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役員報酬1億円開示に思う

最近の新聞紙上を賑わしているもののひとつに「役員報酬の開示」問題がある。1億円以上を開示すると最初に聞いた時に「そんな高額なのは滅多にないよ。その半分位から開示してもいいのではないだろうか」と思った。ところが、豈図らんや。続々と登場するではないか。驚きであきれかえってしまう。そしてまた、開示に反対する経済界の重鎮たちがいることを知り、不思議に思っている。アメリカなどと比べると、1億円くらいの年俸は低いと言っているご仁もいる。話しにならない。そういう人たちは「勤務医と開業医の報酬」論争の記事をどういった思いでみていたのだろうか?彼ら役員報酬開示の金額の大凡10分の1以下のレベルでの論争なのである。

僕は、報酬やら儲けには限度があるべきだと考えている。普通に質素に生活すれば、今時は、年俸300万円でも暮らせると言われている。かといって資本主義の現在、世の中の発展のためには「頑張って稼ごう」というような向上心が働くエネルギーとして必要なことくらいは理解している。そのためには、必要最低限年収に近い額の10倍かせいぜい20倍くらいまでの格差は容認しないといけないであろう。しかし、それ以上は、そもそも過剰なのである。一般的に過剰なものは還元せねばならぬものだ。さもなくば破綻がいずれ訪れる。お金を中心に(実際は、お金だけでと言ってもいいくらいだが)物事の価値判断をせざるを得ないアメリカ型経済価値観が世界中に蔓延している。スポーツ選手も芸術家も学者もただのお金持ちも同じセレブというくくりで集まる最近の風潮。面白味がなくなったと思っていたが、危険な徴候を示している。相撲界の事件がその例かもしれない。そして、我々も、情けないことに、音楽家でも画家でも(医者でも)有名であることや肩書きや所属先などだけで評価をしてしまう。勿論、実力があったからこそ有名になったのであるが、何事も行き過ぎはよくない。

話しを戻そう。役員報酬について。「会社の業績に見合った額である」「経営者の特殊な能力で会社は巨大な利益を上げたのだから当然」尤もな話しに見える。人間の能力の格差は歴然たるものがあって、一握りのリーダーが歴史を塗り替えてきたし、天才の発明により、我々は当たり前のように電気文明を享受し車にも乗っている。才能ある者は、世の中のためにつくすものだから、それはそれでいい。しかし、才能ある者が、弱者から搾取することとは随分違う。歴史を塗り替えるくらいの才能は希有なものだが、弱者から搾取するくらいの才能はたいしたことはない。極端な話しをしたが、こういったことを防止するためにも、大企業の役員報酬の制限をするべきだと僕は思っている。そもそも大企業は(マスコミも一緒だが)、それだけで巨大な力を持っていることを自ら認識すべきだからである。いくら優秀な人でも、個人の力ではなしえないことが、大企業の看板があるからできるのである。その大企業は、過去の多くの人の力の結集で大きくなったのである。業績に直結連動する報酬システムを取っているから当然そのようなやり方になってしまう。役員が数多くいる大会社には、大した働きをしないのに、毎日、会社のお金で飲み食いだけしているような人が結構いると聞く。大病院で、50歳を超え部長クラスになった今でも当直業務を週に1度以上やり、早朝から夜遅くまで勤務する優秀な医師たちの報酬の数倍をそんな人たちでさえ貰っているとしたら、搾取以外のなにものでもない。

医療界を理解して頂き、[医療崩壊]を食い止めたいために、この文章を書き始めた。高額役員報酬をもらっている人たちの言い分は、大きな声では言えないだろうが、「私の優秀な経営能力で稼ぎ出したのだから。報酬の格差は、人間の優劣があるのだから仕方ない」と思っているのであろう。では、優秀論について、俗っぽく考えてみたい。学生時代を振り返ったり、子供たちの受験について思い出してほしい。「いい大学に入りなさい。東大、京大を目指しなさい。国公立の医学部をなんとか。」僕たちが、ある程度大人になって迎える最初の登竜門が大学受験であることを否定する人はいないだろう。そして、国公立の医学部がいかに難関であるかは、ほとんどの人が知っている。勿論、大学受験ごときで人間の優劣は決められないが、ひとつの尺度であることは、誰しも認めているからこそ「学閥」なる言葉もあるし、高い授業料を払って有名予備校にいったり、有名受験校を目指す訳だ。そんな医学部OBは、一流企業の役員たちと、平均的に見て遜色のない優秀な一群である。その群間の平均年俸には数倍以上の開きがあることをどう考えるか。先ほど、例に挙げた50歳の大病院部長の平均的年俸は1000万円台くらいだ。また、どんなにのぼり詰めて、日本を代表する病院の院長になったり、大学の医学部長になっても3000万円を超えるとは思えない(実際、調べた訳ではないが)。勿論、魂か身体を売ってまで稼ぎまくると言われる医師もいるだろうが、たかが知れている。

では何故、受験戦争で勝ち抜いた彼らが、そんな低報酬(大企業の役員から見れば)の世界でいるのか?答えは簡単だ。お金以外の価値観で生きているからである。人のために尽くす喜びを知っているからだ。しかし、最近、医療紛争ブームを契機に、医師を敵視する傾向が高まり、善良な医師たちのマインドが急低下してきた。そうなると医師の価値観が揺らぐ。他の企業人のようにお金の価値観を優先するようになるかもしれない。すでに危険な徴候も出てきている。エステサロンのような「お客様は神様です」的クリニックが増えてきたし、東大の医学部を卒業して、外資系の証券会社に就職する人も出てきた。頭のいい人はさすがに先見の明があるのだなあ、と仲間内でも苦笑いだ。「医師という職業には、偏差値70を超えるような秀抜性はいらない。まずまずの頭脳とすぐれた器用さと盤石の体力を持ち、きちんとした使命感が根底にあることのほうが重要だ」というのが僕の持論である。ならば、東大の医学部など受験戦争の権化のような特殊なところでは、卒業しても他の分野に行くことは気にせず、むしろ医学部の過剰人気が低下し、医学部の受験が易しくなり、むしろその考えにとっても好都合では?とも反論される。部分的にはその通りだが、日本はとかく行き過ぎる傾向にあるから、ある程度以上優秀な人材が医学部で確保できなくなる時代がくるかも知れないと危惧している。

世界に誇る日本の医療水準を守るために、みなさまにより深い理解をしていただきたく、かなり過激な思想を書いた。

次の機会に、資本主義における「美しい稼ぎ」のあり方について意見を述べたい。

作成:2010/06/24

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