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共感と同情

医療や看護やカウンセリングの心がけで大切なイロハは「傾聴と共感」とよく言われる。この共感に似たようなものに「同情」がある。どうも日本人は「同情」が好きなようで、代議士などの投票に際しても「同情票」というような言葉が存在するくらいである。「共感票」とは言わないのが普通である。ということは「共感」と「同情」は明確に区別されている事になる。僕は、この辺のところが医療に大切だと思っている。医療者として活動してく際には患者さんの苦しみへの共感が必要であり、それを原動力として解決への努力のエネルギーが発生するような気がしている。日常的な診療では、いつもそこまでは意識していないだろうが、患者さんがかなり困難な状況に陥ってそれに対処するの医師側にも困難が山積みな場合は、相当エネルギーが必要である。その場合に意識するのが「患者の苦しみへの共感」ではないだろうか。 では「同情」ではいけないのだろうか。言葉のあやなので、言語学的な追求は別として、「同情」に続くものにはプロの判断が出来にくいと思っている。先ほどの「同情票」のようにともすれば正しい判断を逸脱する可能性がある。「同情」には、良い意味でも悪い意味でも感情移入が色濃く入ってしまうからであろう。 では、患者側から見たらどうだろうか。よく「患者の痛みの分かる医者は少ない」との批判を耳にする。実際そうであろう。痛みはなかなか伝えにくいものであり、理解も難しく、理解をしたつもりでも患者から見れば分かってくれていないように感じるものである。患者サイドからみると、やはり医師に自分の痛みを分かって欲しいのである。その時に「同情」して欲しいと感じているか「共感」をして欲しいと思っているか「理解」だけしてほしいと思っているかはかなり個人差がある。 患者と医師とのコミュニケーションはつくづく難しいと思う。うまくいっていると信じていても、結果が悪く出ると、関係はこじれることが多い。それに他の医師の不用意な言葉などが加味されると、関係の悪化は加速してしまう。このような嘆きは、本当に多くの医師仲間から聞かされる。普段、真面目に医師稼業をしている人からよく聞く。商業主義的または権威主義的な医師からはむしろ聞かない。「聞く耳」「共感するこころ」をあまり持ち合わせていたないからであろう。医を打算的に行うためには「聞く耳」はとても障害になるし、権威主義で名誉地位のみを追うものにとって「共感するこころ」は1次試験落第である。 患者も医師も同じ人間。時に患者は「共感のような演技」「同情のような振り」に騙される。「プロとしての共感」を理解できず、結果に振り回され自分にとっての良医と袂を分かつことがしばしばある。医療決断支援の仕事をしていてつくづく残念に感じることである。同情が好きな日本人の特徴であろうか。

作成:2010/03/10

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