうか?これこそ私の造語で定義する「スーパーファーストオピニオン(SFO)」である。

つまるところ、「セカンドオピニオン」はドライで契約至上主義のアメリカ的であり、日本ではSFOが似つかわしいと私は考えているのである。最初からベストを目指し、迷わないシステムの方が日本人に合っている、と私は思っている。次善の策として「ベストセカンドオピニオン(BSO)」という造語も考えている。セカンドオピニオン必要の理由が「医師への疑い」ではなく、「主治医の意見のリコンファーム」もしくは「残るもう1つの可能性」であってほしいからである。疑いだしたらキリがないし、患者と医者の信頼関係などどんどんなくなる。医療資源もどんどんなくなる。

現状の医療保険制度の中に位置する医療判断医、SFO、BSO

医療判断医やスーパーファーストオピニオン(SFO)などという概念は全く新しい考えであり、既成の医療保険制度には組み入れられていない。しかし、医療判断医による医療決断の支援があったり、患者医師マッチングによりSFOが提供されると重複診療や重複検査などが激減し、保険財政にも好影響を与えるであろうとは考えている。

現状では、保険や国から一切の補助を受けずに医療決断支援活動をわれわれは行っているし、これから患者医師マッチングシステムを運営する予定である。

公的、民間を問わず、このような医療決断支援活動や患者医師マッチングシステムを支えるインフラが整ってこそ、安心と満足に満ちた日本の医療環境の熟成期になるものと信じている。金銭や名誉を追い求める一部の医師を責めるのではなく、多くの医師は人助けという最大の喜びに満ちた仕事をしたいと願っているという事実を国民は理解し、信頼にたる医師を育む気持ちを持ちたい。一患者の立場としての私もそう願っている。

健康安心がすべてに優る

健康コラム

健康安心がすべてに優る

La'TERRA

2004.3.1

株式会社ラテラネットワーク


 主侍医…すべてはクライアント(患者)のために

健康な時から、傍にいて健康管理のアドバイスと最善の医療を受けられるように水先案内をすることを目的にした「主侍医」を実践して14年になる。病気になってから治療を担当する 「主治医」 とは似て非なるものという意味で 「主侍医」と造語した。
 医師のアドバイスにお金を払う、しかも健康な時から契約をしてまで、というおおよそ日本ではなじまないこのシステムにいち早く理解を示してくれる人はいるだろうか、と最初は周囲からも 「コンセプトは理解できるが勇気ある行為」と皮肉的称賛を浴びた。
 大学の医局とは独立し、医師会にも属さず、保険診療も行わないといった、医者を守る三種の神器を自ら放棄したからである。
この仕事の要になる優秀な専門医との人脈づくりに奔走しながら、今まで廷ベ100社以上の契約とその契約者のかたから紹介をいただいた1000名に及ぶゲストクライアントのかたの医療決断支援を行ってきた。驚くことにそのクライアントの中には少なからぬ数の同業である医師が含まれている。健康な時からクライアントとしておつき合いするので、よく言われるような上下関係感は少なく、親密な話ができる。クライアントの方が喜んで言ってくれることは 「何よりも安心できることですね。そして病気の時は迷わず相談できる。」

納得・安心がすべて

人間にとって(動物にとっても)何が最もいやなことかと言えば「不安」なことである。経済的不安、人間関係の不安、事故の不安、病気の不安、仕事の不安、受験の不安など列挙すればきりがない。
安心安全なところに身を置きたいという欲求は動物本来の基本的本能なのである。
 医療の分野で安心を与えてくれる分かりやすいシステムは各種保険であろう。国民皆保険の医療保険はとかく、民間の保険システムは非常に発達してきている。病や生活習慣病に特化したものや、医療費のみならず休業補償まで含んだものや、ある程度シニアになってからでも入ることができるものまであるという。そういったものをうまく組み合わせることで得られる安心は大きいだろう。
更に人間は考える動物なので、安心を得るためには納得が必要である。医療の分野で言えば、これだけ医療技術が発達した今日、臨床現場では選択の余地がたくさん生まれた。選択の余地がなければ 「こんなものだ」と受け入れて、結果のいかんにかかわらず納得できて、ある種の安心が得られる。逆に 「これでいいのだろうか」と思うことが大きな不安を生むことになるのである。
「すべては患者さんが最善の医療を受けられるために」という我々主侍医の姿勢が安心を生むのだと考えている。
健康に対する安心を得るために、主侍医と契約するか、より適した保険に加入するかはみなさんの判断であろう。勿論、どちらも選択するという賢明な方法もあるということを示唆しておきたい。

『標準治療2004・2005』のポイント

表紙

正しい治療へ導く水先案内役

『標準治療2004・2005』のポイント

ホスピタウン

2004.9

日本医医療企画 発行


正しい治療へ導く″水先案内役″

医療決断を支援する機能に期待大
  • ご挨拶
  • 『ガンなどの大きな病気になった時の主侍医の活動』
  • 『病院で行なわれる検査』
  • 『医療判断・医療決断支援外来』
  • ご購入・ ご質問

自分が受けている治療は標準的で適切なものか? という疑問に答えるべく、2002年4月に発刊された家庭版ガイドラインとも言うべき『標準治療2002・2003』(日本医療企画発行)。2年の時を経て今年8月に、さらにスケールアップした改訂版『標準治療2004・2005』が上梓される。総監修者の寺下謙三氏に、同書発刊の意義と改訂のポイントを聞いた。

あふれる情報のなかから必須のエキスを抽出

…『標準治療2004・2005』は、どのような狙いをもってつくったのですか。

寺下
 患者さんが求めているのは安心・納得できる医療ですが、あまりにも情報が氾濫していて、どれを選んだらよいのかわからないのが現状でしょう。治療方針に納得するためには、いくつかの要素が必要だと思います。特に大切なことは、まず詳しい情報を知ること。もう一つは、たくさんある情報のなかからエキスを取捨選択することです。たとえば、本書の「受診のコツ」の部分はとても簡略に書いています。詳しい情報も確かに必要ですが、それよりも大事なことはエキスの抽出だと思い、ポイントが一目でわかるように工夫しています。今回の改訂では、「世の中にあふれている情報のなかから、必要な情報を抽出すること」に、初版以上に気を配りました。
また、「あなたの『医療決断』を支援する本」というサブタイトルを付けたのは、「患者さんが受けている治療は安心できる標準治療ですよということを知って、納得してもらいたい」という理由からです。決して、「その治療は間違っていますよ」と脅かすのではなくて、「今受けている治療は正しいんですよ、安心してよいのですよ」ということを、本書を通して伝えていきたいと思います。
現場で実際に行われている「事実上の標準治療」がわかる

…医療決断というものが、どうして今、必要なのでしょうか。

寺下
 私たちは何かをする時、「納得」して「決断」してから「行動」しますよね。これは医療に限ったことではなく、たとえば食事をする時も、どのくらい費用をかけて、どんな物を食べようかということを決めてから行動するわけです。もしその食事が失敗だったら、次は食べなければいい。
しかし、医療の場合は命にかかわりますから、そのような試行錯誤はなかなか難しい。ですから、医療を受ける場合は決断が非常に重要になります。たとえば、手術をして切るか切らないかという決断だけではなく、医者に行くべきか、何科に行くべきかなど、さまざまな決断の連続なのですね。そうした決断を正しくするための道具として、この本を有効に活用してほしいと思います。
本書では、執筆陣である第一線の専門医が現場で一般的に行っている治療を「標準治療」と位置づけています。厚生労働省や学会主導で作成される「公的標準」ではなく、「デファクトスタンダード=事実上の標準」ということになります。患者さんにしてみれば、「今、この病気については、日本の優秀な専門医にかかれば概ねこのような治療が受けられる」ということがわかるわけです。
また、これは完成品ではないので、今後、現場の意見を吸い上げて、必要な意見は次回改訂時に、本書に反映させたいと思っています。ですから現場の医師で、自分の医療標準はこのようなものだという意見があれば、ぜひ教えてほしいのです。
充実した執筆陣と掲載内容話題の疾患項目や別冊も

…初版の『2002・2003年版』と比べて、どのような点が充実していますか。

寺下
 まず、執筆陣の専門医が66人から116人に増えたことです。
その選定についても、患者さんをアクティブに診ている医師を中心に、私自身が患者になっても安心して診てもらえる医師ということを条件にしました。
また、掲載項目も増やしました。たとえば「話題の疾患」という項目を新設し、心原性脳梗塞、低髄液圧症候群、BSE、心臓突然死などを取り上げています。それから、読者の皆さんが医療に接する時の水先案内と決断の支援をするために「医療決断支援科」という項目を設けているのも特徴です。本書のエキスともいうべき部分なので、購入されたら最初に読んでほしいですね。あと、「最新の検査」や「医療専門用語」に関する別冊も付けました。
最後に強調しておきたいのは、私が常日頃の診察の時から気をつけていることでもあるのが、「アカデミック=学術的」、「プラクティカル=実践的」、「カンファタ ブル=人にやさしく」 の3つをバランスよくかみ合わせて本書をつくったということです。この3つが揃っていることが納得診療のコツとも言えます。

…医療者にはどのように使ってほしいですか。

寺下
 本書は専門書に比べるとコンパクトにまとめていますから、短時間でその病気のことがわかります。
自分の専門外のことを調べるには非常に役に立ちます。ですから患者さんに説明する時に非常に参考になると思います。「受診のコツ」は、これを基本にして、この順番どおりに説明すれば、患者さんは納得するのではないでしょうか。「受診のコツ」に掲げる項目は、患者さんが聞きたいことだと思いますので、アレンジして読み替えて説明してあげるとよいと思います。
私自身もかつて、「医者が本を調べたら、患者さんからこの医者は信用できないと思われるんじゃないか」と思っていました。だから、薬の説明をする時など「念のため薬の名前をチェックしましょう」と、言い訳をして調べました。ところが、患者さんからは「あの先生はわざわざ自分のために本で確認してくれている」というように評価されるようになって驚いたのです。きちんとした態度で本を調べて確認するということは悪いことではないと気づきました。患者と会話をするツールとして利用してほしいですね。

消化器外科 NURSING

表紙

消化器疾患看護の専門性を追求する

巻頭エッセイ

消化器外科 NURSING

2005.1.1

株式会社メディカ出版


「医療の仕組みをアレンジしていくだけでも、安心で快適な医療環境をつくることができる」というコンセプトのもと、20年前、仲間の医師らと私的医学医療シンクタンク(現寺下医学事務所)を創設しました。設立当初は電子カルテや医師の相互コンサルトシステムなどの開発を行いましたが、行き着いたところがローテクノロジーの「主侍医」という考えでした。今までの「主治医」は、日本の保険システムの制限で「病気になってからの担当医」ということであるのに対して「健康なときからそばにいる医者」という意味です。まさしく皇族の「侍医」のような役割を受け持つ医師です。主侍医は、交響楽の指揮者や飛行機の管制塔のような役割を担いますが、なによりも患者さん(主侍医としてはクライアントと呼んでいます)のさまざまな医療決断を支援することがおもな役割です。

今や、日本にもアメリカより「情報開示と自己責任的医療」の波が押し寄せています。この現象は、マスコミによれば国民の要望であるとしています。私の考えでは、アメリカと日本の社会的背景は違い、本当は日本の国民は「医は仁術じんじゅつに基づくお任せ医療的安心」を望んでいるのではと考えています。その間を埋めるのが、われわれの提唱している「主侍医」なのです。何事も「決断」することには知識とエネルギーが必要です。車や家を買うときはもちろん、昼ごはんに何を食べるかを決めるのも時には迷います。ましてや命がかかった医療決断には、計り知れない知識とエネルギーと心の強さが必要です。

われわれ主侍医の専門は何かと聞かれたら「医療判断医」と答えています。クライアントの医療決断を支援するのがおもな職務だからです。この決断には医学的根拠はもちろん、心理学的情況と社会学的背景への十二分な配慮が必要です。実際的な専門医の人脈も不可欠です。専門医や治療法選びから、病気の受け入れ方、予防医学的活動などについてクライアントの方と一緒に決断していきます。今のところ実験的実践といったところであり契約人数を限定させていただいています。看護師さんの経験がある方で、われわれの考えている「医療決断支援師」を目指される人を求めています。我と思われん方はぜひ門を叩いてほしいと願っています。

老化には6つの顔がある

表紙

老化には6つの顔があります。まずあなたのタイプを理解して

老化には6つの顔がある

メイプル

2005.4

集英社


暮しの質を上げ、若さを保つためには

同じ年齢なのに、老けている人もいれば、はつらつと若々しい人もいます。老化は、人によって違うのでしょうか。
「体のさまざまな器官のピークは15歳から20歳くらいまでにあり、以後は徐々に落ちていきます。老化の原因はさまざまですが、誰でも20歳ごろから始まっているのです。ただ、落ち込み方、老化の進み方は一様ではありません。なだらかにソフトランディングするか、どこかの時点で急激に落ち込んでしまうかで老化の表れ方は異なります」と寺下謙三先生。

若さをキープしている人は、なだらかに老化できているわけです。
「ただし老化は、心や生き方とも深くかかわります。私たち医師は、多くの方の体の状態、実年齢を知ることができますが、気持ちが前向きな人は年齢より若々しいことが多いと実感します」
気持ちも大切で、体の老化を防ぐだけではダメ、と?
「老化には実年齢や体だけでははかれない表れ方がある、いくつもの顔があるということなのです」
寺下先生は、気づきやすい老化の顔として6つをあげています。実はこれらの「顔」こそが、いわゆる「体内年齢」と呼ばれているものでした。
「6つの顔の、どの老化が気になっているのか自分でチェックし、自分がどうありたいのかを具体的にイメージしてみましょう」
そしていつも、あるべき「顔」、つまり自分の望む「顔」を意識して生活していれば、若さを取り戻すこと、体内年齢を下げることはできるのです。

「生活習慣が大切なことは勿論です。バランスのとれた食習慣、適度な運動、生活リズムが健康的かどうか、もう一度点検しましょう。プラス、自分が体や心にいいと思うことを取り人れる、好きなことを好きな人とする。これも若さを保つためにぜひおすすめしたいことです。楽しくなければ続きませんし、コミュニケーションも重要ですから。これらが生活のクオリティを上げ若さを保つことにつながります。」

化には6つの顔があります。まずあなたのタイプを理解して

あなたの弱点はどこでさか?6つの部門をチェックしてみましょう

各部分の質問項目をチェックして、イエスが多い時は、そこから老化が進みそう。
思い当たる項目が半分以上あったら、それが、あなたがまず取り戻すべき若さです。

●精神

心も気持ちも弱くなっていませんか

  1. 誰にも会いたくないと思う日がある
  2. ついついコンビニに立ち寄ってしまう
  3. 些細なことで人と口論することがある
  4. ここ数年新しい飲食店を開拓していない
  5. 異性といるより同性同士のほうが楽しい

精神の老化とはひと言でいえば「頑かたくなに」なること。視野が狭くなり、人の意見に耳を貸さなくなってしまうことも。硬直した精神は、ストレスに弱くなることでもあります。これでは心楽しく日々を過ごせなくなってしまいます。
新しいことにトライしないから、体の諸機能も衰えます。ストレスに対抗するために、呼吸法にチャレンジしてみては?

●脳

若さを取り戻せるかどかはトレーニングしだい

  1. 目の前の人の名前を思い出せないことがある
  2. 「あの人」「あれあれ」などの指示語が会話に頻出
  3. つり銭の計算で指を折って数える。
  4. 運転中話しかけられて返事ができなかった
  5. 感動した映画のあらすじをうまく紹介できない

どんな人でも、ある程度の年齢になると、もの忘れには悩まされるもの。ついさっき会った人の名前を忘れてしまうこともあります。
これを「年相応のこと」と放置すると、ますます老化が進みます。
今話題の脳のドリルも気になりますが、脳のトレーニングは、紙とエンピツがなくてもできます。下記の脳のトレーニングは日常の生活でできることばかり。

●筋力生活機能

日常に直結する力だからこそ手入れが大切

  1. 体重が同じなのにウエストのサイズが増えた
  2. 階段を上るのはできるだけ避けたいと思う
  3. タクシーを使う機会が増えてきた
  4. ノースリーブの服が似合わなくなった
  5. 重いものを持つ時、思わずかけ声が出る

日常の生活では、使う筋肉の範囲も運動量も限られています。だから意識的に運動しないかぎり、現代人の筋肉は落ちているのです。
でもそれを筋力や生活機能の老化とは意識せずに、行動(がんばり)で補っている人も多いもの。
本当につらくなって病気になる前に、ウォーキングやピラティスを試してみてください。

●代謝

脂肪だけではない。内臓の衰えにも気を配って

  1. 筋肉痛が行動の翌日ではなく翌々日に出る
  2. 二日酔いが午後まで残ることが多くなった
  3. 肩こりがどんどんひどくなるようだ
  4. 疲れているのに早朝に目覚めてしまう
  5. 汗かきだったのが、汗が少なくなった

代謝とは、体にとりこむいろいろな物質やエネルギーのやりとりのこと。脂肪がつきやすくなることのほかに、うまく活動エネルギーが取り出せずに疲れるなど、代謝が落ちていることを示すサインはいろいろあります。ピラティスや整体で体調を整えれば、代謝もぐんとよくなってくるでしょう。

●免疫

家庭にも仕事にも影響のある老化。無視せず見つめて

  1. 季節にかかわらず、風邪をひくことが多い
  2. 切り傷、すり傷がなかなか治らない
  3. 帯状疱疹になってしまった
  4. いつものどに違和感があり、たんがからむ
  5. 笑うことが少なくなっていると感じる

免疫は体の防御機能。「体が弱くなった」とは、免疫が落ちていることなのです。感染症にかかりやすくなると、体の諸機能に影響を及ぼします。直接鍛えにくい機能ですが、笑う機会が多い人は免疫力もアップします。そして、ピラティスや整体で、呼吸法も有効です。

●容姿

今からこそ磨いて、人生をエンジョイしたい

  1. 自慢だった二重まぶたがタレ目になってきた
  2. 合うファンデーションとめぐりあえない
  3. 昔からのヘアスタイルが似合わなくなった
  4. バーゲンセールに食指が動かない
  5. 気合を入れたおしゃれが面倒くさい

女性にとって最大関心事の老化です。肌のトラブルは、主として紫外線や活性酸素の影響。また細胞の保水力が落ちることも関係しています。認めたくはなくても、うすうす老化に気づいているとなげやりになりがちなものですが、水のとり方、姿勢や歩き方も大いに容姿に影響を与えます。ウォーキングを学ぶのも効果あり。


脳トレーニング

  • 起きた時、昨晩食べたものを材料まで詳しく思い出してみる
  • 朝、時間をかけてしっかりとメイクする
  • 毎日読む新聞の記事から「の」を拾い出す
  • 3歩目をやや大股に、5歩目をやや大股にと順に歩く
  • 新しく電話番号を覚え、その番号を逆から言ってみる
  • いつもよりレンジの口を多く使い、一品多くの料理を作る
  • その日外出した、出先までの地図を描いてみる
  • テレビのニュースを見ながら、自分で作った規則に従って耳さわりゲームをする
  • お風呂の中で、過去と明日に点数をつけてみる

スーパーファーストオピニオン

表紙

医療、生き残りのための方法論 [総特集]Part3

◆患者本位の医療実現

スーパーファーストオピニオン

医師と患者の信頼関係回復を願って

 

月刊新医療

2006.1

株式会社エム・イー振興協会


セカンドオピニオンの定義

セカンドオピニオンについて考察する前に、その言葉の定義を碓認したい。以下に、本誌「月刊新医療」2004年2月号に掲載した文章を改変し、記載してみる。

「患者が受けている診断や治療について、現在の、に主治医以外の医師から求める別個の意見のこと。医師が患者に診断名やいくつかの治療法を説明し、勧められた治療法に同意するという考えはインフォームドコンセントと呼ばれ、米国では一般化している考え方である。この制度を支える仕組みの一つとしてセカンドオピニオンがあるとも言える。日本では、独白の日本人的気質や保険制度の面からもまだまだ一般的ではない。ここ数年でインターネットを利用したセカンドオピニオンの提供サービスや、外来にセカンドオピニオンの受け入れを明記する医療機関も増えてきた。現状の保険制度では、『1つの疾病に関しては1つの医院や病院のみにしかかかることはできない』という重複診療の禁止と呼ばれる規則があり、原則的にはセカンドオピニオンは保険の適用とはならない。現状では一部の医師の善意や病院の広報活動のもとに細々とセカンドオピニオンが実行されているにすぎず、今後、医療制度としてまたは医療ビジネスとしてセカンドオピニオンのシステムが整備され、医療レベルの向上や患者の安心増大に寄与するのではと医療関係者と国民双方から期待されている」。

インフォームドコンセント・インフォームドチョイスは患者のためか

「医者が丁寧に説明しない」という患者側の不満は「待ち時間が長い」という不満とともによく聞かれる代表的な国民の声であろう。旧来の日本の医療を批判する目的で「密室医療」という表現が使われることが多い。「閉ざされた医療」「お任せ医療」なども何様の意味で使われている。密室医療ゆえに医師の傲慢さが助長され、今日のような医療ミスが多発する現象を来しているという論理であり、なるほど一理ある思われる。そういった声に対して応えるべく、「開かれた医療」「情報開示」「カルテ開示」などという一連の動きが出てきたのが、日本の最近の医療社会動向である。しかし、私はこのような動きに対して若干の疑問と憂慮を感じている。 「治療A、治療B、治療Cと説明しましたが、患者様であるあなたが自己責任において好きなコースを選んでください。もし、いずれもお気に召さなければ、転院も気兼ねなしにどうぞ。今までの料金も一切必要ありません」と医師が商売人顔負けで話している姿を想像してほしい。

そもそもインフォームドコンセントはアメリカでは、医師側を守るために普及してきたのであろう。医師としてきちんと科学的な説明をして、患者が自己責任で同意したり選択するのだから、その結果の責任は患者側にあることを明確化するためである。日本では、従来からの「お任せ医療」的医師の説明不足を糾弾する目的で、インフームドコンセントの必要性が叫ばれてきた。もちろんそのお陰で、一昔前に比べると、医師も時間を何とかやりくりして分かりやすく説明するようになった。その意味では、インフォームドコンセント普及活動は役立っていると私も思う。

しかし、患者は医師から治療法を説明されて、それに同意するだけではなく、いくつかの選択肢から1つを選ばなければならない。これは患者にとって大変なことである。健康や生命の危機に瀕している患者がいろいろな医療決断をするのは、あまりにも荷が重いからである。

セカンドオピニオン崇拝が招くドクターショッピング

このようなインフォームドチョイスをするに当たって、素人の患者だけでは判断がつかないことが多い。となると必然的に別の専門家の意見を聞こうということになる。これがセカンドオピニオンである。しかし、現状の日本ではまだまだ問題点が山積されている。専門家にとって、別の専門家の意見に対して異なった意見を言うことはとても責仕が重い重労働である。ところがそういった活動に対して、日本の医療保険は報酬を規定していないどころか、重複診療の禁止ということで表向きは初診料など一切の診療報酬も認めていない。医師や病院の奉仕や営業的サービスに負っているのである。

実際、セカンドオピニオンを聞きに、患者は知人の紹介やインターネットなどの情報で別の医師の診療を受ける。もちろん、保険診療のカルテを使ってである。重複診療であるかどうかはその病院では判断できない。それどころか患者さんを断ることもできない。セカンドオピニオンをするためには、、まず現状の医療経過を十分聞かなければならない。多くの外来患者を待たせながら聞くことになる。それでも熱心な医師たちは最大限懇切丁寧に対処する。しかし普通の外来では1人に30分くらいが限界であろう。それもそんな患者が1日に2人もいればその外来は崩壊寸前となる。他の待っている患者の逆鱗に触れるからである。実際、私は何度もそのような体験をしている。悩みを相談し始めると30分はあっという問で、1時間でも「今日は短時間しかお話できなかったので」という帰りがけの患者の言葉にに驚くこともしばしばである。私が患者の立場でもでも同様に感じるのだと思う。

そんなわけで、一旦セカンドオピニオンを聞き出すと、なかなか満足できず患者の不安は増強し、もう1人の医師の意見も聞きたいということになる。これが「ドクターショッピング」という不孝の始まりとなる。中には「最低3人の医師の意見を聞いて多い方の意見に従うことに決めている」という方もいらっしゃる。これは医師にとっても、日本の医療財政にとっても、なによりもその患者自身にとっても大きな不幸である。

医療判断はとても難しい!

物事を決断することは概ねしてとても困難である。夕食を何にするか。どの車を購入するか。楽しい迷いであっても、時に決断に苦しむ。ましてや、命にかかわる医療決断をすることは素人には酷なほど難しいし、実は医師にとっても難業なのである。

なぜかというと、医療決断は単なる医学的根拠のみでできるものではないということである。私が考えるだけでも「心理学的状況」「社会学的背景」という大きな要素が別個存在する。それぞれの病気の最新の治療法などはインターネットなどで簡単に入手できるであろうから、医学的根拠以外の要素が医療決断には重要になってくる。そういう意味では単に同じ専門分野の別の医師に意見を聞くということだけでは、セカンドオピニオンが完結しなくなる。

今まで述べた理由にょり、臨床医療決断支援の専門家が必要になると私は考えている。

医師と患者のマッチング(出会い)とスーパーファーストオピニオン(SFO)

前述の「臨床医療決断支援の専門家(医療判断医)」なるものが日本に定着すればよいが、実際は夢物語かもしれない。実現可能な案として、私が次に提唱していることは患者が適切な医師にスムーズに出会い、信頼関係を築くための、より現実的な方法論である。

「患者と医者の信頼関係を良好にすることが大切」とだれしもがもっともらしく言うが、そんなことはそれこそ誰もが分かっていることである。問題はその方法論である。私は16年前より健康な時から傍にいる民間版侍医なる「主侍医」活動をパイロットファームとして行ってきた。嫌というほど「患者と医師の信頼関係」の重要さを身につまされてきた。ところが自分という人間にとって適切な医者に出会い、しかもその生身の人間である医師と信頼関係を築くのはそう容易ではない。いくら頑張っても、一般的に与えられた初診の診療時間内には不可能である。

私の長年の経験では、最低でも2時間の面談が必要であると考えている。どんな高級レストランに行っても、どんな高額オペラを観に行っても、シェフや歌手などの職人を2時間も独占することはできない。医療の世界では、高度な職人である医師を独占しなければならない。ここが患者と医者の信頼関係作りの極めて困難なゆえんである。私は今、この「患者医師マッチングシステム」の実現のために東奔西走している。患者の病気に適し、また相性がよいと推定される医師を探し、2時間の面談相談で信頼関係を築く。時には、医療決断支援専門スタッフが面談に同伴する。そうなると、セカンドオピニオンなどを患者がしなくてよい。プロである医師が患者のために前もって他の医師とも相談しベストな道を考えるからである。天皇陛下は侍医たちに「セカンドオピニオンを聞いてみたい」というであろうか?これこそ私の造語で定義する「スーパーファーストオピニオン(SFO)」である。

つまるところ、「セカンドオピニオン」はドライで契約至上主義のアメリカ的であり、日本ではSFOが似つかわしいと私は考えているのである。最初からベストを目指し、迷わないシステムの方が日本人に合っている、と私は思っている。次善の策として「ベストセカンドオピニオン(BSO)」という造語も考えている。セカンドオピニオン必要の理由が「医師への疑い」ではなく、「主治医の意見のリコンファーム」もしくは「残るもう1つの可能性」であってほしいからである。疑いだしたらキリがないし、患者と医者の信頼関係などどんどんなくなる。医療資源もどんどんなくなる。

現状の医療保険制度の中に位置する医療判断医、SFO、BSO

医療判断医やスーパーファーストオピニオン(SFO)などという概念は全く新しい考えであり、既成の医療保険制度には組み入れられていない。しかし、医療判断医による医療決断の支援があったり、患者医師マッチングによりSFOが提供されると重複診療や重複検査などが激減し、保険財政にも好影響を与えるであろうとは考えている。

現状では、保険や国から一切の補助を受けずに医療決断支援活動をわれわれは行っているし、これから患者医師マッチングシステムを運営する予定である。

公的、民間を問わず、このような医療決断支援活動や患者医師マッチングシステムを支えるインフラが整ってこそ、安心と満足に満ちた日本の医療環境の熟成期になるものと信じている。金銭や名誉を追い求める一部の医師を責めるのではなく、多くの医師は人助けという最大の喜びに満ちた仕事をしたいと願っているという事実を国民は理解し、信頼にたる医師を育む気持ちを持ちたい。一患者の立場としての私もそう願っている。

安心と幸福の医学

 

安心と幸福の医学

医療決断ということ
「患者様」が日本の医療を崩壊させる

暮しと健康

2007.3.1

保健同人社


健康なときから身近にいて、さまざまな医療決断をサポートしてくれる「医師患者システム」が究極の安心と幸福の医学だと自ら実践して16年になります。その経験から、最近の日本の医療が進んでいる方向に非常に危機感を感じていることをお話ししたいと思います。

人間のあらゆる知恵は「幸福」を求めています。医療ももちろん同様で、多くの医師や医療人は人の幸せのために頁献したいと日夜がんばっています。

さて、日本の現状はどうでしょうか?「医療不信」という言葉に代表されるようなマスコミ報道が絶えません。その影響で、日常診療でも「挑戦的な患者」「怯えかまえる医師」という不思議な構図が生まれつつあります。残念ながらその傾向は強まる一方で、使命感に溢れた医師たちはそのエネルギーを削がれ、自己利益に敏感な医師たちが台頭し始めたと言わざるを得ません。前者は「患者様」と呼ぶことに違和感を感じている医師たちで、後者はにこにこと「患者様」と呼び、医療もサービス業なのですよ、とわが意を得たりと平然としている医師たちです。極端な意見で、反論もあろうかと思いますが、象徴的なたとえと理解してください。

そもそも病気になることは、生活習慣病のように自己責任であったり、運命のいたずらであり、少なくとも医師の責任ではありません。また、医療はとても不確実な世界に存在するものです。われわれ生物は、とても残念なことですが、老化という逃れられない「一種の病気」のもとに、さまざまな病気やけがに遭遇します厳密な意味では完全にもとにもどる病気はないでしょう。

このようなむずかしい世界にもかかわらず、日夜奮闘している愛すべき医師たちが私の知る限りでもたくさんいます。人は困難に遭遇したときには指導者を求めます。病気という困難を乗り切るために、医療医学の専門家である医師に知恵を求めるのです。学閥を教えていただく教師には「先生」と呼んで尊敬し信頼してこそ深い学びができます。自分の健康回復のために尽力してくれる医師を「先生」と呼んで尊敬し信頼してこそ、病気回復の知恵を本当にいかすことになると思っています。これは医師の傲慢とは程遠いものです。表面的には「患者様」と愛想笑いをして魂を売り渡し「商売」に走っている医師こそ傲慢なのです。

皆さんの身近にも立派な医師はたくさんいます。「患者様」と睦んでもらうことではなく、心から「先生」と呼びたくなるようなかかりつけ医を探しあてたら、「幸福と安心の医学」を手に入れた-とになると思います。日本の良き医療は、官僚やマスコミではなく、われわれ国民一人ひとりがつくりあげていくものです。

認知行動療法としての脳ダイエット

 

 ドクター寺下が教える

認知行動療法としての

        脳ダイエット

しゃきっと

 2007 AUTUMN

 ビジネス社


気分障害やうつ病、パニック障害、強迫性障害などの療法として、世界的に導入されている認知行動療法は、健康的なダイヱットにも役立っています。

「書く」ことで ダイエットを続けやすくなる

 「血管の老化」 が原因となって起こるといわれる脳卒中、 心筋梗塞を予防するための一環として、減量の指導をしてきました。みなさん生活習慣で気をつけなければいけない、 おおよそのことはわかっているんですね。だけどそこに気をつけて、毎日続けるということがすごく難しい。

私のクリニックではダイエット用の「養生シート」というのを作っていて、毎日体重を量って 100g 単位で、記録するようにしています。加えて自分の食事や生活、心身の状態を振り返って 5 段階の自己評価をつけていただきます。
一日に1 行記録するだけですが、これが結構面倒。でも励ましたりしながら、1ヶ月つけていってもらうと今度は、くせになってくる。どんどん続けるようになるんです。そして評価も×が続くと今度は〇にしたいという心理が働きます。そんな感じでツールを使いながら、おもしろおかしく減量を行っています。
こうして毎日「書く」というのは、実は認知行動療法の基本ともいえるものなのです。


「認知のゆがみ」を知り 行動を起こさせる

心理学で認知とはものの受け止め方や考え方のことをいいます。認知がおかしいことを「認知のゆがみ」といいますが、それによって気分がおかしくなるという理論が、認知療法の核となっています。そして認知行動療法というのは、認知のゆがみを知り、行動して体を慣らしていくというものです。
先ほど話した「書く」という行為が、「心の問題を認知に変える」 ということになります。通常なら「まあいいか」と考えてしまうのを認知のゆがみとして、正しい行動に移させようというのが、養生シートを使ったダイエットに取り入れられているのです。これによって心理的負担を軽くさせて、継続させることを可能にします。


認知のゆがみ 

1  全てか無か思考
      何事も O 点か 100 点の 採点基準しか持たない考え方
 2  一般化のしすぎ
      一回起こったことが何度も 続くように感じてしまうこと
 3  心のフィルター
      よいことを無視して 悪いことのみ残す
 4  マイナス思考
      よいことまで悪く考えてしまう 悪質な認知のゆがみ
 5  結論の飛躍した推論
      人の心の読みすぎや 先読みのしすぎ
 6  拡大解釈と過小評価
      悪いことを大きく、よいことを 小さくみてしまうこと
 7  感情的決めつけ
      単に自分が感じているだけなのに 証拠があるように確信してしまう
 8  すべき思考
      わざわざ過度なプレッシャーを 与えてしまう
 9  レッテル鮎りと 誤ったレッテル貼り
      一事が万事的な発想
10  個人化
      自分に無関係なことまで 関連づけてしまう


寺下議三先生 ( てらした・けんぞう )
寺下医学事務所代表、寺下謙三クリニック院長。
医療判断医、内科医、心療内科医。寺下医学事務所では、「主侍医倶楽部」とスーパー医局プロジェク卜 「 Terra&Drs」 を運営している。

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