NHKの「100分で名著」は、安直にいわゆる名著のあらすじを知るには重宝な番組だ。でも、それをきっかけに、本格的にその作者に没頭していくきっかけとしても有用だ。僕にとって、その一つとして「アリストテレスのニコマコス哲学」があり、とても頭の整理に助かっている。最近、「中江兆民」についてのシリーズがあった。名前は聞いたことがあり、板垣退助と近い人だったという中学生の教科書的知識しかなかったが、その中の言葉が気になった。
「普遍的な真理である<善>を語れば陳腐であるが、行えば奇行と言えよう」というような文であったと記憶している。
選挙の時だけは聞こえのいいことばかり言っているのに、やっていることはどうなっているの?と言いたくなる政治家がほとんどだと嘆いている御仁は多い。番組でも言っていたが、今の政治家にこそ中江兆民を読ませたいと思った。ただ、中江兆民については、今のところ100分のテレビ番組の知識しかない僕には、偉そうに言える資格はないが。
1月1日には、能登大地震、翌2日には、航空機事故と2日続けて地獄絵図を見た。燃え盛る旅客機を見て、乗員乗客は全滅だろうと吐き気を抑えながらテレビ画面を見ていたが、全員救出に喝采し、後ほどの報道では、クルーの的確な判断と行動、最後に全員の脱出を確かめてかろうじて自らも脱出した機長、という話。日本中で多くの人が感動の涙を流したであろう。まさに中江兆民の言うところの「素晴らしい奇行」であった。その後、能登地震の報道でも、様々な人が命がけで救助活動をしている姿が映し出される。もう一つの投稿で書いた、弱い人間だが力を合わせてピンチを切り抜けていく姿そのものだ。
一方残念な話だが、こういった大災害に乗じて、泥棒や詐欺などが横行しているというニュースも報道されている。その人たちは、一体どのような教訓を親からもらって育ったのだろう?
今回の機長の行動を格好良いと感じないのだろうか?
今年こそは、明るい話ができる年に!と思っていたら、大地震、大事故ととても暗い幕開けとなってしまった。昨年末は、現職国会議員たちの事務所の家宅捜索という「永田町の激震」で年末の幕を閉じたのに、年が明けたら、本当の地震が起きてしまった。「政治家が悪いから、、、、」「権力者が悪いから、、、、」「あの人が悪いから、、、」などと人のせいにすると気分が悪くなるから、「そうだ!神様のせいにしよう!」という心のマントラの一つを提案したことがある。神様は、きっと心がお広いので、自分のせいにされても寛大な気持ちでいてくれるだろうから。それにしても、この世界中の悲劇のニュースを見る限り、神様の存在には懐疑的になる。少なくとも善意の神様と悪意の神様の両方がいるに違いない。そうなると、我々人間は、悪意の神様に対して、(善意の神様の力も借りながら)対抗していかなければならない。人間同士が戦ったり、騙し合いをしたり、弱者から搾取したりしている場合ではない。今回の地震を見ても、悪意の神様は強大な力を持ち、容赦なく人間を襲ってくる。我々人間の力は弱く、力を合わせてようやく凌いでいくのが精一杯である。
医学の世界も同じだ。人類の叡智でいろいろな病気のことがわかり、一昔前では対処できなかったある種の病気が制圧できるようになった。しかし、コロナで経験したように、風邪のウイルス(ごとき!)の改造バージョンが、これだけ世界中の人類を痛めつけた。悪意の神様が改造したのか、はたまた人間の手によるものかは知らないが、少なくとも悪意の神様が加担していることには間違い無いであろう。
新年早々、今年も悲観的な話になったが、今後は人類が普遍的に求めているはずの「幸せ」や「善」についての、明るい考察をしていきたいと思っている。僕が目指している「幸せ論哲学家、思想家」としての立ち位置を整えていきたい。今年の年賀状に書いた「親からもらった教訓集」の上梓も目論んでいる。
(著者注)文中の「悪意の神様」は「自然の脅威」に置き換えることを神様の名誉のために薦める。
3日前に、久々のブログを書いた。日経新聞記事で「豊田章男の高額所得」と言う記事に触発されて経済格差のことを少しばかり。今度は昨日日経新聞朝刊の経済教室欄で、このブログタイトルのような記事に目が止まった。岸田首相の「異次元の少子化対策」などの社会保障の財源問題に対して、3名の経済学者や社会学者が「あるべき財源論議」と言うサブタイトルの3日間シリーズの3論文の3つ目にあたる。論者は、伊藤周平鹿児島大学教授で、ポイントは、「社会保障関連のさらなる給付抑制避けよ」「世界的に多国籍企業への課税強める方向」「所得税の累進性や金融所得課税の強化を」の3点にまとめている。3名ともに、財源に触れずに効果だけを主張するのは良くない、との意見は同じであるが、他の2名の方の論点は明確ではなく、消費税をあげるしかないという意見と社会保障と税を一体で考えるべきという具体策が感じられないものである。この伊藤さんの考えは論点がはっきりしていて大企業や富裕層に対して、毅然とした歯に衣を着せぬ明快な意見である。堂々とこういった意見を言える政治家はいるのだろうか?選挙を意識し、大企業の有力者との繋がりを無視できず、結局は顔の見えない一般国民に負担を押し付けることになってしまうのがオチである。赤字国債で賄っても一種のマネーロンダリングのようなもので同じことである。
この記事を見られる人は、昨日の新聞を撮っているか電子版を利用している人に限られるだろうから、論旨がわかるように重要箇所を抜粋してみる。
以下伊藤周平さんの記事より抜粋
「経済界は社会保障の安定財源とされる消費税による財源確保を主張している。しかし消費税は逆進性が強く、その増税は貧困や格差を拡大し、、、」「岸田政権は、、、、歳出削減を中核にせざるを得なかった」「歳出削減の最大のターゲットとされるのが、歳出の最大項目である社会保障費だ、、、、徹底した給付抑制が予定されている」「歴代政権のもと、社会保障ひは自然増という必要な費用までが削減されてきた」「社会保障の削減、特に医療費抑制制作がコロナ禍で病床の不足を招き、、、、悲惨な結果をもたらした」「経済のグローバル化の中で、富裕層や多国籍企業はタックスヘイブンと呼ばれる税負担や金融規制がほとんどない国に資金を移し、巧みに税負担を回避してきた」「、、、多国籍企業を呼び込むために、法人税率の引き下げを競ってきた。日本でも消費税の増税に伴わせて法人税が減税されてきた」「日本では、多くの減税措置を利用できる大企業の実際の平均税負担率は、表面上の実効税率よりもはるかに低い10%台との指摘もある」「所得税のフラット化も進んだ」「所得税の平均税率は所得1億円でピークを打ち、それ以上の所得階層では所得が高くなるほど税負担率が下がると言う逆進的な構造が生まれた」「コロナ禍の下でも大きな利益を上げ続けてきた大企業や富裕層への課税強化で賄うべきだと言う国際的な合意が出来つつある」「諸特区税については、最高税率の水準を86年水準まで戻せば、相当の税収増になるはずだ」「法人税については、基本税率を30%に戻し、、、、所得時江南の累進税りつに変更すれば、、、中小企業は現行よりも低い税率で、、、、」結論として「各国が法人税率の引き下げ競争をやめて増税にシフトし、多国籍企業や富裕層に対する課税強化の国際的協力が進み始めている今こそ、日本も社会保障の削減でなく、応能負担原則に基づいた税制改革、それによる財源確保の方向に政策転換すべきだ」
抜粋終わり
以上、個人的な見解で、勝手に記事の抜粋をした。できれば全文をお読みいただきたいが、かなり多くの部分を抜粋したので、内容はきちんと理解いただけるかと思う。テレビや新聞などによく登場する経済学者と名乗る人たちの多くは、政府や大企業の御用学者かと思われるような人が多く、そうではなくても具体的な方法論はなく、単なる理想論に留まるものが多いと感じている。
この伊藤氏の、論文記事は、政府や大企業などの権力にも追従せず論理や主張が明確で、久々にすっきりしたので、この場を借りて紹介した。伊藤氏の許可も得ていないので、正確には全文を入手して読破してもらいたい。
伊藤周平先生、頑張ってください!応援します!
久々に会った友人数人から「寺下さん、最近ブログ更新していないねえ」と言われ、最近の筆不精ぶりに自己エネルギーの減少を痛感した。言いたいこと伝えたいことはたくさんあるというのに!ということで、早速ペンを取る。いや、キーボードを叩くことにした。
最近の僕の関心事のテーマは、「行き過ぎた資本主義の結果、行き過ぎた経済格差の二極化を来たし、様々な歪みを生み出している」ということだ。その一つであるが、安全神話の国と安心していたら、とんでもない強盗事件が多発している。前回言及したが、その根本原因は、貧困に悩む若者層を巧みに実行犯として操るお金の亡者である指示犯、という構図である。
「お金がないと何もできない。お金があるとなんでもできる」と国民が考えてしまう世の中になりつつあるからだ。政治家を中心とした権力の中枢に居座っている人々の責任は重い。
資本主義社会では、とにかく多く稼いだものが成功者であり、時に英雄となる。大抵は世の中のニーズに合ったモノや仕組みを作り出すことにより、多くの人々に快適や楽しみや豊かさを提供しているからこそ、その売り上げが伸び、その企業は巨大化していくことになる。
このブログのタイトルは本日の日経新聞朝刊の記事見出しにあったものである。その記事では、更に14億円の配当所得もあるとのこと。今期の報酬は前期の46%増ということだった。欧州のグローバル企業に仕組みを取り入れたという。日本最大の企業であり、世界でも有数の企業の代表だから当然と関係者も一般市民も思っているかもしれないが、これこそは資本主義の大きな過ちの象徴だと僕は考えている。トヨタのみならず好業績の大企業では、一昔前の日本ではあり得なかった多額の役員報酬を海外企業に倣って取る習慣が広がっている。従業員の給料は据え置かれたままに。今年になって、ようやく一般社員の報酬をあげようという気運が高まりつつある。普通は逆であろう。社員に十分な給与を与えることができるようになったから、それに比例して役員もそれなりの報酬を取ろうと。そもそも社長の報酬は、社員の平均報酬の10倍程度までがいいところと言うのが、僕の肌感覚である。その倍率も会社の評価の一つの指標となっているらしいが、それは面白い指標である。低過ぎても高過ぎても問題であるというところが考えさせられるからだ。
テレビでユニセフの広報を見たことがあるだろうか。今、世界で4700万人の子供たちが餓死寸前とのことだ。日本でも給食費を払えない子供たちは、正確な数字は思い出せないが、かなりの数になるという。麻雀のように、誰かが勝つには、誰かが負けることが必須である。誰かが大きく勝つには、誰かが、もしくは他の誰もが大きく負けないといけない。4人の麻雀のゼロサムの例えを大きな社会での経済理論の場に持ってくるのは、経済学の何たるかを知らないズブの素人であるとの誹りはあるだろうが、根本的な考え方として間違っていないと僕は考えている。今後のブログにも、その辺の理論武装をしていくつもりだ。国内でも海外でも、このことに気付きはじめた経済学者たちがポツポツと同様の発言を始めたことにかすかな期待をしている。
過剰に稼ぐ人がいることは、廻り回って貧困を生み出すことにつながっている。かのアリストテレスにしろイエス様にしろ「過剰に稼ぐことは悪である」と明言している。間接的とは言え、少なくとも多くの人の「命の食事」を奪うことになるからだ。2000年以上も前に、そのことに気づいていることには驚きである。「過剰とはどういう定義ですか?」と聞かれることが多い。その辺についても今後考察していきたい。
資本主義がダメだというなら、共産主義ですか?と短絡的にいう人がいる。世界の歴史を見渡しても、共産主義の成功例は見当たらない。名ばかりで、実情は独裁専制政治となっているから、資本主義の成れの果ての超経済格差社会と同じ結末となっている。
適度な競争のもとに、切磋琢磨して豊かな社会を築いていければいいのだが、どうしても行き過ぎてしまうのが、人間の業なのであろう。解決策のない批判は無に等しいかそれ以下であろう。少なくとも理論上か空想上は「それはいい考え方だね」と言われるような仕組みの提案をしたいものだ。しかしながらそれは現実のものとはならないであろうから、この現実において、心豊かに過ごせる実際的な提案も考えていきたい。
「不要不急のことこそ人間にとって不可欠の栄養剤」と思っている。今回のWBCは、それを見事に証明してくれた。悪い事件が起こっては、このブログを書くことが多く、「嘆きのブログ」状態になっていた。「何が、幸せ哲学だ」と罵られても仕方がない最近のブログ内容だった。久々に明るい話題に接した。多くの国民が感動に酔いしれた侍ジャパンの活躍ぶりだった。(告白:僕の最近の野球離れはひどく、名前と顔が一致していたのは大谷とダルビッシュだけだった)
どのような仕事も大切であることは当然であるが、国にとって最も大切な仕事は「政治家」であると思うようになった。友人たちから、「政治家にでも立候補したら?」と言われることは少なくない。その度に「最もなりたくない職業は政治家だよ」といつも答えてきたし、今もそう思っている。人は憧れるような人がいて、それを目指したくなるものだ。大谷を見て「野球選手になりたい」と思った子供たちは多いだろう。我々の世代の医師は、ベンケーシーやドクターキルデアなどという昔のアメリカドラマの主人公ドクターに憧れただろうし、もう少し若い世代は、手塚治の「ブラックジャック」の影響は否めない。憧れる模範となる人物の存在は大きい。僕にとって、憧れる政治家が今も昔も存在しないのが、なりたくない職業の代表が政治家であるという理由だ。
しかし、国民、庶民の幸せにとって、最高に大切な仕事は政治家であるのも事実だ。そんな要職にこそ、能力がひときわ高く、自分や側近の人々だけではなく広く民のために、身を粉にして犠牲的精神で全力を尽くすことができる魂を持った人がつくべきである。しかし、世の中を見渡してみたら、「少しばかり能力の高い人が、徒党を組んで、自分や側近の人々の利益になることを最優先し、自分のプライドまで満たそうとする」政治家がほとんどだ。世界に目を向けると、もっとひどいかもしれない。国民の命を貴重とさえ思っていない国主が少なくない。どうしたらいいか?諦めるしかないのか?そんなことを考え抜いてみたいというのが、「しあわせ哲学者」を目指している所以だ。
前回書いた「連続強盗殺人事件」だが、安全神話の呼び声高い日本での現実だ。驚き、不安が押し寄せる。どこの国にでもいる悪人のなせる技なのだから、政治とはあまり関係がないと思われる方も多いかもしれない。確かに指示犯になるような極悪非道の輩は、どの国でも一定の割合で発生していく。しかし、今回の犯罪の構造で、最も気になるのは、昨日まで無垢だった若者が、お金に困りSNSを通じて実行犯に成り果てていったことだ。それも少なからずの数が存在している。
政府は、貧富の二極化を止めるどころか、口では問題視しながら、やっていることはむしろそれを助長しているキライがある。「お金がなければ何もできない」「お金があればなんでもできる」という風潮を、この日本で蔓延らせた罪は大きい。もちろん、その主犯は政治家だ。また、その周囲に群がる経済界やVIPと言われる人たちだと、僕は思っている。人のせいにばかりできないが、これは批判だけではない。一旦は日本国民のためにと政治家を志した人に、初心を思い出して粉骨砕身努力してほしいという、真剣で切実なお願いでもある。
報道番組では、「僕も侍ジャパンの選手のように、何事も諦めずに最後まで努力をしたいと思いました」とたくさんの子供たちが興奮気味に話していた。楽観的と笑われるかもしれないが、闇バイトに応募する予備軍の若者の1割程度には「闇バイトなどの誘惑に負けず、僕も努力して、きちんとお金を稼ぐことを諦めないでいよう。」と思い直させる力があったのでは期待している。
他人に配慮し、人のために努力を惜しまない、チームを大切にする日本国民の本来の姿を引き出すようにできる力を持つのは政治だ。それはうらやましい仕事だ。
模範の姿を見せてくれた侍ジャパンの方々、ご苦労様でした、そして、ありがとうございました。
今年初めての投稿になる。もう少し、コロナが落ち着いたら、、、、。ウクライナの虐殺にピリオドが見込めるようになったら、、、。
言い訳になるが、少しでも世の中の不安感に一息ついた時に書きたいなあ、と思っていた。が、不安要素は深くなる一方だし、最近では「連続強盗殺人事件」が多発し、安全神話の国日本も危うくなってきてしまったと嘆いている。このままでは「幸福論のペンを折る」ことになりかねないと、重い腰、いや、思い手を動かすことにした。
それにしても、最近多発している「連続強盗殺人事件」には、僕が懸念していた要素が詰まっていると恐れている。数少ない経験だが、諸外国に旅をするたびに、日本の「安全」「親切」「公共性」「丁寧」「弱者を守る気持ち」そして「リーズナブルで美味しいお店に溢れている」という有り難さの再認識を痛感していた。
今回の「強盗殺人事件」も、海外からの侵入者による仕業かと思っていたが、どうやら日本人の集団らしい。
SNSは便利で楽しいこともあるだろうが、人類に危機をもたらす可能性が高い。過度な資本主義は、拝金主義を産み育て、完全な二極化による無気力な世界を産み出す。グローバリズムの行き過ぎは、SNSと同じく、結局は毒性が強い。歴史の盲目的賛辞は、「強者が正しい」ということを肯定してしまう。僕が言いたいことは「Might is Right」は明らかに間違いで、敢えていうなら「Right needs Might」ということだ。
などなど、以前から懸念していることであり、ことあるごとに発言している。
「力あるものが正しい」という論理は完全に間違っている、ということはロシア(プーチン)などの暴挙を嘆いている人たちは皆理解しているだろう。今回の「強盗殺人」は、腕力あるものが凶器を用いて弱い老人や無防備なものから、力づくで金品を奪う行為だ。あってはならない、絶対に看過してはならない非道な行為である。日本人の大和魂は「正しいと信じたら自分より強いものにも立ち向かい、弱いものを助ける」といったことだと、世界に誇る精神性であったと信じているから、怖い事件でもあり、嘆かわしい事件でもある。
この事件の犯人グループの仕組みについて報道されているが、中心リーダーに「頭は少し回るが、残虐でお金を得るためなら自分が捕まらない限りは何でもする。」という人物がいる。いわゆる「反社会性人格障害」と分類される精神性を持つ人々で、世界の人口の2〜4%いると言われる。日本ではその下限の2%であるとのことだが、日本の道徳思想などが影響しているとも言われている。これはいわゆる頭脳とは無関係に発生する頻度である。頭脳が高いほど社会に与える影響は大きくなる。道徳的知恵となりふり構わない悪知恵が真っ向から対決すると、前者は不利になる。皆さんも、考えてみて欲しい。「あの時、良心を捨てれば得をしてたのに、、、」思ったことはないだろうか。犯罪までとはいかないが、「いわゆる良心」を(一時的にと思って)捨てて、出世したりお金を儲けたりしている人は少なくないのではと、僕は思っている。僻み根性だと非難される覚悟はしながらだが、
今回の中心リーダーは、 SNSの仕組みを巧みに駆使して、自分の下部組織を編成している。自分に操作が及ばない仕組みを考えているらしい。悲しいことに、無知な若者がその誘いに乗っていく。「振り込め詐欺」などを考えると、その数は相当な数になる。つまり無知で無垢な若者がその犯罪の中に誘い込まれ、無垢とは言えなくなってしまう。
なぜ無垢な若者がそんな誘いに入り込んでいくのか?理由は、いろいろあろうが、単純に考えると、お金に困っている若者が数多くいるということだ。世の中の経済的二極化がその大きな原因であることは容易に想像がつく。そして、悪いことに「お金さえあれば、なんでも手に入る」という風潮が、若者の背中を押す。
となると、今回のような事件が多発するのも政治の責任となることになる。僕は、少なからずそのように考えている。そうでないと解決しない。アリストテレスが言うように「政治」こそ、最も大切で崇高な職務である。残念ながら、それに値するような政治家に出会ったことがない。頼みます、政治家を志す超優秀な若者様。
以前、「コロナが教える、、、」シリーズで、「できないことの理由をコロナのせいにする」癖が世の中に染み付いてきた、と批判的に書いた記憶があるが、まさに自分自身もそのキライがあることを認めなくてはならない。前回のブログ更新からななんと4ヶ月近くも経ってしまっている。コロナ、ウクライナ侵攻のせいにしていたら、安倍元総理襲撃事件やらその国葬問題、統一教会問題、記録にないレベルの自然災害の連発、猛暑による被害、エネルギーや物価の高騰問題など目を覆いたくなる耳を塞ぎたくなる話の連続だ。ほっとするような話題は極めて少ない。その温かい話題を求めてNHK朝ドラ「ちむドンドン」を心の清涼剤にしている人は少なくないようだ。その代わり同NHKの大河ドラマ「鎌倉殿」を見ると、人間の欲に塗れた醜さへの変貌の様子に「鎌倉時代の昔も今も人間の心は変わっていない」と暗い気持ちになってしまう。そんなNHKの番組で「100分で名著」という番組を録画してみている。これは僕にとって便利で、「読み返してみたいがちょっと面倒だな」と思う本や、以前から(50年前から?)読んでみたいと思っていたが、余りに敷居が高く手をつけていなかった古今の名著をそれぞれの専門家が25分4回の100分で解説してくれる僕にとって大変便利な番組だ。その中で、アリストテレスの「ニコマコス倫理学」の話が、最近の事態で人間嫌いになるのではと恐れていた自分自身にあかりを灯してくれるのではと期待している。名前は知っているが読んでいなかったので、現代日本語訳を購入し、これから楽しみに読んでいこうと思っている。
「友愛こそ幸せの基軸にあり、友愛があれば正義(法律など)を意識する必要はないが、正義をきちんと行っていても友愛は不可欠だ」というような解説を聞いて、2000年以上も前にもこのようなことをしっかりと考えている人がいたのだと、すっかりアリストテレスファンになった気分になっている、今のところではあるが。
ロシアのウクライナ侵攻のニュースが毎日流れ、憤り悲しみ叫びたい気持ちを抑えているが、なかなかこのブログに手が付かない。豊かさ、幸せを哲学すれば、世界平和も夢ではないのでは?と念じつつ、このシリーズをしたためている。誰がみても、これは駄目だということでも、賛否は0対100にはならない。まさにいろいろな考え方価値観があるからこそ、哲学する(よく考える)ことは大切なんじゃないかというのが僕の主張の核心になっている。しかし、最近では、その核心は揺らぎ、世界平和は決して訪れないという悲しく認めたくない解答にたどり着いてしまう。
我々医療者は、一人の命の尊さに毎日接しながら活動している。僕の仕事は、重大な病気になった時の医療決断の相談と助言だ。事前準備なども考慮すると一回の相談に数時間を費やす。それでも結論が出ずに、何度も繰り返しながら、一人の命を左右する医療計画を立てていくお手伝いをしている。そして、その命に関しては、家族などの多くの人の「心」が絡んでくる。「命より心」を一つの提言に掲げている僕にとっては、大変な重さを持った相談任務となっている。
そんな中、連日「〇〇人が、爆撃で犠牲になった」というニュースが流れていく。一人の命にこれだけ重い実感を持ちながら地道な任務を遂行している僕は一体なんなんだ!と頭の中を空洞の塊が占拠していく気分に追い込まれる。
「豊かさ・幸せ」と言っても、この日本の平均的な立ち位置においての考えに過ぎないのでは?そんなところでの考えなんか吹けば飛ぶようなものではないのか?自虐的な気持ちにさえ襲われる。
それでもよく考える。それこそが「哲学する」という意味なんだと自身に言い聞かせる。
昨夜、佐渡裕さんのコンサートにお招きいただいた。アンコール曲は、なんと「アンダンテカンタービレ」だった。チャイコフスキーだ。一瞬怯んだ。佐渡さんが「チャイコフスキーがウクライナに想いを寄せて作った曲」と説明してくれた。哀愁のこもったメロディー。なんと最後は「アーメン」というメロディーに聞こえた。満員の聴衆は涙を浮かべて祈った。僕もその一人となっていた。素晴らしい選曲だった。
しぶといコロナに、身も心も痛み、汗も涙も枯れるのではないかと冷や汗や悲劇に涙し、その涙も乾かぬうちに、更なる悲劇が訪れた。以前から恐れていたことがまさかの現実化だ。人間の作り上げた文明技術が、目先的には人間に快適や便利さを与えることにより、一見人類の幸せに貢献しているように見えるが、過剰な文明技術の進歩が取り返しのつかない破滅を招くのではないかという不吉な予感だ。とりわけ「核技術」「遺伝子操作技術」「DX技術」が3大懸念だ。それらに次ぐ懸念としては「高層ビル技術とその乱立」「グローバル化の行き過ぎ」「スマホに代表させれる情報瞬時共有システム」があると思っている。いずれも、使いようによっては人類に相当な恩恵を与えてくれているし、なくてはならないものである。しかし、一つ間違えば想像を遥かに超えた人類破滅兵器となりうることは、少し考えれば誰でも想像できるのではないだろうか?
一方、最近の世の中の問題点として、日本国内でも世界でも注目されているのは「経済的な二極化」が際限なく進んでいることがある。僕が思うに、この「金力」の二極化は「権力」「軍事力」の集中につながっていく。今回のロシアの(プーチンの)強大な力による殺戮侵略はその権化であろう。おまけに「核」の脅威さえもちらつかせている。力のあるものが、弱いものを自制心なく我がものにする光景は、親が子供を虐待している様子をも連想するし、強大なコンビニネットワークで小さい酒屋さんが潰れていくのとイメージは重なる。
「ノブレスオブリーグ」僕が大切にしている言葉だ。直訳すれば「貴族の義務」となろうが、力の強いものこそ「謙虚」であり「献身」の気持ちを忘れてはいけない。総理大臣や政治家と民衆、富裕者と貧者、大人と子供、若者と老人など全ての人間関係で言えることではないだろうか?我々医師の世界では、医師と患者となるであろう。
二極化も、ある程度進むまではどちら側の集団もある程度の大きさがあるから、制御が効く余地はある。今回のPのように、また大国のSや核保有する国のKなどほぼ個人が極端な権力を持ってしまうと歯止めが効かなくなる事態が起こる恐れがあるし、実際にそれが現実化している。ほぼ、一人か数人の人たちに世界が怯えているのだ。皆が知るところではヒトラーや麻原なども同類であるが、幸い「核兵器」まで持ち合わせしていなかったから、まだ地球は無事である。
1年後10年後に地球は存続しているかと問いかけるのは、ノストラダムスの時よりも現実的な気がする。
我々にできることは何か?一人一人が「人ごとではなく自分ごと」としてしっかり考えることがまず大切ではないだろうか?
お正月のテレビの楽しみに、ウイーンフィルのニューイヤーコンサートとともに「関東大学箱根駅伝」がある。10人の学生ランナーがタスキをつなぎながら東京大手町から箱根芦ノ湖までの往復を走り抜く過酷な長距離リレーだ。毎年、必ずと言ってよいほど、何らかのドラマが起こる。実力ランナーが筋肉の痙攣を起こしてしまい、足を引きずりながら何人にも抜かれてしまうことはしばしば起こる。20校のうち、10位以内に入ると翌年にも出場できるシード権が入るから、10位と11位の争いは熾烈だ。10人で走るからこそ、一人ひとりの責任が薄まるどころかかえって相当に重くなる、ということは彼らの走っている姿を見ていると痛いほど分かる。疲れ切った状態で次の走者にタスキを渡す。次の走者は元気溌剌としているから、前走の仲間の肩を叩き、ねぎらいながら駆け去っていく。そして1時間後には、今度は、自分がふらふらになって次のランナーへタスキを渡すことに。そのお互いを励ましあったり許しあったり称えあったりする姿は実に美しい。この子たちは、世間に出て、どのようになっていくのか想像するのは楽しいような怖いような気もする。世の中のリーダーたちも、この共同活動の精神を学んで欲しいものだ。
そんな駅伝のドラマの中で、僕にとってはとても辛くて嫌なルールがある。「繰り上げスタート」というものだ。それぞれのタスキの中継点で、トップの走者から20分以上経つと、次の走者はスタートを余儀なくされて、20分以上遅れた走者は自分の大学の次の走者にタスキを渡せなくなってしまう。今回も、7秒差でそのルールが適用された。散々頑張って走ってきた走者は、数十メートル先で、合図のピストル音ともに、仲間が自分の持っているタスキを待たずにスタートしてしまうのだ。残酷なシーンである。道路の通行止めの時間を限定し、一般人への不便を最小限に抑えるためのルールだが、それはこの駅伝を面白くもしているとの意見もある。僕はその辺に何もコメントできない。ただ、見ていて辛くなるだけである。トップランナーがもう1分ゆっくりだったら間に合ったのに!などと思ってしまう。
ふと今、日本でも世界でも問題になっている「貧富格差の極端化」について思いが募る。コロナの影響もあり、金銭的問題で食べていけない人々が少なからずいるという報道番組がつい先日あった。食物ロスや富裕層ビジネスが横行する中、信じがたい情景がそこにはあった。超富裕層が超貧困を生み出しているという単純な公式を、なぜ日本の、世界の賢人たちはそのことにダイレクトに触れないのだろうか?机上の空論だと笑われてしまいそうだが、経済社会もある意味では「ゼロサム社会」だと僕は思っている。経済人は、「それは麻雀などの話で、経済はもっと複雑なんだ」と半ば馬鹿にしたように言う。更には「競争原理が、様々な発明やイノベーションを生み、便利快適を享受できているんだ。」と説教される羽目になる。その内容を全面否定するつもりはない。ただ、何事も極端化すると、量の問題だけではなく質までも変わってくると言いたい。
では、どうするのだ?その辺のことをコツコツと考えていきたい。このブログでも微力ながら発信していきたい。
日本のニューリーダー岸田氏は、コロナをはじめとした数々の難題をどのように凌いでいくのか?国民は戦々恐々としながらも淡い期待を抱いている。もちろん僕もその一人ではある。「コロナが教える、、、」シリーズの初回で「困難な時ほど頼れるリーダーが欲しい」と書いた。頼れるリーダーが多くの人に安心感を与え、幸せの基盤を作ってくれる。その上に幸せを乗せていけるかどうかは、各個人の問題ではあるのだが。
年初より、テレビ、新聞では隣国のリーダーS氏の話題が多い。S氏は自らを絶対唯一無二の指導者だ、というアピールがあまりにも激しい。ある評論家は「一部の国民にとっては、あまり考えずに信ずるだけの神のような存在は楽に感じるのかもしれませんね」と言っていた。宗教の根源はそんなところにもありそうだから、あながち目くじらを立てて反論もできない。しかし、僕は「神様」と「リーダー」はちょっと違う解釈が必要だと考えている。「リーダー」と一口に言っても、いろいろな「リーダー」がある。野球やサッカーチームのキャプテンや監督というのもあれば、一国の首相や大統領などと、その幅は広い。
「一国のリーダー」のように、不特定大多数の「リーダー」について考えてみたい。<「リーダー」の考え方や信条などを信奉しそれに服従するものを守る>という図式であってはならない。これでは<信ずるものは救われる>という宗教的図式となってしまう。国家のリーダーとしては、国民の多様性を大切にし、貧富の差もなく全員に恩恵が届くようなリーダーシップが望まれるべきだ。リーダーへの信奉が厚く、考え方にも同調し、利害も共有することを基本的必要条件にするのでは、それは本来の「リーダー」とは言えない。ただの「親分」だ。つまり、真の「リーダー」には、その対象となるものへの、どこか自己犠牲的なものを、その核心に内包していることが必須条件ではないだろうか。だからこそ、簡単には一国の「リーダー」にはなれないし、尊敬に値するものなのだ。
これは大企業の社長にも言えるのではないか?そのような真の社長にお目にかかる確率は数%だ。長年民間侍医の活動を続ける中で、数こそ少ないがそのような貴重な方々の健康管理の大役を務めさせていただいていることは光栄だと感謝している。「社員の幸福こそまず第一で、次に顧客、そしてできれば利益も」という考えの社長にこだわらなければ、数十倍のクライアントで左団扇になっていたのに、、、と友人の医師から慰められているが。
「豊かさ」や「幸せ」を意識する年代は特定されるだろうか?若い時は、仕事を中心にバリバリとまたはあたふたと忙しない毎日で、そのようなことを考えている余裕がないかもしれない。シニア世代になって、過去を振り返ることが多くなったり、人生の先が限られてきて、ようやく「私の人生はこれでよかったのか?」と考えてしまうことが多くなるような気がする。もしくは、その対極にあるのだが、まだ社会に出ない少年青年期にも「幸せ」を意識する時代があるようにも思える。「幸せの青い鳥はどこにあるのか?」と。
まずは自分自身が直面している、シニアにとっての「豊かさ・幸せ」を中心に考えていこうと思う。キーワードはたくさん思いつくが、僕が考えている二つの基本理論をまずご紹介したい。
「老年よ、目先の夢を追いかけろ」をモットーにした「NFD(Near Future Dream)理論」である。「少年よ、大志をいだけ」をもじったのであるが、もちろんその考えを否定しているものではない。「夢」は「若者」と相性がよく、「シニア」とのマリアージュはしっくりこない。でも、「夢」や「希望」がなくなると、人生は暗くなる。ただでさえ暗くなりがちなシニア。そんな中、常に「夢」を持ち続ける工夫が、このNFD理論である。
もう一つの基本理論は、「過去の栄光に浸ろう」とも言える「GMC(Good Memory Chain理論」である。説明無用だろうが、「過去の栄光にすがるな!」をもじったものである。
「豊かさ・幸せ」には、物質的世界より精神的世界の方が大きく関与するという僕の考えが底辺にあるから、「思い」というものを貴重品と考える。
今後、この二つの基本理論を中心に、「豊かさ・幸せ」について、思考を巡らせていきたい。お付き合いいただければ、幸福論思想家を目指す僕にとって、この上ない喜びである。
僕のライフワークの基本理念は「人々の生活の豊かさや幸せに貢献する」である。医師であり、医療分野での活動が主になるから、「なるべく多くの人に安心を提供すること」と置き換えて、様々な活動を行ってきた。「知識は最強のワクチン」「身近な医療相談役としての主侍医の実践」「医療決断支援活動」「標準治療の考え方の普及」などをメインテーマとしての活動である。これらの活動の底辺に流れる思いは「安心の提供」である。豊かさや幸せの底辺的必要条件に「安心」があると思っていたからだ。
では「安心」という底辺の上に、どのようなことを構築していけば「豊かさ」や「幸せ」を人は感じるのだろうか?「幸福論」は、いつの時代にも出没し、出尽くしたようにも思えるが、永遠のテーマなのかもしれない。僕のライフワークの最終章として、「幸福論思想家」がある、といろいろな機会に述べてきた。いよいよ、そのまとめ的作業を開始したいと考えている。
「哲学する」とは、ここでは単純に「徹底的に考え続ける」ことと解釈してほしい。どうしても個人的な価値観で考えることになってしまうだろうが、多くの皆さんに共感していただけるような考え方を模索していきたいと考えている。「ああ、そうか!」「そう考えると楽だな」「そう考えることが正義だなあ」「考えることは面白いなあ」「豊かな生活を自分なりにプランしたいなあ」「幸せはすぐそこにあるんだなあ」などと言ったように感じてくれると有り難い。何を隠そう僕自身が「安心」「豊かさ」「幸せ」を求め渇望し、そのためにこそ考え抜いていく途上なのだから。