このサイトは寺下謙三のブログサイトです。

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220524 豊かさ・幸せを哲学する7 命は尊いがはかない

2022/05/24

ロシアのウクライナ侵攻のニュースが毎日流れ、憤り悲しみ叫びたい気持ちを抑えているが、なかなかこのブログに手が付かない。豊かさ、幸せを哲学すれば、世界平和も夢ではないのでは?と念じつつ、このシリーズをしたためている。誰がみても、これは駄目だということでも、賛否は0対100にはならない。まさにいろいろな考え方価値観があるからこそ、哲学する(よく考える)ことは大切なんじゃないかというのが僕の主張の核心になっているのだから、その核心は揺らぎ、世界平和は決して訪れないという悲しく認めたくない解答にたどり着いてしまう。

我々医療者は、一人の命の尊さに毎日接しながら活動している。僕の仕事は、重大な病気になった時の医療決断の相談と助言だ。事前準備なども考慮すると一回の相談に数時間を費やす。それでも結論が出ずに、何度も繰り返しながら、一人の命を左右する医療計画を立てていくお手伝いをしている。そして、その命に関しては、家族などの多くの人の「心」が絡んでくる。「命より心」を一つの提言に掲げている僕にとっては、大変な重さを持った相談任務となっている。

そんな中、連日「〇〇人が、爆撃で犠牲になった」というニュースが流れていく。一人の命にこれだけ重い実感を持ちながら地道な任務を遂行している僕は一体なんなんだ!と頭の中を空洞の塊が占拠していく気分に追い込まれる。

「豊かさ・幸せ」と言っても、この日本の平均的な立ち位置においての考えに過ぎないのでは?そんなところでの考えなんか吹けば飛ぶようなものではないのか?自虐的な気持ちにさえ襲われる。
それでもよく考える。それこそが「哲学する」という意味なんだと自身に言い聞かせる。

昨夜、佐渡裕さんのコンサートにお招きいただいた。アンコール曲は、なんと「アンダンテカンタービレ」だった。チャイコフスキーだ。一瞬怯んだ。佐渡さんが「チャイコフスキーがウクライナに想いを寄せて作った曲」と説明してくれた。哀愁のこもったメロディー。なんと最後は「アーメン」というメロディーに聞こえた。満員の聴衆は涙を浮かべて祈った。僕もその一人となっていた。素晴らしい選曲だった。

220309 豊かさ・幸せを哲学する6 恐れていた殺戮暴挙

2022/03/09

しぶといコロナに、身も心も痛み、汗も涙も枯れるのではないかと冷や汗や悲劇に涙し、その涙も乾かぬうちに、更なる悲劇が訪れた。以前から恐れていたことがまさかの現実化だ。人間の作り上げた文明技術が、目先的には人間に快適や便利さを与えることにより、一見人類の幸せに貢献しているように見えるが、過剰な文明技術の進歩が取り返しのつかない破滅を招くのではないかという不吉な予感だ。とりわけ「核技術」「遺伝子操作技術」「DX技術」が3大懸念だ。それらに次ぐ懸念としては「高層ビル技術とその乱立」「グローバル化の行き過ぎ」「スマホに代表させれる情報瞬時共有システム」があると思っている。いずれも、使いようによっては人類に相当な恩恵を与えてくれているし、なくてはならないものである。しかし、一つ間違えば想像を遥かに超えた人類破滅兵器となりうることは、少し考えれば誰でも想像できるのではないだろうか?
一方、最近の世の中の問題点として、日本国内でも世界でも注目されているのは「経済的な二極化」が際限なく進んでいることがある。僕が思うに、この「金力」の二極化は「権力」「軍事力」の集中につながっていく。今回のロシアの(プーチンの)強大な力による殺戮侵略はその権化であろう。おまけに「核」の脅威さえもちらつかせている。力のあるものが、弱いものを自制心なく我がものにする光景は、親が子供を虐待している様子をも連想するし、強大なコンビニネットワークで小さい酒屋さんが潰れていくのとイメージは重なる。
「ノブレスオブリーグ」僕が大切にしている言葉だ。直訳すれば「貴族の義務」となろうが、力の強いものこそ「謙虚」であり「献身」の気持ちを忘れてはいけない。総理大臣や政治家と民衆、富裕者と貧者、大人と子供、若者と老人など全ての人間関係で言えることではないだろうか?我々医師の世界では、医師と患者となるであろう。
二極化も、ある程度進むまではどちら側の集団もある程度の大きさがあるから、制御が効く余地はある。今回のPのように、また大国のSや核保有する国のKなどほぼ個人が極端な権力を持ってしまうと歯止めが効かなくなる事態が起こる恐れがあるし、実際にそれが現実化している。ほぼ、一人か数人の人たちに世界が怯えているのだ。皆が知るところではヒトラーや麻原なども同類であるが、幸い「核兵器」まで持ち合わせしていなかったから、まだ地球は無事である。
1年後10年後に地球は存続しているかと問いかけるのは、ノストラダムスの時よりも現実的な気がする。
我々にできることは何か?一人一人が「人ごとではなく自分ごと」としてしっかり考えることがまず大切ではないだろうか?

220107 豊かさ・幸せを哲学する5 箱根駅伝に貧富の二極化を見た

2022/01/06

お正月のテレビの楽しみに、ウイーンフィルのニューイヤーコンサートとともに「関東大学箱根駅伝」がある。10人の学生ランナーがタスキをつなぎながら東京大手町から箱根芦ノ湖までの往復を走り抜く過酷な長距離リレーだ。毎年、必ずと言ってよいほど、何らかのドラマが起こる。実力ランナーが筋肉の痙攣を起こしてしまい、足を引きずりながら何人にも抜かれてしまうことはしばしば起こる。20校のうち、10位以内に入ると翌年にも出場できるシード権が入るから、10位と11位の争いは熾烈だ。10人で走るからこそ、一人ひとりの責任が薄まるどころかかえって相当に重くなる、ということは彼らの走っている姿を見ていると痛いほど分かる。疲れ切った状態で次の走者にタスキを渡す。次の走者は元気溌剌としているから、前走の仲間の肩を叩き、ねぎらいながら駆け去っていく。そして1時間後には、今度は、自分がふらふらになって次のランナーへタスキを渡すことに。そのお互いを励ましあったり許しあったり称えあったりする姿は実に美しい。この子たちは、世間に出て、どのようになっていくのか想像するのは楽しいような怖いような気もする。世の中のリーダーたちも、この共同活動の精神を学んで欲しいものだ。
そんな駅伝のドラマの中で、僕にとってはとても辛くて嫌なルールがある。「繰り上げスタート」というものだ。それぞれのタスキの中継点で、トップの走者から20分以上経つと、次の走者はスタートを余儀なくされて、20分以上遅れた走者は自分の大学の次の走者にタスキを渡せなくなってしまう。今回も、7秒差でそのルールが適用された。散々頑張って走ってきた走者は、数十メートル先で、合図のピストル音ともに、仲間が自分の持っているタスキを待たずにスタートしてしまうのだ。残酷なシーンである。道路の通行止めの時間を限定し、一般人への不便を最小限に抑えるためのルールだが、それはこの駅伝を面白くもしているとの意見もある。僕はその辺に何もコメントできない。ただ、見ていて辛くなるだけである。トップランナーがもう1分ゆっくりだったら間に合ったのに!などと思ってしまう。

ふと今、日本でも世界でも問題になっている「貧富格差の極端化」について思いが募る。コロナの影響もあり、金銭的問題で食べていけない人々が少なからずいるという報道番組がつい先日あった。食物ロスや富裕層ビジネスが横行する中、信じがたい情景がそこにはあった。超富裕層が超貧困を生み出しているという単純な公式を、なぜ日本の、世界の賢人たちはそのことにダイレクトに触れないのだろうか?机上の空論だと笑われてしまいそうだが、経済社会もある意味では「ゼロサム社会」だと僕は思っている。経済人は、「それは麻雀などの話で、経済はもっと複雑なんだ」と半ば馬鹿にしたように言う。更には「競争原理が、様々な発明やイノベーションを生み、便利快適を享受できているんだ。」と説教される羽目になる。その内容を全面否定するつもりはない。ただ、何事も極端化すると、量の問題だけではなく質までも変わってくると言いたい。
 

では、どうするのだ?その辺のことをコツコツと考えていきたい。このブログでも微力ながら発信していきたい。

220106 豊かさ・幸せを哲学する4 望まれるリーダーとは?

2022/01/06

日本のニューリーダー岸田氏は、コロナをはじめとした数々の難題をどのように凌いでいくのか?国民は戦々恐々としながらも淡い期待を抱いている。もちろん僕もその一人ではある。「コロナが教える、、、」シリーズの初回で「困難な時ほど頼れるリーダーが欲しい」と書いた。頼れるリーダーが多くの人に安心感を与え、幸せの基盤を作ってくれる。その上に幸せを乗せていけるかどうかは、各個人の問題ではあるのだが。

年初より、テレビ、新聞では隣国のリーダーS氏の話題が多い。S氏は自らを絶対唯一無二の指導者だ、というアピールがあまりにも激しい。ある評論家は「一部の国民にとっては、あまり考えずに信ずるだけの神のような存在は楽に感じるのかもしれませんね」と言っていた。宗教の根源はそんなところにもありそうだから、あながち目くじらを立てて反論もできない。しかし、僕は「神様」と「リーダー」はちょっと違う解釈が必要だと考えている。「リーダー」と一口に言っても、いろいろな「リーダー」がある。野球やサッカーチームのキャプテンや監督というのもあれば、一国の首相や大統領などと、その幅は広い。
「一国のリーダー」のように、不特定大多数の「リーダー」について考えてみたい。<「リーダー」の考え方や信条などを信奉しそれに服従するものを守る>という図式であってはならない。これでは<信ずるものは救われる>という宗教的図式となってしまう。国家のリーダーとしては、国民の多様性を大切にし、貧富の差もなく全員に恩恵が届くようなリーダーシップが望まれるべきだ。リーダーへの信奉が厚く、考え方にも同調し、利害も共有することを基本的必要条件にするのでは、それは本来の「リーダー」とは言えない。ただの「親分」だ。つまり、真の「リーダー」には、その対象となるものへの、どこか自己犠牲的なものを、その核心に内包していることが必須条件ではないだろうか。だからこそ、簡単には一国の「リーダー」にはなれないし、尊敬に値するものなのだ。
これは大企業の社長にも言えるのではないか?そのような真の社長にお目にかかる確率は数%だ。長年民間侍医の活動を続ける中で、数こそ少ないがそのような貴重な方々の健康管理の大役を務めさせていただいていることは光栄だと感謝している。「社員の幸福こそまず第一で、次に顧客、そしてできれば利益も」という考えの社長にこだわらなければ、数十倍のクライアントで左団扇になっていたのに、、、と友人の医師から慰められているが。

220106 新年のご挨拶

2022/01/06

裏面_2022年賀状_寺下先生.pdf

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