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220107 豊かさ・幸せを哲学する5 箱根駅伝に貧富の二極化を見た

お正月のテレビの楽しみに、ウイーンフィルのニューイヤーコンサートとともに「関東大学箱根駅伝」がある。10人の学生ランナーがタスキをつなぎながら東京大手町から箱根芦ノ湖までの往復を走り抜く過酷な長距離リレーだ。毎年、必ずと言ってよいほど、何らかのドラマが起こる。実力ランナーが筋肉の痙攣を起こしてしまい、足を引きずりながら何人にも抜かれてしまうことはしばしば起こる。20校のうち、10位以内に入ると翌年にも出場できるシード権が入るから、10位と11位の争いは熾烈だ。10人で走るからこそ、一人ひとりの責任が薄まるどころかかえって相当に重くなる、ということは彼らの走っている姿を見ていると痛いほど分かる。疲れ切った状態で次の走者にタスキを渡す。次の走者は元気溌剌としているから、前走の仲間の肩を叩き、ねぎらいながら駆け去っていく。そして1時間後には、今度は、自分がふらふらになって次のランナーへタスキを渡すことに。そのお互いを励ましあったり許しあったり称えあったりする姿は実に美しい。この子たちは、世間に出て、どのようになっていくのか想像するのは楽しいような怖いような気もする。世の中のリーダーたちも、この共同活動の精神を学んで欲しいものだ。
そんな駅伝のドラマの中で、僕にとってはとても辛くて嫌なルールがある。「繰り上げスタート」というものだ。それぞれのタスキの中継点で、トップの走者から20分以上経つと、次の走者はスタートを余儀なくされて、20分以上遅れた走者は自分の大学の次の走者にタスキを渡せなくなってしまう。今回も、7秒差でそのルールが適用された。散々頑張って走ってきた走者は、数十メートル先で、合図のピストル音ともに、仲間が自分の持っているタスキを待たずにスタートしてしまうのだ。残酷なシーンである。道路の通行止めの時間を限定し、一般人への不便を最小限に抑えるためのルールだが、それはこの駅伝を面白くもしているとの意見もある。僕はその辺に何もコメントできない。ただ、見ていて辛くなるだけである。トップランナーがもう1分ゆっくりだったら間に合ったのに!などと思ってしまう。

ふと今、日本でも世界でも問題になっている「貧富格差の極端化」について思いが募る。コロナの影響もあり、金銭的問題で食べていけない人々が少なからずいるという報道番組がつい先日あった。食物ロスや富裕層ビジネスが横行する中、信じがたい情景がそこにはあった。超富裕層が超貧困を生み出しているという単純な公式を、なぜ日本の、世界の賢人たちはそのことにダイレクトに触れないのだろうか?机上の空論だと笑われてしまいそうだが、経済社会もある意味では「ゼロサム社会」だと僕は思っている。経済人は、「それは麻雀などの話で、経済はもっと複雑なんだ」と半ば馬鹿にしたように言う。更には「競争原理が、様々な発明やイノベーションを生み、便利快適を享受できているんだ。」と説教される羽目になる。その内容を全面否定するつもりはない。ただ、何事も極端化すると、量の問題だけではなく質までも変わってくると言いたい。
 

では、どうするのだ?その辺のことをコツコツと考えていきたい。このブログでも微力ながら発信していきたい。

作成:2022/01/06

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