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「患者中心」医療から「人間中心」医療へ

「患者中心主義」は、医療の理念の代表のひとつである。だれもが賛成せざるを得ない理念である。拙著の「私を救う医者はどこ?」の前書きの冒頭でも「人間の幸福な生活の一助のためにのみ医療は存在する」と言い切っている。これも「患者中心主義」を表しているようではあるが、次に続く文章で「こんな当たり前のことを、患者側医師側などという枠組みでなく、国民みんなで再確認しよう」と書いた。 相変わらず「医療崩壊」という言葉が繰り返されている。皮肉なことだが、もしや、この「患者中心主義」が関連しているのではと僕は空想してみた。「患者中心主義」が「患者様」と言う言葉を生み出した。どこかでよく聞く言葉である。そう、「お客様」という言葉である。ある歌手が言った言葉を思い出す。「お客様は神様です」いわゆる「商売」からしてみればそうなるだろう。その通り「患者様」を「お客様」にみたてて、医療機関に置いてもサービス精神の必要性が叫ばれた。今までの「ぶっきらぼうな」医療機関にとっては、とても大切なことだと僕も思った。しかし、日本人は、独創的なことは苦手だが、一旦みなが同じ方向に進む場合に、行き過ぎる性癖があると僕は感じ自戒もしているところだ。案の定、エステサロンやビタミンショップとまがうようなクリニックがあれよあれよという間に乱立した。アンチエイジングの本来の崇高な意味合いを単に商売道具に使ったようなところも乱立し、真面目に取り組んでいる医師は戸惑っているに違いない。他の機会で述べるが、医師の偏在の要因のひとつと言えると僕は思っている。 これとは反対に、多くの真摯な医師たちは「患者中心主義」を全うしようと日々懸命の努力をした。しかし、医療の不確実性、病気や死の宿命性、限られた(少ないと言える)医療資源という環境のなか、お客様として増大しつつある「期待」「要望」「要求」「批判」「非難」「攻撃」の前に疲弊した。それでも経営者や世論が守ってくれないどころか、「患者様が苦しむ前で、へこたれるとは何たることか!」と叱責した。耐えきれない勤務医たちは、大学教授や大病院の部長という地位を捨ててでも病院を飛び出した。ある医師が表現しているところの「立ち去り型サボタージュ」という現象である。 そもそも、日本の医療保険制度ほど充実したシステムは世界中を探してもなかなか見あたらない。その証拠に、かの大国アメリカが日本のシステムを模倣しようとしたが、「我が国民には不可能なシステムだ」と絶賛したことは有名な話しだ。その保険システムが今まで維持できたのは、医師を始めとした多くの医療従事者の犠牲的努力の上であったといっても過言ではないと思っている。 今、アメリカのオバマ大統領から叩かれている金融業界や日本でも「一億円以上の年俸を公表する」ことに猛反対している大企業(の役員たち)を、まじめな医師たちは、別世界のように呆然と眺めている。実際、医療界のリーダたちと企業のリーダーたちと話しをしていても、根本的な発想は全然違う。勿論、双方の方々をそれぞれに尊敬できるのだが。 そもそも「開業医の報酬と勤務医の報酬の格差」などということに天下の一流マスコミが何度も報道していることに奇異さを感じている。国民を混乱させている要因ではなかろうか。再診料が690円か710円かを論争したり、外科医が数名、その他のスタッフが数名以上一日専念する大手術の費用がたいていは驚くことに100万円以下だ。確かに「100万円」はたいした金額だ。しかし、この費用の中には、その多くを占める医療機器や材料、薬剤などの他に、場合により数度以上、数時間以上かけた患者や家族への説明などの労力も含まれることになり、そういった医療者の努力への報酬は全く考慮されていないと、ある外科医が苦渋の表情で僕に話したことが印象的だった。医療技術の発達とともに、個別の医療にかかる経費も上昇し、また、国民の医療利用率も増大している。これを国民の保険拠出金でまかなうことに無理がかかってきたのも必然のことである。思い切った改革が必要なときだが、だれも火中の栗を拾いたくない。 僕は、この文章を「医師の立場で自己擁護のために」書いているのではない。実際、僕はほとんど保険の頼らない活動をしているから、直接利害とは関係なく、俯瞰的立場で見ることができる。日本の医療を少しでも向上し安心できる体制を作るための「医療評論家」や医療を受ける側の国民の立場で書いているつもりだ。その気持ちで、標記の提言を考えた。 「日本の国民に取って最大の利益を得るため」の医療の実現のためには、今こそ「人間中心」の医療体制を整備することが急務だと考えた。医師をはじめとする医療スタッフも同じ人間だし、「医療もサービス業のひとつ」という反論はあろうが、「医療は普通の企業や商売にはなりえない」という基本的考えからである。国民総力で守っていかないといけない。医療を「教育」や「政治」などに置き換えても似ている。多様性が進化した現在では、「基本的な医療は」とか「基本的な教育」としたほうが正確かもしれない。「病院に集うもの皆が、快適で安心し納得できるような医療環境」の実現を目指すことが「医療崩壊からの脱却シナリオ」の発想だと言いたい。口で言うのは簡単だが、具体案に関しては次回以降に譲りたいと思う。

作成:2010/04/21

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