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政治・経済

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人間の幸せ度 2016/7 主侍医通信より

2016年07月27日
 英国のEU離脱が国民投票で決議されました。色々な観点からの意見や感想があることでしょう。いずれにしろ国を二分する戦いが起こっていることは事実です。またアメリカではトランプ氏が大統領となる可能性も全く否定はできない状況と見受けられます。「そんな馬鹿な」と大勢が思っているようなことが平気で起こり得るのです。ISや北朝鮮の危機は一向に治まりそうもありません。世界の景気が同時に悪化する懸念があります。国内に目を向けてみると三菱自動車、東芝問題をはじめとした大企業の中枢から発した不祥事が次から次へと明るみに出ています。大塚家具の問題に代表される内紛は後を絶ちません。公務員や医師や大学教授の不正、芸能界をはじめとする不法薬物問題もキリがありません。

 人類は、その類まれな知恵で常に進化を続け、特に直近(?)の2000年の進化には、目をみはるものがあることは誰もが認めるところでしょう。では、それでどれだけ人間の幸せ度が向上したのかというと、それほどでもないのでは、とこれまた多くの人が感じ始めているようにも思えます。

 医学の分野で言えば、寿命が圧倒的に伸びたことが絶大なる進化といえるでしょう。歴史的に多くの人が亡くなった感染症をどれだけ克服し、数十年前には治療を諦めていた白血病や黄斑色素変性症などもかなりの確率で治癒できるようになりつつあります。また手術に際する痛みの制御も驚くほどの進歩があります。開腹手術の翌日には歩けるなんて、私が大学受験直後に自然気胸で入院した時の記憶からは隔世の感があります。

 医療人の一員として、人々の幸せにいくばくかは貢献している、との自負を持ちたいのですが、冒頭に掲げたような大規模な不幸に囲まれた現状に複雑な思いの今日この頃です。

 暗い話をしてしまいましたが、主侍医としてできる限りを尽くす、という原点を大切にしつつ、「幸福論思想家」の活動を目指している身としても、皆さまの笑顔のために奉公したいと思っています。
 
2016年7月 吉日 寺下謙三

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相談が一番大切 2014/5主侍医通信より

2014年05月22日

衣替えをした途端にまた寒くなるという意地悪な天気を恨んでいる方も多いと思いますが、体調はいかがでしょうか?

最近の新聞紙上で、医学や健康の話題が多くなりましたが、数週間前の日経新聞にベテランの癌専門医がコメントしていた記事をみて、私自身が歩んできた道は、それほど外れてはいなかったのだと慰められました。

「長らく癌の専門医として治療を続けていて、患者側から見てもっとも大切なことはきちんと相談できるということであるということに気づいた。十分相談して納得して治療を受けていれば、それから先の人生に大きな違いが出てくるからだ。結果がどうであれ、癌を受け入れて新たに前向きの人生を作っていけるからだ。」

といったような内容でした。具体的な先進的な治療の議論ではなく「相談が一番大切」と感慨深く述べられたその一文を読んで、私の今後の総括的活動の方向性の再確認ができた思いでした。

なぜなら、我々医師の最大の望みは、患者さんに最長の寿命と痛み苦しみからの解放にどれだけ貢献できるかですが、残念ながらいくら頑張ってもそれには限度があり、たかだか数%のお力になるために大変な努力を必要とします。経済産業の社会では、利益を倍にすることも10倍にすることも可能です。今や無限大に儲けようとしている企業(人)も少なからずいるように見受けられます。我々が医療の世界でもし数%の力になっているとしたら、それは大変なことだと自画自賛していましたが、患者側の気持ちになってみると(実際医師も人間で、度々患者側の気持ちを体験するのですが)、自分の大切な人が大病になると、どんなことをしてもいいから世界で一番の治療を受けさせて治してあげたいという気持ちになります。でも医学の限界は寿命の前では微々たる力しか持ち合わせていません。歴史的に見れば、私が生まれた昭和28年の男性の平均寿命は59歳ですから、現在までに20年も寿命が伸びました。また明治以前では結核で亡くなったりお産で亡くなったりするかたはかなりの数でしたが、今やゼロとはいきませんが、かなり少なくなりました。さらに有史以前に遡ったら、人間の寿命は倍です。これがすごいのか、たったの倍どまりなのか、ということです。他の分野と比べたら「何万年かけてたったの倍」となるでしょう。そして我々医師が、懸命に努力しても数%貢献できるかどうかの世界である事実は、人生を振り返り愕然ともします。

だからこそ、「納得できる医療を受ける」ということが最も大切なことで、特に重病時には、「信頼できる専門家に徹底的に相談して具体的な助言を受けて、十分納得してから医療を受ける」ことこそ最善の医療であるという私の持論の結論に至ったのです。そのための方法論はいくつもあるでしょう。その一つが、私が今まで培ってきました「主侍医システム」ですが、この部分だけに特化した、より完成したモデルを構築したいというのが、これからの課題です。

もう一つ、大切なことと考えているのが「一般人向けの医学教育」です。英会話はじめ、教養としてのカルチャー講座が各種充実しているのに、他の分野のインテリでさえ、教養としての医学知識があまりにも少ないのに驚くばかりです。その代わりにキワモノの医学情報がネットやテレビで氾濫していますから、真っ当な医療を評価できる力が不足して、当然の結果、納得できる医療を受けるチャンスが減ることになります。私は、中学、高校では無理でも、大学の必修科目ぐらいにはなって欲しいと考えています。

「教養医学塾テラ小屋」は、そのシンボルとして4月より復活開校しましたが、今後は企業の社員研修の一環としてプログラムを開発し広めていきたいと考えています。長らく主侍医を務めていますT社さんの社員教育を10年以上も続けさせていただいていますが、社員の方から喜んでいただいています。是非、皆様の会社でも採用いただければと願っています。

「テラ小屋」では、私が知識を振り絞って、面白く医学を学べるように工夫しております。契約ご本人様には無料でご招待しておりますので、お気軽にご参加ください。ご家族や秘書の方なども優待しておりますんどえお問い合わせください。

 

2014年5月 吉日  寺下 謙三
 

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東大教授汚職事件に思う 2013/7

2013年07月26日

今日の新聞やテレビのトップニュースに現職の東大教授の汚職事件(横領?)が取り上げられていた。
国民のみなさまも、「またか!」とお偉い人の汚職に対して、さほど驚かなくなったのではないだろうか?
事件自体も嘆かわしいし、驚かない国民にもなんだか物悲しい感じがする。

僕の今年の年賀状やこのブログなどでも、今後「幸福論思想家」を目指すと、豪語したのだが、思想家は実社会の現場を離れてこそ自由にものが言えるし、言った事に自己の損得と関係ないことが明白な立場にいることが説得力に於いても大切だと思っている。しかし、僕の「医療分野の監督相談役」としての主侍医稼業はそう簡単には終了宣言できない。だったら、今の務めを行ないながら、言える範囲だけでも言いたい事を発信していくこともありかと思っている。

今回の事件は、単に悪い人間がたまたま大学教授になったのではなく、構造的問題が今の大学内には蔓延ってきていることがそもそもの根本的問題だと僕は思っている。僕が大学にいたころも悪徳教授はしっかりいたし、それにごまをする悪徳な取り巻きもいた。しかし、周囲にいながらも真っ当なアカデミックな人々は、そのことを認識していたし、自分はあのようにはなりたくないと思っていたはずだ。

しかし、現在の大学はどうだろうか?「国家の繁栄は経済の発展があってのもの」という名の下に、大学のアカデミズムは消えようとしている。大学内でさえ、ほとんど全ての活動が経済的価値の指標で測られる。日本においては、東京大学はアカデミズムの中枢であるべきだと言っても、異論を唱える人は少ないだろう。少なくとも日本を代表するアカデミズムの殿堂である東京大学の中を見る限り、営利企業があまりにも関与しすぎているように僕には思える場面が多い。医学部にしてもそうだ。東大病院も独立採算であるべきだという真っ当そうな批判のもとに、売り上げを意識した病院運営を余儀なくされている。運営側の責任者もそれをよしとしたのか、売り上げ(だけでなく経営という視点を重視するということだが)向上に悪戦苦闘した。それを成し遂げた人にそれなりの賞讃が与えられた。

しかし、僕にはなにか違和感を感じざるを得なかった。日本を代表する病院の一つとして東大病院を考えるなら、独立採算を最重要視するのは得策だろうか?しかも、どのような技術料も同等に評価する国民皆保険制度のもとに於いてである。それを成し遂げたとしたら、その経営陣は大学の中枢においておくよりも、どこか大企業の社長になった方が向いているくらいの人材ではないだろうか?
すぐには採算が取れないが、未来の重要な技術になる可能性を研究したり、また永遠に採算など取れないだろうが、人類の未来に何らかの貢献をするかもしれないことや、ただ人間にとって興味のあるだけの事などを、損得抜きで研究するのが大学の、少なくとも国家の中枢的存在であるような大学の役割ではないだろうか。そして、その研究をしたり教育したりすることに一生を捧げたいと思うような人が大学に残って研究する学者になっていくのが真っ当なのではないだろうか?国家としては、そんな研究をする大学を全面的に支援し、報酬はさして多くはないが名誉と自分の知識探求欲を満たして満足するのが大学者であり、それ故に尊敬もされたのである。


ところが、現状の大学者をみてみると、少なからぬ人たちがお金に大きく関与している。新しい発見をしてベンチャーする事に(のみ)生きがいを見いだしている人がごまんといる。そして、本日報道された汚職教授のように、お金と結びつく研究をしている人を羨ましく思い、自分もそれを目指してしまう。最近では、企業と組まない大学研究者は稼ぎが悪いと肩身が狭い。医学や工学系ではそれが顕著で、文学部などはそれこそ大学学部のマイナーな重荷になりつつある。もともと文学部などはオリンピックで言えば、マラソンに例えられる花形である(と僕は思っている)。オリンピックが、ゴルフやテニスや野球が中心になったらもはやオリンピックという「人間の肉体の極限を競う」という趣旨から外れて「いかに観客を集めスポンサーを集めるか」という興行的なものに陥ってしまう。それなら「ワールドカップ」や「全米オープン」などと同じになってしまうし、その傾向もちらほらでてきたのではないだろうか?ただ4年に1回しかないという特徴があるから貴重だとなってしまうだけであろう。
大学も同じである。実践利用されてなんぼのものと競うだけでは、企業内研究室と変わりはない。100M走の0.01秒なんてどうでもいいような事を競ってこそオリンピックなのである。少し前「(大型コンピュータの性能が)どうして1番でなくてはならないの?」ととぼけた(と僕には思えた)質問をした政治家を評価した風潮があったが、それでも一番を目指すところが大学の研究である。企業なら当然「歩留まり」のほうが大切であることは誰でもわかる。このように、企業家からみてくだらないと思えるような事を、綿密に飽きもせずに続ける事が出来るのが大学者の本来像ではないだろうか?

特殊で過激な意見を述べたように思われるかもしれないが、その底辺に流れる思想は、普通の当たり前の事ではないかと思っている。今後、「幸福論思想家」の端くれとしては、「ほとんどの社会活動には、幸福論的グランドデザインが大切でではないだろうか?」と思っている。
東京理科大の理念に「科学は良心に向かう」という言葉をみたが、まったくその通りだと思う。核爆弾は科学の成果ではないという事である。
ながなが書いたが、本日の汚職教授のような人が現場では歓迎され、大学内でも評価されているのが現状で,氷山の一角のような事件だと思えるということである。もっというなら、犯罪かどうか以前の問題で、すべて目に見える目先的経済的効果のみで判断する大学研究の傾向に警鐘を与えた事件となれば幸いである。

テレビをみればAKB、大学をみればベンチャー起業、少し頭が良ければインベストバンクで大稼ぎ、大企業の役員報酬は億単位が当たり前、本屋の店頭では「年収**万円で億を稼ぐ方法」などの本、なんだか金儲けを制したものが世の中を制した気持ちになってしまう世の中、これって面白いでしょうか?夏目漱石も芥川龍之介も決して大金持ちではなかったのにあこがれたなあと嘆く僕は変でしょうか?
稼ごうとする気持ちを批判はしていない。むしろ良いことだと思っている。しかし、「量は質を変えてしまう」と僕は思っている。行き過ぎた世の中を変えていける若者の活躍を期待したい。面白い世の中建設のために。(2013/7/26)

 

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成熟した社会システム 2012/5主侍医通信より

2012年05月07日
  久々に(初めてと言ってもいいのか?)、2週間もの長期にわたり外遊をさせていただきました。私が50の手習いのピアノで教えてもらった芸大出身の若手ピアニスト村田孝樹君がハンガリー音楽祭関連の大会で優勝し、ブタペストにてリサイタルを行うということになり、応援がてらの旅行となりました。妻とこれまた50の手習いの油絵の先生横島庄司さんと妹さんとその娘さんという変わった組み合わせの一行となりました。ブタペストに4日間滞在し、その後は村田君が住むドイツへ向かいました。ケルンの近くのアーヘンという小さな町に住んでいるのですが、とても落ち着いて親しみの湧く町です。こういった機会がなければ訪れなかったでしょうが、また行ってみたいと思っています。世界で初めて太陽発電の試みをした町だとも聞いています。私の悪い性格なのですが、レストランに行っても、ゴルフやテニスをしていても、旅行に行っても、新しい発見をするとなにか仕事に応用できないかと常に(本当に我ながらあきれかえるのですが)考えてしまうことです。  妻や親友から「楽しむときはお客様として純粋に楽しめば!」とかなり真剣に煙たがられています。
 
  というわけで、旅行につきものの失敗談を織り交ぜながら、いろいろなことを勉強してきました。その一つですが、ドイツの町では、路面電車が発達していて、少し地下鉄を加えれば、街歩きはほとんどまかなえるくらいです。我々旅行者にとっては1日券が便利で、何度でも乗り降り自由です。700円くらいになるのでしょうか。しかし、ほとんど検札はなく、我々も旅行中一度も切符拝見はありませんでした。現地のガイドさんは「ドイツの成熟した社会システムのひとつです。個人の良心に任せているのです。」と説明され感銘を受けました。「良心に任せた、成熟した社会システム」なんと心地よい響きでしょうか!しかし、時々厳しい検札があり、違反していると厳しい罰があるとのことでした。 
 
 法律のほとんどは、「想定外の悪い考えを持つものがいるから、取締りできるように細目にわたった規則を作る」という考えにのっとっています。医療保険制度もその一つです。悪用する患者や医者がいるから、これはいけない、あれはいけないと規定しています。しばしば、医師が必要と思っても自由に検査や処方をできません。社会保険事務所が厳しく目を光らせて「この病名ではこの検査はだめです」ということで医療機関は自腹を切るどころか目をつけられます。しかし、巧みにレセプト(公的医療費の請求書)やカルテを駆使すれば過剰請求もまかり通ります。良心に従わないシステムの限界です。そして、このレセプトの監視システムや病院でのチェックシステムにどれだけの費用が投入されているのでしょうか。下手をすれば少なく見積もっても医療費全体の数%や十数%など無視できない費用であると私は推計します。 
 
 世界最先端を行く日本の医療保険制度ですから、そろそろ成熟度を増してもいいのでは期待していますし、私もそういった方向に進むように今後社会医の集大成として活動をしたいと考えています。皆様方のご理解とご支援をお願いする次第です。   

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社会医の必要性 2012/3主侍医通信より

2012年03月30日
 あの恐怖におののいた日から1年が経ちました。「のど元過ぎれば熱さを忘れ」た日本人はそんなにはいないでしょうが、それぞれの温度差は結構あるように見えます。しかし、東京直下型地震も懸念され、こちら東京では一様に結構真剣に捉えているようです。問題は「どこまで対策をするのか、どんな覚悟をするべきなのか」ということではないでしょうか。
 
 思い出してみれば、大震災以前の日本は、それこそ「富の二極化が過剰に進む未曾有の不景気」と言われる状況でした。「人間の幸せは一体どこにあるのだろうか?」とあちらこちらで囁かれていました。そんな矢先にあの大災害が起こりました。突然の人生の幕切れ宣告をされた多くの犠牲者を目前に言葉を失いました。そして、かろうじて生き延びた人の「生き延びただけ幸せ」と話される姿をみて複雑な気持ちになりました。単純に「絆」「日本はひとつ」と叫ぶだけでは癒されるようなものではありません。
 
 復興活動を続ける姿の報道をみて、誰もが感動していることでしょう。被災者の気丈さも凄いし、自衛隊をはじめとする救援者の活動も凄まじいとさえ思えます。「使命感というより、人間として何かをしたい。それが使命感と相まって日々の活動を支えています」放射能が厳しいなかでの救援作業の自衛官の言葉が身に沁みます。
 東京大学に新しい立派な会館が誕生しました。学会会場になったり同窓生が集うような場所だそうです。ある企業のオーナー夫妻の寄付により建設されたそうです。土地が大学の敷地なので、ビル・ゲイツが驚くような寄付の額ではありません。ソフトバンクの孫さんの被災地への寄付の額の半額以下です。とは言っても、凡人の私にとってはイメージすら出来ない額なのですが。
 
 日本人は「お金の稼ぎ方は得意でも、使い方が苦手」と思っています。書店に行けば「稼ぎ方マニュアル」なる類いの本がごまんとありますが、「お金の使い方マニュアル」は皆無です。「子孫に美田を残すな」とは西郷隆盛の言葉でしょうか。頑張って稼いで、不幸になっていく姿は日本中あちこちで見られる皮肉な現象です。その人の稼ぎのレベルに応じたお金の使い方次第で、景気どころか、日本人の幸福総生産量は高まるのではないかと思っています。むしろそこにしか答えは無いようにも私には思えます。
 
  話は変わりますが、患者さんを直接診る「臨床医」、薬や治療法などの研究をする「基礎医」に加え、私どものように仕組みづくりを通じて医療を行なう医師を「社会医」と呼んでいます。主侍医倶楽部のメンバーの皆様に対しては、医療判断医としての臨床医活動がメインですが、それは社会医としての活動に裏打ちされています。
 
  今後、この紙面でもさまざまな「社会医」の活動のご紹介をしていきたいと思っています。多くの研究者たちの知恵の塊である基礎医学に基づいた立派な臨床医の医療活動が、国民の皆様の幸福に結びつく仕組みを考え実行することが「社会医」の役割だと思っています。

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デジタル時代の恐怖 2011/08

2011年08月24日

私どものホームページが、この数日アクセス不能になったお詫びをトップページで申し上げましたが、その原因について判明したことで、いろいろ思うことがありお伝えしたいと思います。このホームページは、友人がボランティアとしてご努力いただくことにより成り立っています。そしてメンテナンスは、その方のお力を借りながら私も含めてスタッフが行なっております。いわば手作りのホームページです。私は、多少こういったことに詳しいほうですが、勿論素人です。ホームページを作るには、それを置いておくサーバーが必要ですし、アドレスを管理することも必要です。たいていの場合は、それらを代行する会社に依頼します。簡易な場合は、それらがセットになっています。つまり一つの会社と一つ契約をしていればいいわけです。我々のホームページは、旧来のものも裏側に存在したり、多少複雑になっています。レンタルサーバーとアドレス管理は同じかと思っていたら、同じ会社だけど部門が違ったようです。しかもその管理費を年間払いします。数ヶ月前と数日前に期限切れの警告メールがきます。今回はレンタルサーバーの会社(H社)から8月末で期限ですというメールが着ました。気がついてよかったとひやりとしましたが、私がネットで送金し、ことなきを得たと思ったその日の夕方から不通となったわけです。H社からは「入金確認のお礼メール」が届いています。私はこのH社がホームページの管理の全てだと思っていましたから、訳が分かりません。おまけに私どものアドレスでアクセスすると、怪しげな画面が出ます。「関連検索」「スポンサー企業」とのタイトルで、商業的美容外科など商売的医療を全面に打ち出したような名前がずらりと並ぶ、もっとも苦手とし私どもの事務所のポリシーとはかけ離れたような画面がしつこく出てきます。早くなんとかしなければと焦って、ボランティアの友人の手も借りながら調べました。この嫌な画面には「MMドメイン社」の名前があったので、H社とともにメールにて問い合わせしました。電話での問い合わせが出来ないからです。返事は、まったく機械的なものでした。いろいろ調べた結果、アドレス管理費は、同じH社でもMM部門が管理していて、別に支払うことになっていることが判明しました。年間950円という費用です。それが8月21日で期限切れだったわけです。お知らせメールが届いていたのか、大変な努力をして調べましたが見当たりません。その原因もようやく判明しました。MM部門への登録とH社への登録と2種類あり、前者に登録していたアドレスが古いアドレスのままであったのです。メールが届かないなら、そういうときのために住所や電話番号など個人情報を登録しているのではないのか?という問い合わせには返事もいただけませんでした。自己責任で管理しなさい、ということでしょうが、ネット社会のこの世の中、あちこちでメールアドレスなどを登録していて、こういった失念はありえます。提供する側のプロのシステムにはそれをカバーする優しさが欲しいと思うのですが、そんなことを考えていたら薄利多売の商売がなりたたないのでしょう。

いずれにしろ、ようやく原因が分かり950円を振り込みました。しかし、半日しても回復しません。一部の地域では回復していたようです。世界中にあるアドレスを管理するポイント(DNSといいます)によりタイムラグが生じるということです。こんな面倒なことになるのに、1日たりとも期限が切れると、連絡の努力もせずに回線を切ってしまう冷たいシステムに驚きました。

このように、ネット社会ではまるで血の通わないロボットのような仕組みが働いています。そしてその仕組みを理解できない人々がほとんどです。情報操作はもしかすると今までのテレビなどのアナログマスコミより危険かもしれないと今回の事件を通じて思いました。

それにひきかえ、私どもの「主侍医倶楽部」のサービスは、世界中のあらゆる倶楽部サービスで最高の親密丁寧さだなあと思いました。全てのメンバーの顔パスどころか声パスといってもよいほです。超一流のゴルフクラブでもありえません。有り難いことに「そんなことでは商売にならないでしょう」とクライアントの方々から逆に心配されています。 私のこれからの役割は、こういった誠意と熱意を込めても発展的な(緩やかな)ビジネスモデルが成り立つことを示したいと思っています。

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脱原発と原発依存についてのテレビ討論にがっかり 2011/8

2011年08月08日

数週間前になってしまったが、標記の件について、経済界の重鎮たちが討論をしているテレビ番組を垣間見た。経済界の重鎮対象のアンケートだから、脱原発反対数が過半数となっていたのはやむを得ないという印象を受けた。そして脱原発反対論のコメントの多くは、企業の利益を守る立場だから当然と言えば当然かもしれないと一定の理解はできた。もっとも僕の目にはそれらのコメントは自己利益優先の了見の狭いものに映り、もっと大局的な視点を持った人こそが大企業のトップに欲しいものだと痛切に思った。しかし、最も許せなかったのは、得意顔で「脱原発当面反対、将来的には賛成」と尤もらしい意見を言った人だ。どこの会社かはあきれ果てて忘れてしまった。自分では正義の味方よろしく、または中立を意識した良識人とでも思っているのだろう。その偽善的コメントからは「自分が社長の間は、原発がなくなると困るが、その後は良きに計らってくれ」という内容にしか汲み取れなかった。「今すぐ無理でも、脱原発を目指すべきだ」という考えなら、素直に「脱原発賛成派」となるのがまっとうな意思表明の仕方である。こんな似非(えせ)人道主義に騙される国民も悪いのだが、このようなタイプの人が選挙に立候補してそれなりの支持を集めるから驚きだ。それに比べると、管総理が思わず自分の意見で「脱原発」を表明したことのほうが、人間としてより信頼できるくらいだ。勿論、一国の総理としての手順を踏む必要はあったのだろうが。

とにもかくにも、前回書いた「縮退」現象の張本人のような人々に振り回されていると、世の中は破滅に向かってしまうと憂慮している。

 

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「縮退」現象について 2011/8

2011年08月08日

僕の医師仲間はまっこと多彩なのですが、その一人に小池弘人ドクターという方がいます。小池先生は東京四谷で統合医療を自ら実践されています。つい先日、先生の近著「統合医療の考え方活かし方」という本をご恵送いただきました。この本の中に、先生が統合医療に至った経緯は詳しく書かれています。

読み進めていくと、医療の底辺を流れる本質がちりばめられていると思いましたが、中でも「縮退」という概念を引用されている一文に目も心も止まりました。「一部の人やものの間だけをお金やものが循環しつつもだんだんと狭い場所に集中して早く回っていくさまを、物理学者の長沼伸一郎先生は「縮退」と呼んでいます」これは引用の引用となってしまいましたが、意味深い解釈だと思います。小池先生は、あらゆる分野で縮退が生じていると言及されています。僕も全く同意見です。世の中はこのとてつもない「縮退」と呼ばれる危険領域に向かって加速している恐怖を感じています。いつ破局が訪れるのか?原発事故などもこの一つではないでしょうか。

この本のメインの主張のひとつに「統合医療ではきづきと覚悟が必要」と書かれています。僕のライフワークである「医療判断学」も同じだと思っています。何事もいいとこ取りは出来ませんから「覚悟」が必要でしょう。物事を判断して決断していくリーダーにこそ「最高に厳しい覚悟」が必要なのに、日本の政治家も大企業のトップたちをみていて「覚悟」が出来ていないさまが情けなく惨めっぽく感じるのは僕だけでしょうか?

この本の中でもうひとつ「部分を集めると全体になる」という要素還元主義への批判が書かれています。「良い部品を集めるだけでは決して素敵な車は作れない」とカーマニアの僕が昔から主張していたこともそうでしょうが、医学や政治判断などシビアな分野では特に大切な基本的心構えだと思います。

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東日本大震災に教えられたこと14 孫さんも続きました! 2011/4

2011年04月04日

有名スポーツ選手に続き、ソフトバンクの孫さんもさすがの「私的100億円寄付とこれからの役員報酬全ての寄付」を発表しました。こういった輪が広がることが復興のマインド的な好影響があるでしょうし、経済の活発化にとっても重要でしょう。経済的に2極化が進むと、ますます消費が滞ることが予測されますが、こういった形で富裕層の不活動貯蓄が放出されていくことはたいへんな経済効果があるでしょう。現在の企業活動で成功者を自認する人は、孫さんに続いて欲しいと思います。孫さんとは昔何度かお目にかかりましたが、今後の日本のためにもボランティアで是非主侍医を引き受けたいものだと思います。

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東北関東大震災に教えられたこと11 計画停電に思う。魂を売るな、日本の建築家2011/3

2011年03月23日

「このくらいの暗さ、静けさ、肌寒さもいいかもしれないね」

周囲の人たちや、テレビの中でもこのような声を多く聞きました。今まで、平気で電気を使いまくり、場所によっては夜か昼の区別がつかないくらい。六本木や新宿などでは、昼より夜の方が明るく感じられるくらいでした。

多くの人々が「やりすぎていたなあ」と反省しているように伺えます。

しかし、これも時間が経てば忘れ去られていくのだろうなあ、とも心配しています。

幸い僕の事務所や自宅は計画停電の区域に入っていませんが、感謝の意味を込めながら、暖房をはじめ、便座暖房は勿論、自然に点く門灯なども切り、部屋の電気も暗めにしています。自宅はいいのですが、事務所やクリニックの暖房や照明では患者さんやお客さんに迷惑をかけることになりますが、ほとんどの方々は「当然ですよ」と力強く言ってくれます。このようなことが東京のあちこちでも起きているのだったらいいなあと思っています。

 

僕のいる飯田橋では、都内の最後と言われている大規模再開発工事が始まっています。旧東京警察病院をはじめとする大規模ビル(なかにはまだまだ十分に使用できるものも多い)を連日取り壊しています。今も、その解体のための音が聞こえてきます。この10日間、その光景を見るとなんとも切なくなります。東北地方では、家が自然に破壊されたというのに、ここでは、何千何万人と住めるようなビル、マンションを大勢の人手を使って壊しているのです。いずれの解体ビルもあの津波でも倒れそうもないしっかりしたものばかりです。

そして20個以上のビルのあとには、何が出来るのでしょうか?

なんの意外性も無い、マンネリとも言えるくらいですが、またもや超高層ビルが2本建ちます。建築工学の進歩で、彼らは超高層にした方が土地の利用効率がいいといいますが、僕は真っ向から反対です。人間の感性としても、医学的立場からでも。高層ビルは電気消費の塊です。エレベーターがないと身動きすら出来ません。もしかすると単位面積あたりの電気効率は高層ビルがいいと、専門家の反論があるかもしれませんが、その人は人間失格の専門家だと思います。科学的効率だけで人は語れないからです。

東京にこれ以上高層ビルが必要でしょうか?常識的に考えて誰もが判断できるのではないでしょうか?土地を有効活用して、儲けることばかりを考える不動産開発の人々、それに魂を売ってしまう建築家や建設会社。古い建物を大切にするヨーロッパの町並みを綺麗だと言っている建築家たちが、このようなことを容認するどころか、競って設計コンペに参加しているのかと思うと情けなくなります。我々凡人が何を言っても駄目です。心ある力ある建築家が連合して、このような流れにストップをかけてみませんか?

 

しかし、あきらかに「やりすぎ」です。

良識ある日本の建築家を信じています。 

医師たちの間で「手を抜かない」「あきらめない」「やりすぎない」をモットーにする活動をしていますが、いろいろな分野でも共通すると思います。僕は医学の世界で頑張ります。他の分野で賛同して頂く方は、ご自身の分野で頑張ってください。頑張る人がいないと世の中住み良くなりません。勿論、頑張らない人がいてもそれも人生だと思います。

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東北関東大震災に教えられたこと9 福島原発で活躍の人々への尊敬と感謝2011/3

2011年03月18日

くの国民が、福島原発での最前線で活動している人々に期待に熱い視線を向けています。東電や保安院の幹部も現場に行くべきだとの声も多く聞かれます。

決死の覚悟をして現場で頑張っているのは事実です。

ピンボケの記者が「現場での隊員の健康を犠牲にしているのですか?」とまるで人道主義者であるかのようなつもりで質問していました。この状況下で、厳しい状況も知っている中で、このような質問をするマスコミ記者のマインドレベルに驚きました。そういえば津波現地で水に囲まれた屋根に必死でしがみついている人に向かって「大丈夫ですか?」といっている記者がいましたね。いずれも同様ですが、それらの記者には言っていることとはうらはらに「人のことを心配し配慮してあげる心に欠陥があるとしか思われません。本人は「あなたの健康(からだ)のことが心配です」と言いたいのでしょうね。本当に心配している人は、そんな状況で決してそのような質問や声がけはしません。

福島原発で頑張って作業している人々は、どのように選ばれたのでしょうか?友人たちや息子たちも交えて討論しました。今時有無を言わさない命令はあるのでしょうか?自衛隊ではどうなのでしょうか?僕には分かりませんが、とにかく身体を張って、覚悟を決めて頑張ってくれているのは確かです。中部電力の停年前の原子力一筋で頑張ってきた人が、志願してこの現場作業に加わったという話しを聞きました。家族も「頑張って」とそれを見送ったということです。テレビで放映されたかどうかは知りませんが、感動的な話です。東電の作業員にしろ、自衛隊にしろ、消防隊、警察にしろこの現場に出向いている人たちは、映画の「アルマゲドン」の地球救援隊のような方々たちでしょう。

僕は提案します。この事態を収めることができた暁には、現場一線で頑張り抜いた東電の社員さんは、テレビの前でゴロゴロしていた東電幹部の方々と一斉入れ替えをしてはどうかという提案です。勿論、現場で働く人たちとそれを取りまとめて指揮する人が必要なことくらいは分かっていますが、JALにしろ東電にしろ、その他の大企業でも、おおよそもはやほとんど役に立たない人が、それなりのポストでぬくぬくと高給を貰っている人が少なからずいるということです。そのつけが現場で頑張る社員や消費者に回っているのです。

福島原発はこれからどうなっていくかは分かりませんが、名も無い現場の英雄たちに国民皆が感謝したいと思っています。一段落まで乗り越えたら、そういったチャンスが是非欲しいものです。一人一人のすがすがしい顔をなんとか拝みたいですね。国民のみなさんは、お偉い方々の、偽善に満ちた顔を見るのに辟易している今日この頃だったと思いますので。

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東北関東大震災に教えられたこと8「民主自民公明共産党結党の勧め」2011/3

2011年03月18日

前項に続いて、復興10年は、超党体勢で日本を再建していくというくらいの思い切ったことが必要ではないでしょうか。この気の遠くなるような再建活動では、各政党のそれぞれの強いところが全て必要です。今やピュアな「共産主義」のシステムは成り立たないことは世界的な共通見解かもしれませんが、復興においては一部には共産的考えも必要でしょう。富のあまりにも大きな偏りはこれからの成熟した国には向きません。全てが均一では労働意欲がわかないから、頑張ればどれだけでも稼げるという仕組みは絶対必要だと人は言います。僕はそう思いません。「行き過ぎ」は必ず破綻します。極端な話、せいぜい平均個人所得の10倍が限度で、それ以上は99%が税金でもいいのではないでしょうか。「それでは産業は活発化しない」と多くの人に反発されます。息子の一人までから反論されました。「そこを工夫するのが、成熟型資本主義」ではないかと思っています。年間5000万円以上個人的に稼ぎたい方は一体何が欲しいのでしょうか?「命よりこころ」論(ここでは詳細を省きますので、ブログの他の部分をご参照下さい)と同じく「お金より栄誉」論も成立するかもしれません。社会としてのなんらかの工夫で、適切な成熟型資本主義のモデルを作るよい機会かもしれません。

話しは、飛びましたが、昭和の「戦争復興とその後の成長、競争社会」から平成の「欲望の権化化と安穏の入り交じりによる二極化加速と破綻」となり、これから「再復興」の試練が訪れました。やはりキーワードは「競争」から「協力」でしょう。今回の災害では、被災者またはその恐れがある人々と全く難を逃れた人々との決定的な二極化、全て失った人々や身動き取れない人々と余裕のある人々との二極化など、いろいろなところで二極化の権化が発生しました。それを利用して更に強者となるものを許すのか、本当の勝者は人の心にあるという流れが勝者となるのか偏見を持ちつつ見守りたいと思っています。小さな存在の僕ですが、前者は絶対に許さないという毅然とした行動をとりたいと決意しています。

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東北関東大震災に教えられたこと7 災害時の報道のあり方への提言

2011年03月18日

んとこの1週間は長いことでしょうか?テレビは毎日悲惨な状況の報道ばかりで相当タフな人々も精神が参っていることでしょう。それでも、現地の被災者の方々、一線で救助や復旧に当たられている方々のことを思えば、そんなことは言っていられません。

そんな報道を1週間見続け、いくつか感じたことを書いてみます。

 

緊急分担報道体制の可能性は?

地震直後から、ものの見事に各チャンネルで被害の模様をリアルタイムに映像で報道を始めました。そのリアルタイム性にも驚きました。各チャンネル共にいつのまにかCMのない特別報道番組となっていました。この素早い対応には今から振り返ると驚嘆の一言につきます。この素早さが、政府や東電にもあればと思いましたが、テレビを見続けていますと、各放送局がそれぞれ強烈な被害の生々しい画像を繰り返し流します。どこのチャンネルも同じ内容です。安否確認や、救援活動の進捗具合や、インフラの状況や、連絡体制の問題や後には原発の状況や各人にとって知りたい情報は違うのに、とにかく津波の酷い被害状況を何度も見せられてしまいます。むしろそんな画像は見たくなくて、避難場所状況や安否状況や救援活動状況だけ見たい人もたくさんいたはずです。こういう時こそ、各放送局は協力体勢を敷いて、報道分担をするべきではないでしょうか?実際被害状況を映そうとする報道ヘリが邪魔になったようなことを、官房長官は話されていました。普段の報道ではスクープ合戦が大切なこともある程度は理解できますが、未曾有の災害と自ら報道しているのですから、未曾有の放送局分担報道をされたらいかがなものでしょうか?あるチャンネルは被害状況専門でもいいでしょう。あるチャンネルは、原発だけで、専門家も1放送局に一同に集めると、より正確な報道に努めるだけに留まらず、実際の復旧活動にアドバイスできることも可能かもしれません。また他のチャンネルでは、安否情報、避難所情報、インフラ情報、ボランティア情報など被災者に直接的役立つ報道を専門にします。被災者は、津波の映像を何度も繰り返してみたくはないのではないかと想像します。我々のように難を逃れたものにとっても、胸が痛む映像ですから。

 

ついでに政府の指導体制についても分担体制もあるのではないでしょうか?

地震の直前まで、民主と自民公明は醜い(?)争いの渦中でした。さすがに、被害の重大さのもとではそういった争いは引っ込みました。国会の休会問題では小競り合いがありましたが。そして、管総理のもとに、政府として民主党中心に総司令部が設けられましたが、ご存知のように、この広範で甚大な被害に対しては力不足の感は否めず、国民の不安は募りました。ここでも未曾有の災害が起こったのですから、未曾有の体制による対応もよいのではないかと思います。福島原発問題の指揮系統は自民党に任せる、被災者の保護やケアは共産党に任せる、自衛隊等による救援活動は公明党に任せ、民主党は全体指揮と復興活動の計画指揮などとして、各党首はそれなりリーダーですから、分担の決定権を持ち、党首同士が徹底的に連携するというようなプランはいかがでしょうか?

民主党だけではいかにも荷が重すぎます。

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東北関東大震災に教えられたこと6 文明に溺れた反省 2011/3

2011年03月18日

多くの心ある日本人、知恵ある日本人が、感じたり、気付いたり、実際に発言提言したりしていたこと。

 

こんなに恵まれた生活をしていていいのだろうか?

こんなにいつでもどこでも食べたいものを自由に食べていていいのか

こんなに当たり前のように高層ビルばかり建てていていいのか?

朝から晩まで携帯電話やインターネットにしがみついていていいのか?

24時間開いているコンビニが当たり前としていていいのか?

深夜でもこんなに明るい町でいいのか?

頻繁に「自分にご褒美」でいいのか?

なんでも経済(お金)優先でいいのか?

バラエティ番組優先のテレビに振り回されてばかりでいいのか?

お風呂を2日も我慢できない人間であってもよいのか?

大体において「電気」の存在すら感じない電気依存症でいいのか?

なんでも自分中心、他人とは表面的な「携帯クリック」的お付き合いでいいのか?

 

書き出すときりがないですね。平成の日本人は、老いも若きも人情の面白味が激減したと感じている人は多いでしょう。僕も含め、そう思う自分のこともそういった傾向にあると感じつつ。

「行き着くところまで行って、崩壊して、また立ち直る」という自然の摂理に委ねるしか、人間の心の復興はないと神は考えられたのでしょうか?

それにしても厳しい試練です。

最近は、反省し始めた日本人も増えてきていたのではないでしょうか?

東北の地方の我慢強い対応をみていると頭が下がります。もし、これが東京に起きていたら、我々東京人は彼らのように粛々と耐えられるでしょうか?

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東北関東大震災に教えられたこと5 勇気付けられる海外からの支援

2011年03月16日

害ばかりを報道して、救援活動が報道されない、と悲壮に思っていたら、海外からの救援隊の到着風景が報道されるようになりました。なんと心強いことでしょうか?実際には、言葉の問題も含め、指示系統をどうするかなどの難問があるとはいえ、「心強いイメージ」は大きいものです。また、各国首脳の「出来るだけの救援をしたい」というコメントも、いつもは日本から発していることが多いのだが、受ける側になると「有り難いものだ」と涙ぐんでしまいました。各国の新聞報道も日本への悼みの思いと復興への願いが伝わり、これも有り難く感謝の気持ちで一杯になりました。インドの中学か高校生たちが教室を暗くしてロウソクの火を灯しながら「Japan We Are With You」「Japan We Share Your Grief」と書いた紙を手に持ちながらお祈りをしてくれている写真には、目が涙で曇って見づらくなりました。心汚れていく人々も多い中で、今回の悲劇から、多くの人々の心の中に「本来の慈愛に満ちた人間のこころ」も復興するのではと期待しています。

僕個人にしましても、被災者の家族になるという希有な体験をし、その家族の消息が分かった時は膝をおり、声を被災後初めて聞けた時は、喉が詰まって声が出ませんでした。親族、友人から心配の連絡を頂き、気にかけて頂いていることに嬉しく心強く思いました。逆に心細い一人住まいの姪や帰宅難民にはお泊まりいただき、まもなく被災地から戻る息子とその友人を預かることになります。東京もいつ被災地になるかもしれません。勇気付けたり、人のお役に立とうとする立場でいられる今の自分の運命に感謝し、小さなことでも役立つと思うことを着実にしたいと思っています。十分水も飲めて、美味しいものを頂けるのを申し訳なくも思いますが、感謝しながらそれを楽しませて頂くこともできることの一つだと思います。「今日よりよい明日はない」という本を最近読みました。幸い災害から逃れた人が、粗食でもご馳走でも、ワインでも水でも、小説でもゴルフでも、感謝しながら楽しむことはいいのではないでしょうか。明日は出来なくなるかもしれません。決して刹那的な意味ではなく「今日よりよい明日はない」という平静の自分をじっくり味わい楽しむというスピリッツだと思います。

でも、被災者のために出来ること、今は節電や節電波(不要な携帯電話使用等)が最も大切なようですので、出来るだけの協力をしたいものです。今日の東京は暖かいですが、少しくらい寒くてもいいではありませんか、部屋の中にいれるだけで幸せですし、便座が冷たいくらい平気ではありませんか?ドライヤーも自然乾燥か3日や4日に一回の洗髪でもいいでしょう。また、富裕層といわれる方々には思い切った寄付もお願いしたいと思います。義援金と呼ばれる我々庶民からの小額の寄付を集めることも大切でしょうが、大口の寄付は手続きも簡単で効果は絶大だと思います。

アメリカで難を逃れた石川遼君。昨年の稼ぎの残りを全部寄付してはどうでしょうか?本当の国民的英雄になれます。そして、綺麗ごとを言ってはいるものの、国民大衆からお金をトローリングして、その力で政治家になろうとしているような偽善者のなかに潜む本当の人情を引き出す模範となってみてはどうでしょうか?

 

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東北関東大震災に教えられたこと4 原子力発電保安員の記者会見から

2011年03月16日

震災2日目の朝の保安院の記者会見に立った代表の説明にはいささか驚いたのは僕だけではなかったようです。さすがのテレビ局も途中でその中継を切り、アナウンサーの小宮悦子氏は「災害直後のこの場面で、この内容はいかがなものでしょうか」というまことに適切なコメントをされました。「言い訳」「保身」のための前置き的内容で固められ、中身がまるでない内容が延々と続くのである。この人の個人的な資質の問題もあるのでしょうが、いかにも役所的な無難な回答をする癖が身に付いているのか、上司から言ってはならないことをたくさん授かり頭が混乱していたのでしょうか。さすがに、次回からの記者会見に姿を現さなかったようです。僕は、最近の「何かと人の粗を探し文句をつける風潮(その最たるものが国会議員同士での小競り合いだった)」に、ほとほと嫌気がさしていました。マスコミもこぞってその風潮を鼓舞するから、どの業界も「まあ思い切った決断はせずに、ひとの流れに身を任せて、なにかあればその時の先導者に文句を言えばいい」という「事なかれ主義」が蔓延していました。その延長があの保安員の態度に現れていたのでしょう。「最悪の場合を想定した行動」は、最悪の場合が起こらなければ、「あんな余分なこと、あんな無駄なこと」をしなければ良かったのにと非難されることになります。「結果で決断の良し悪しを判断する」ことが当たり前になっているからだと思います。僕の仕事の「医療決断支援」でも同じことです。数多くの経験から、「どちらを選んでも幸せと思えるようになるまで、じっくり話し合って、内容を検討してから決断の助言に入ることが大切」と思い至りましたが、今回のような緊急の事態では時間がないのでその手法が成立しません。「どんなに恨まれても最悪の状態を阻止する」という気概がリーダーには必要なのでしょう。昔の武士は、それで結果が悪かったら、「腹を切って」いたわけだから、マスコミに叩かれそのため次回の選挙に落選するなら、それはそれでいいと「腹をくくって」はいかがなものでしょうか。

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東北関東大震災に教えられたこと2 リーダーの大切さ

2011年03月14日

は困難に遭遇したとき指導者を求めます。多くの人は、どうしていいのか当惑します。困難のまっただ中の人は、「どのようにして逃れたらいいのか」と迷い行動ができません。また、被害者を救済したいと思う人も「どのようにして助けたらいいのか」迷い、行動が遅れます。今回の巨大地震で、テレビのニュースを見ていた多くの人々はまず日本のトップがなかなか姿を現さないことに不安を感じていたのではないでしょうか。地震が起こる以前から、日本人は指導者を求めていました。最近は、マスコミが助長していることもあり、全ての分野において「上手くいかなかった時のクレーム」が激しいと感じています。日本のリーダたる国会議員もそれを恐れて思い切った行動ができません。しかし、この前例がない非常事態ですから、トップが思い切った対策を実行していくことが大切ですし、国民はそれに従い、マスコミは枝葉末節の不具合を責め立てず、大きな流れを大切にしていくという姿勢が大切だと思います。昨日、ようやく総理が「国民みなで力を合わせて乗り切りましょう」というメッセージを自ら伝えました。僕には、遅すぎると感じました。それでも、総理としては、国民の心を引っ張るメッセージでよかったと思っています。それにしても、取材の記者から、枝野官房長官に「どうして総理自ら具体的な質問に答えないのか?」というこの事態においてもマスコミの情けなさを露呈するようなあら探し文句をつけました。このような時はトップは「国民の士気を高めること」が最重要であり、各論はそれぞれの専門家に任せながら進むのがいいに決まっています。勿論、枝野氏は「それぞれの専門の担当者が質問には対応していく」旨を伝えましたが。それにしても、昨日13日午前に登場した原子力安全・保安院の「自己保身、言い訳だらけ」の答弁にはあきれかえりましたが、なにか決断して結果が上手くいかなかった時のことを考えすぎる役人、政治家が多すぎることの現れでしょう。僕たち医療の分野でもそうなりつつあることを反省しなければなりません。そのためには、国民の我々やマスコミの方々も大きく反省し協力しなければなりません。今回は、とても辛い試練ですが、「計画停電でも、節水でも何でも協力する。被災者のために少しでも役に立ち大局的に日本を建ち直していくためには」と思っています。勿論、リーダー任せではなく、国民のみなが出来ることから協力して、そして、たまたま被災からまぬがれた人は、暗くなりすぎず、明るく元気に力を貸し、また、有り難く毎日を過ごすことも大切だと思っています。

頑張り抜きましょう。囲碁王座の故藤沢秀行の「強烈な努力」という言葉が思い起こされます。

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アップルのジョブズ健康問題による療養報道に揺れた株式市場

2011年01月28日

数日前に、このタイトルのような報道が一斉にニュースになった。アップルは今や世界を代表するような巨大企業である。そんな大企業のトップとはいえ、一人の人間の健康不安がその会社の株価を暴落させ、市場全体の急落も懸念されたというニュースに「やはり企業にとってもリーダーが命なのだ」と再認識した。僕の仕事は「主侍医システム」の普及だが、その柱として「主侍医倶楽部」と呼ぶ民間版侍医サービスの研究開発型実践を行なっている。クライアントメンバーの方々は、企業や団体、業界のトップの方が多い。その人がいなくてはその組織が成り立たないような方々ばかりである。

そんな主侍医倶楽部であるが、運営開始当初の20年前には、その会費が会社の経費にならないということで、よく問題になった。その頃はバブルの頃で、過剰な接待がまかり通り、いろいろな企業がゴルフ会員権を買いあさり、タクシー出勤は当たり前、取締役はハイヤー付きといったご時世であった。にもかかわらず、企業のトップの健康管理を経費として認めなかった(今も厳密にはそうかもしれないが)のは、税務当局(その他の日本の国の仕組みもそうだが)の型にはまった思慮の浅い見解だ。勿論、企業や団体にとって、そのトップが今の政治のように、誰がなっても代わり映えしないのであれば、確かに経費の無駄かもしれない。いずれにしろ、その企業のトップの健康管理に関する費用が経費となりうるかどうかは、税務当局が決めるのでなく、株主が(役員会であったり、社員であってもいいが)決めることではないだろうか。株主が、「この人がいなくなれば、先行きの業績が心配だ」と思えば、その人の健康が何よりも最大の資本となるわけで、企業にとってそれを守るために最大の努力をするのが当然であり義務ともいえる。

「健康管理の費用も含んだ」報酬を会社は代表に払っている、との反論があろうが、日本の場合は、それは実態に合わない。残念ながら、社長という重責にありながら(あるがゆえにと本人は思っているのであろうが)、なかなか健康管理には時間もお金も割かない傾向が日本にはあるからだ。特に日本の会社人間は経費は平気で使うのに、ポケットマネーとなると使うのが苦手になる。しからば会社として、会社を守るためにもトップの健康管理を義務づけるような仕組みが大切ではないかと思っている。

アップルのジョブズは、さすがに最高の医療を受けてきたから、大病を乗り越えて今日までやってきたのだろう。そのお陰で、我々はIpadIphoneなどの恩恵に浸ることが出来ている。

皇族だけでなく、「侍医」を持つという「未来の当たり前」をまずは自他ともに「キーパーソン」と認める方々に実行して頂きたいと、(若干宣伝にはなるが)心から願っている。
提供側にもユーザー側にも先駆者がいてこそ、大衆が恩恵を受けるシステムが育っていくものだと僕は考えている。

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役員報酬1億円開示に思う

2010年06月24日

最近の新聞紙上を賑わしているもののひとつに「役員報酬の開示」問題がある。1億円以上を開示すると最初に聞いた時に「そんな高額なのは滅多にないよ。その半分位から開示してもいいのではないだろうか」と思った。ところが、豈図らんや。続々と登場するではないか。驚きであきれかえってしまう。そしてまた、開示に反対する経済界の重鎮たちがいることを知り、不思議に思っている。アメリカなどと比べると、1億円くらいの年俸は低いと言っているご仁もいる。話しにならない。そういう人たちは「勤務医と開業医の報酬」論争の記事をどういった思いでみていたのだろうか?彼ら役員報酬開示の金額の大凡10分の1以下のレベルでの論争なのである。

僕は、報酬やら儲けには限度があるべきだと考えている。普通に質素に生活すれば、今時は、年俸300万円でも暮らせると言われている。かといって資本主義の現在、世の中の発展のためには「頑張って稼ごう」というような向上心が働くエネルギーとして必要なことくらいは理解している。そのためには、必要最低限年収に近い額の10倍かせいぜい20倍くらいまでの格差は容認しないといけないであろう。しかし、それ以上は、そもそも過剰なのである。一般的に過剰なものは還元せねばならぬものだ。さもなくば破綻がいずれ訪れる。お金を中心に(実際は、お金だけでと言ってもいいくらいだが)物事の価値判断をせざるを得ないアメリカ型経済価値観が世界中に蔓延している。スポーツ選手も芸術家も学者もただのお金持ちも同じセレブというくくりで集まる最近の風潮。面白味がなくなったと思っていたが、危険な徴候を示している。相撲界の事件がその例かもしれない。そして、我々も、情けないことに、音楽家でも画家でも(医者でも)有名であることや肩書きや所属先などだけで評価をしてしまう。勿論、実力があったからこそ有名になったのであるが、何事も行き過ぎはよくない。

話しを戻そう。役員報酬について。「会社の業績に見合った額である」「経営者の特殊な能力で会社は巨大な利益を上げたのだから当然」尤もな話しに見える。人間の能力の格差は歴然たるものがあって、一握りのリーダーが歴史を塗り替えてきたし、天才の発明により、我々は当たり前のように電気文明を享受し車にも乗っている。才能ある者は、世の中のためにつくすものだから、それはそれでいい。しかし、才能ある者が、弱者から搾取することとは随分違う。歴史を塗り替えるくらいの才能は希有なものだが、弱者から搾取するくらいの才能はたいしたことはない。極端な話しをしたが、こういったことを防止するためにも、大企業の役員報酬の制限をするべきだと僕は思っている。そもそも大企業は(マスコミも一緒だが)、それだけで巨大な力を持っていることを自ら認識すべきだからである。いくら優秀な人でも、個人の力ではなしえないことが、大企業の看板があるからできるのである。その大企業は、過去の多くの人の力の結集で大きくなったのである。業績に直結連動する報酬システムを取っているから当然そのようなやり方になってしまう。役員が数多くいる大会社には、大した働きをしないのに、毎日、会社のお金で飲み食いだけしているような人が結構いると聞く。大病院で、50歳を超え部長クラスになった今でも当直業務を週に1度以上やり、早朝から夜遅くまで勤務する優秀な医師たちの報酬の数倍をそんな人たちでさえ貰っているとしたら、搾取以外のなにものでもない。

医療界を理解して頂き、[医療崩壊]を食い止めたいために、この文章を書き始めた。高額役員報酬をもらっている人たちの言い分は、大きな声では言えないだろうが、「私の優秀な経営能力で稼ぎ出したのだから。報酬の格差は、人間の優劣があるのだから仕方ない」と思っているのであろう。では、優秀論について、俗っぽく考えてみたい。学生時代を振り返ったり、子供たちの受験について思い出してほしい。「いい大学に入りなさい。東大、京大を目指しなさい。国公立の医学部をなんとか。」僕たちが、ある程度大人になって迎える最初の登竜門が大学受験であることを否定する人はいないだろう。そして、国公立の医学部がいかに難関であるかは、ほとんどの人が知っている。勿論、大学受験ごときで人間の優劣は決められないが、ひとつの尺度であることは、誰しも認めているからこそ「学閥」なる言葉もあるし、高い授業料を払って有名予備校にいったり、有名受験校を目指す訳だ。そんな医学部OBは、一流企業の役員たちと、平均的に見て遜色のない優秀な一群である。その群間の平均年俸には数倍以上の開きがあることをどう考えるか。先ほど、例に挙げた50歳の大病院部長の平均的年俸は1000万円台くらいだ。また、どんなにのぼり詰めて、日本を代表する病院の院長になったり、大学の医学部長になっても3000万円を超えるとは思えない(実際、調べた訳ではないが)。勿論、魂か身体を売ってまで稼ぎまくると言われる医師もいるだろうが、たかが知れている。

では何故、受験戦争で勝ち抜いた彼らが、そんな低報酬(大企業の役員から見れば)の世界でいるのか?答えは簡単だ。お金以外の価値観で生きているからである。人のために尽くす喜びを知っているからだ。しかし、最近、医療紛争ブームを契機に、医師を敵視する傾向が高まり、善良な医師たちのマインドが急低下してきた。そうなると医師の価値観が揺らぐ。他の企業人のようにお金の価値観を優先するようになるかもしれない。すでに危険な徴候も出てきている。エステサロンのような「お客様は神様です」的クリニックが増えてきたし、東大の医学部を卒業して、外資系の証券会社に就職する人も出てきた。頭のいい人はさすがに先見の明があるのだなあ、と仲間内でも苦笑いだ。「医師という職業には、偏差値70を超えるような秀抜性はいらない。まずまずの頭脳とすぐれた器用さと盤石の体力を持ち、きちんとした使命感が根底にあることのほうが重要だ」というのが僕の持論である。ならば、東大の医学部など受験戦争の権化のような特殊なところでは、卒業しても他の分野に行くことは気にせず、むしろ医学部の過剰人気が低下し、医学部の受験が易しくなり、むしろその考えにとっても好都合では?とも反論される。部分的にはその通りだが、日本はとかく行き過ぎる傾向にあるから、ある程度以上優秀な人材が医学部で確保できなくなる時代がくるかも知れないと危惧している。

世界に誇る日本の医療水準を守るために、みなさまにより深い理解をしていただきたく、かなり過激な思想を書いた。

次の機会に、資本主義における「美しい稼ぎ」のあり方について意見を述べたい。

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