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親友の急死

あまりにも突然、30年来の親友を亡くしてしまった。つい先日お別れの会をしたばかりで、とても気持ちの整理がついていない。文章も上手くかけないが、他のことにも手がつかない。こんなことではいたしかたない。気持ちを整理するために書き留めることにした。
その親友はAという。元々はテニスで知り合った仲だが、最近では日常的に身近にいた。といっても知らない人にはその雰囲気を伝えるのは少々困難である。仲の良い兄弟のようと言ってよいのか、大切な愛犬のようと例えてよいのか、、、。少々不思議である。
私もヨワイ55歳となると、友人を無くすという悲しいことがちらほら出てくる。友人の多さはかなりなものであるとは、自他ともに認めるところだ。「そんなにたくさんの友人がいるのだから、Aさん一人亡くして、そんなにいつまでも悲しんでいたら、他の友人に悪いよ」とも慰めてくれる友人もいる。一般に数多い持ち物の一つが無くなるのは、貴重な2、3個のものが無くなることよりショッックが少ない。ところが、今回の経験でその考えは重要な間違いであることに気付いた。友達や家族が多い程、このような悲しみの機会が多くなってしまうということだ。多くの親友の一人であろうが、少ない親友の一人であろうが悲しみの深さは同じであるからだ。勿論、親友と言えるくらいの関係を保てるには人数に限りがある。共に時間を過ごせることが、親友には不可欠だからだ。
A君は、僕が嬉しいときは心から一緒に喜んでくれた。「それいいねえ」インテリアコーディネイターだった彼は、妥協せずにアドバイスをくれた。「それはちょっとおかしいね。美しくないね」心からのアドバイスは批判であっても心地よい。彼ともう一人の親友Kとのコンビで僕の自宅兼仕事場を設計してくれた。3人もしくは、妻も入れて4人で、あちこちの住宅見学に出向いたのは10年以上前である。「このアイデアを盗もう」「この素材がいいね」どれだけの見学をしたことか、数えきれない。友人でなければ、どんな一流の建築事務所でもそこまではしてくれなかったであろう。「友人が楽しく集まれる家とクライアントの人が親しみを持てて安心する仕事場」をコンセプトに今の事務所兼自宅ができた。その想定通り、AやKを中心にいつも友人が屯する家となった。今年の元旦の夜もAは(目下独身一人住まいなので)、我が家で一家4人と子供の友人たちと混じり、すき焼きを食した。1月6日には、AもKも含めた7、8人で「上海がにを食べる会」を楽しんだ。その後、1月の半ばは風邪で寝込んでいるとKから聞いたので、しばらく(珍しく2週間も)連絡しなかった。1月27日、風邪も大分よくなったということで、事務所の大きなテーブルを、近所の分室まで運ぶ作業をKとともに手伝ってくれた。いつものことであるが、このような手伝いを二人は何の嫌な顔もせずに協力してくれる。その時「取り敢えずのお礼で」と事務所スタッフと一緒に食べたのが「ココイチカレー」だった。なんとこれが彼との最後の食事となったのである。2月9日、10日とAに電話したが返事が無い。いつもは遅くとも翌日には返答がある。祭日明けの12日、Kと「おかしいね。」と話した。そこで、Kが、アパートまで様子を見に行ってくれた。昼頃、Kから電話があった。震える声でKがつぶやいた。「Aが、、、駄目だった、、、」この言葉は一生忘れることができない。後ほど分かったことだが、6日の夜に既に息絶えていたようであった。
AやKと御殿場の山荘にもよく一緒に行った。その時によく訪れる市営の温泉につかりながら「湯船につかるのは3ヶ月ぶりだなあ」とAはいう。3ヶ月前は一緒にこの同じ温泉に入った。その数ヶ月前には、鹿児島の温泉に行った時、、、、と言った具合である。彼の住むアパートにはシャワーしかなかったからで、決して不潔な訳ではないことを彼の名誉のために付け加えておく。「それにしてもここ数年、お風呂は寺下さんとKさんとほとんど一緒だなあ」といつも嬉しそうに言っていたことを生々しく思い出す。
彼の死後、彼の住んでいたアパートの整理のためにKたち3人で出向いた。小さいアパートで、コンパクトな空間に彼のすべてが凝集されていた。3人とも涙をやっとの思いでこらえながら作業をした。
最後にAが手伝ってくれて設置した大きなテーブルがある分室に、Aと親しかった友人に声をかけて、「お別れの会」を開催した。この分室は古いビルの1階にある小さな1室であるが、「友人仲間のギャラリーや小さな教室として使おう」と僕が提案し、AやKらと一緒に運営していこうと準備を始めたばかりである。大テーブルの設置はその第一歩であった。
中学時代から慶應ボーイであった彼の古くからの友人、僕の友人でつい1年程前紹介した人まで40名程集まった。古い友達にも新しい友達にも共通しているのは、彼への素直な思いである。会場には、Kと最近この3人組に加わったY(僕の絵の先生)とその友人I(Aのカラオケ仲間になりはじめたばかり)たちの協力も得て、Aの思い出の写真が満載された。こんなにも多くの人の心をとらえていたAと、あのアパートの小さな部屋の映像が僕の頭の中で交錯した。豪華絢爛なものに埋もれている昨今のセレブには想像すらしがたいだろうが、こんなに大きな存在感がある。
「いのちより心」が、最近の僕の仕事や生活の根底に流れる思いであるが、補足したい。「”いのちより心”と言える程の大切な心を宿しているいのち」の尊さを再認識した、と。そんな「いのちとこころ」を対象とする僕の仕事に、震えるような謙虚さを伴った使命感を再確認した。
そもそも僕が医師を目指した動機は単純明快なもので、それほど高貴で立派なものではない。「父母を始めとした身近で大切な人の命を守る仕事がしたい」と小学生低学年の時に強く思ったことが続いただけなのである。その証拠に、母が大学最終学年の時に他界し、「医者になるのをやめる」と駄々をこねたのであるから。(幸い親友から説得されたので今があるのであるが)
A君がこんなに人の心に甘く残っているのは(実際の行動は破天荒で、友人たちはよく笑いながら「困ったもんだ」言っていたものだが)、「妥協無き自分の快楽の追求と、友人たちの喜びに対するこれまた妥協も疑いの余地のない共感」でなかっただろうか、と僕は確信している。
お別れ会の当日、Aの学生時代からの親友の一人Yaが、僕に向かって、涙ながらに言った。「寺下さん、あんたがこれほどまでAと仲良く付き合ってくれたのは、あんたがしたくても出来なかったことを彼がしてくれたからなんだね、と今分かったよ」と。まさにそうだったかもしれない。
彼との死別が教えてくれた素直で優しい心でいろいろなことに励めるようになるまで、まだ心の整理に時間がかかるかもしれない。煮込み料理の火を止めたあと味がしみるかのように、親しい人との死別により、彼からのメッセージは、生きているときよりも数段激しく心に深く沁み入ってくるものである。
いつまで書いていても書ききれない思いがあるが、ここで一旦ペンをおきたい。

 

作成:2009/02/16

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