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230701 豊かさ・幸せを哲学する11 「豊田章男氏の報酬9.9億円」という記事に接して

久々に会った友人数人から「寺下さん、最近ブログ更新していないねえ」と言われ、最近の筆不精ぶりに自己エネルギーの減少を痛感した。言いたいこと伝えたいことはたくさんあるというのに!ということで、早速ペンを取る。いや、キーボードを叩くことにした。

最近の僕の関心事のテーマは、「行き過ぎた資本主義の結果、行き過ぎた経済格差の二極化を来たし、様々な歪みを生み出している」ということだ。その一つであるが、安全神話の国と安心していたら、とんでもない強盗事件が多発している。前回言及したが、その根本原因は、貧困に悩む若者層を巧みに実行犯として操るお金の亡者である指示犯、という構図である。
「お金がないと何もできない。お金があるとなんでもできる」と国民が考えてしまう世の中になりつつあるからだ。政治家を中心とした権力の中枢に居座っている人々の責任は重い。

資本主義社会では、とにかく多く稼いだものが成功者であり、時に英雄となる。大抵は世の中のニーズに合ったモノや仕組みを作り出すことにより、多くの人々に快適や楽しみや豊かさを提供しているからこそ、その売り上げが伸び、その企業は巨大化していくことになる。
このブログのタイトルは本日の日経新聞朝刊の記事見出しにあったものである。その記事では、更に14億円の配当所得もあるとのこと。今期の報酬は前期の46%増ということだった。欧州のグローバル企業に仕組みを取り入れたという。日本最大の企業であり、世界でも有数の企業の代表だから当然と関係者も一般市民も思っているかもしれないが、これこそは資本主義の大きな過ちの象徴だと僕は考えている。トヨタのみならず好業績の大企業では、一昔前の日本ではあり得なかった多額の役員報酬を海外企業に倣って取る習慣が広がっている。従業員の給料は据え置かれたままに。今年になって、ようやく一般社員の報酬をあげようという気運が高まりつつある。普通は逆であろう。社員に十分な給与を与えることができるようになったから、それに比例して役員もそれなりの報酬を取ろうと。そもそも社長の報酬は、社員の平均報酬の10倍程度までがいいところと言うのが、僕の肌感覚である。その倍率も会社の評価の一つの指標となっているらしいが、それは面白い指標である。低過ぎても高過ぎても問題であるというところが考えさせられるからだ。

テレビでユニセフの広報を見たことがあるだろうか。今、世界で4700万人の子供たちが餓死寸前とのことだ。日本でも給食費を払えない子供たちは、正確な数字は思い出せないが、かなりの数になるという。麻雀のように、誰かが勝つには、誰かが負けることが必須である。誰かが大きく勝つには、誰かが、もしくは他の誰もが大きく負けないといけない。4人の麻雀のゼロサムの例えを大きな社会での経済理論の場に持ってくるのは、経済学の何たるかを知らないズブの素人であるとの誹りはあるだろうが、根本的な考え方として間違っていないと僕は考えている。今後のブログにも、その辺の理論武装をしていくつもりだ。国内でも海外でも、このことに気付きはじめた経済学者たちがポツポツと同様の発言を始めたことにかすかな期待をしている。

過剰に稼ぐ人がいることは、廻り回って貧困を生み出すことにつながっている。かのアリストテレスにしろイエス様にしろ「過剰に稼ぐことは悪である」と明言している。間接的とは言え、少なくとも多くの人の「命の食事」を奪うことになるからだ。2000年以上も前に、そのことに気づいていることには驚きである。「過剰とはどういう定義ですか?」と聞かれることが多い。その辺についても今後考察していきたい。
資本主義がダメだというなら、共産主義ですか?と短絡的にいう人がいる。世界の歴史を見渡しても、共産主義の成功例は見当たらない。名ばかりで、実情は独裁専制政治となっているから、資本主義の成れの果ての超経済格差社会と同じ結末となっている。

適度な競争のもとに、切磋琢磨して豊かな社会を築いていければいいのだが、どうしても行き過ぎてしまうのが、人間の業なのであろう。解決策のない批判は無に等しいかそれ以下であろう。少なくとも理論上か空想上は「それはいい考え方だね」と言われるような仕組みの提案をしたいものだ。しかしながらそれは現実のものとはならないであろうから、この現実において、心豊かに過ごせる実際的な提案も考えていきたい。

作成:2023/07/01

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