性善説ルネサンス

性善説ルネサンス① 世の中に流れる性悪説 性善説は復活するのか?

 

2006.4~2006.11

性善説ルネサンス①
世の中に流れる性悪説 性善説は復活するのか?

ばんぶう

2006.4

日本医療企画


昨今の世の中の事件や出来事や新しい制度の仕組みなどを観察すると、その底辺には「性悪説」が流れていることに気づく。
 我々の世代(昭和中期生まれ)が青春時代だった頃、「愛する人のために死ねるか」というテーマの本がベストセラーになった記憶がある。最近では『世界の中心で、愛をさけぶ(セカチュゥ)』や「冬ソナ」がヒットしたが、人間にとって「愛」というものは永遠のテーマなのであろう。
 だからこそ「性善説か、性悪説か?」という論議も昔から絶えることはない。「自分は本当のところは性善説で生きたいが、周りが性悪説ばかりだから性善説では生きていけない」というところが大方の思いではないだろうか。「本音は性悪説、建前は性善説」という声も聞こえてくる。私風の心理医学的に言いかえるなら、「本能は性悪説、理性は性善説」となるだろうか。
 このフレーズを数回繰り返し口ずさみながら考えてみてほしい。あれれっ、逆ではないの?と思われる方はするどい。つまり、「本能は性善説、理性は性悪説」ということである。本来、人は「愛する人のために尽くす」ことを望んでいるし、人から感謝されることは大きな快感をもたらす。パソコンなどでいうところの「工場出荷時デフォルト設定」では、我々の脳はそのようにセットされているのである。
 ところが、最近では性善説では解釈できないことがあまりにも多くなってきた。ライブドア事件、耐震偽造事件などの犯罪はもちろん、医療保険の制度改革自体も、性悪説のもとに成り立っている。性善説に基づく医師の自由裁量に任せたら、医療は悪徳の方に傾くから、縛りをきつくしていくという基本方針である。医療保険のみならず、そもそも社会の規則や法律はそういった考えに立脚するものだと専門家は言うだろう。
 確かに、「社会とは規制にあり」と言えるかもしれない。日本の企業も「CSR(企業の社会的責任)」などと声高に言うようになったのは、自らの拝金主義を認めたからに他ならない。
 これから一年、「性善説復活」の可能性について解析していきたい。孟子万歳、萄子よさらば。

性善説ルネサンス② 果たして人間の良心は脳科学で解明されるか

 

2006.4~2006.11

性善説ルネサンス②
果たして人間の良心は脳科学で解明されるか

ばんぶう

2006.5

日本医療企画


「脳科学」ブームである。マスコミではその一部分だけを面白おかしく取り上げて、一部の専門家を猿回しの猿のごとく扱っているから、大衆はなんとなく理解した気分になっている。毎度のことである。私も売れない猿になったことがあるからよくわかる。
 確かに、世界中の研究者たちにより脳の機能について細部にわたり研究が重ねられ、膨大な研究成果が次々と明らかにされている。脳のどの部分がどのような機能を持っているのか、また、脳内の神経伝達物質はどのように働いているのかなど、分析的な視点での学問進歩には驚くべきものがある。また、心理学者や精神医学といった臨床系の専門家たちは、最先端の認知行動心理学などを中心に人間の心についての研究を進め、多くの知見を発表している。こちらは、脳全体の総括的な視点での学問である。
 こういった脳サイエンスの力により、いずれは「性善説か性悪説か」という永遠のテーマに思えるこの課題に終止符が打たれるのであろうか? タイムマシンがあれば未来を覗いてみたいと思う私の、好奇心をくすぐる最大の関心事の一つである。
 少なくとも現状では、脳科学者だからといって自分自身の心の解明・制御ができている人など見たこともない。私自身、「医療決断における心理学」ということを一つの研究テーマとしているが、「意思決定の迷い」は日常茶飯事である。高名な占い師でも、自分の運命は変えられないのと同じである。でも、「なかなか思い通りにならないこと」こそが、人間にとって面白いことでもある。「ゴルフボールやパチンコの玉」「増えゆく体重」「人の気持ち」「着実に進む老化」などに私たちは莫大なお金や時間を割く。たいていはうまくいかないし、うまくいったよ
うに見えても長続きしない。
 最近、あまりにも気になったので『良心をもたない人たち』というタイトルの本を購入してしまった。次回はこの本の書評を脳科学の観点から行いたい。人間の良心は哲学的には解明されても、脳科学では解明されないという見解を私は持っているのだが、果たして。

性善説ルネサンス③ 正直者は馬鹿を見る 良心ある人を評価せよ

 

2006.4~2006.11

性善説ルネサンス③
正直者は馬鹿を見る 良心ある人を評価せよ

ばんぶう

2006.6

日本医療企画


良心をもたない人たち』(草思社)の感想を書くと前回約束した。その本の著者マーサ・スタウトによると、同書のタイトルは、人口の約4%にのぼるという反社会性人格障害を持つ人を意味する。
 冒頭の言葉が印象的であった。「あなた自身が良心の呵責がまったくないという状態を想像できるだろうか」という問いかけである。多くの読者は、そんな想像はとてつもなく困難であることに気づくだろう。良心と知能はお互い無関係な要素であるからだ。
「正直者は馬鹿を見る」とよく言われる。アメリカ的に法律で人間を縛りつける風習が、近年は日本にもはび子ってきた、と私は憂国の気分である。そもそも、「法に従うこと」イコール「良心を働かせること」ではない。そこを勘違いするから、「法にさえ背かなければ」「法に従っているように見えれば」「法に規定がないから」ということになる。
 先日、東京のJR山手線で線路の故障が原因となる長時間の運休騒ぎがあった。JR西日本で起きた大惨事からちょうど1年後という時期でもあり、大事故を防ぐために徹底的に調査したから長時間の運休となったのであろう。しかし、その予防的措置を評価した記事を私は見つけることができなかった。悪い面だけ責め立てることをよしとする減点主義的マスコミ体質では決して良心が育たない。例の長机の前で責任者が頭を下げる光景を見飽きた人も多いはずだ。「プロや責任者が良心の呵責を感じ、良心に恥じない改革をいたします」という思いを感じる人はいるだろうか。
 医療ミスについても同様、最優先とすべきは結果論のみで医療側を責めることではなく、再発防止の調査研究と被害者の救済に焦点を置くことだ。ミスを起こした医師らを個人として責め立て、それを面白おかしく誇大に報道するだけでは解決しない。
 それどころか、日本の医療の現場を支えている良心に満ち溢れた医師たちの「患者が怖い」「結局止直者が馬鹿を見るのだ」というつぶやきが私の耳にもしばしば届くようになった。身震いするような危険信号である。一部の邪悪な人々を想定した法制度づくりの限界がきていることを認識し、今こそ良心を評価し、育てるシステムが必要だ。良心に溢れ、かつ知能の高い指導者の万々ひとつよろしく。

性善説ルネサンス④ 性悪説の感染力は強い 個人の力で打破できるか

 

2006.4~2006.11

性善説ルネサンス④
性悪説の感染力は強い 個人の力で打破できるか

ばんぶう

2006.7

日本医療企画


「朱に交われば赤くなる」「類は友を呼ぶ」などとよく言われる。小さい頃にこの言葉を親から聞かされた人は、40歳以上の方が多いのではないか。友人の及ぼす影響は大きいということだが、これは現代でも同様だろう。
 テレビなどのマスコミや、インターネットを通じた友人もどきたちが大きな影響力を持つようになった。怖い話だと私は思っている。そもそも人間は、一人では幸せになれないということを生得的に知っている。大切だからこそ、人間関係が壊れることを怖れるのである。「そんなことなら、そもそも人間関係などないはうが安心」と引きこもったり、「壊される前に壊してしまえ」と衝動的になったり、見せかけの人間関係を保つために嘘をつくことになる。
 冒頭の言葉を使って、払に説教していた親父の恐い顔を思い出す。決して「友達を選べ」と言っていたのではない。「模範となるような友達になれ」と言っていたのである。「約束は守れ」「嘘をつくな」。親の影響力はすごいもので、学生時代に約束をドタキヤンしたことは皆無だし、約束時間に遅れたこともほとんどない。しかし、性質が悪かったのは、相手がドタキヤンしたり約束時間に遅れたりした場合だ。10分待つことは稀で、5分遅れてくると1カ月は口を きかないという始末だから、今から思えば友人たちをビクビクさせたと反省しきりである。
「朱に交われば…」や「類は…」は、「悪い友人を持つな」という意味で使われることが多い気がするが、それは「善」より「悪」のほうが強い感染力を持つからであろう。確かに幼稚園児などは「悪い言葉」を覚えるのは早いと聞く。それだけ刺激的なのであろう。「良いニュース」よりも「悪いニュース」のほうが視聴率が高くなるのも同
じ理由だ。拝金主義に陥ったマスコミは、後者を優先する。
 今こそ「善」の感染力を強める時ではないだろうか。拝金主義を是とする一般企業がPRのために「CSR(企業の社会的責任)」などと言っても、空しく響くだけである。むしろ私は個人の
力に期待したい。読者の皆さん、これはという考えがあったらぜひ教えてほしい。

性善説ルネサンス⑤ 職業人としての「良心」「使命感」が必須となる

2006.4~2006.11

性善説ルネサンス⑤
職業人としての「良心」 使命感が必須となる

ぱんぷう

2006.8

日本医療企画


慶應義塾大学医学部の4年生を対象に、「医師としての判断・行動の際の心構え」をテーマとした3日間連続の集中講義と全員参加型の実習を11年間続けている。その実習では、実践さながらのきわどい決断のシミュレーションを行っているのだが、実習が進むにつれて医学生たちの目も真剣になる。講師の私だけでなく教室や私の事務所のスタッフも熱くなり、決して手を抜くどころではない。講義が終わると、主任教授らとともに反省会を開き、翌日の講義に備える。そんな熱心さが学生たちにも伝わるという好循環を生んでいる。

学生たちには講義ごとに感想文を提出していただいており、それを小冊子にまとめている。「決断できない自分を発見し、医師になるのが怖くなった」「医師の重圧とともにやりがいを再認識した」「早く医師になって今の気持ちを高めていきたい」「医療は不確実だからこそ、医師の良心が必要だと痛感した」など、率直な感想が多くて読みごたえがある。ベテラン医師向けに「初心忘るべからずバイブル」として売り出したいくらいだ。

医師の心構えの基本として「良心を持て」とよく言われるが、実際そのとおりである。学生たちとの実習を進めていくうちに感じるのは、彼らの多くが何らかの使命感を持って医師をめぎしているということだ。職業人としての良心を考えるとき、この「使命感」は必須である。受験勉強で成績が良かったから医学部へ進む学生が多い、と批判されがちだが、まんざらそうでもないと安心する。「医者になりたいから勉強したんだ」と言える医学生も多い。

先日テレビで、「ホスピクルクラウン」(病院内で患者さんに笑いを提供する道化帥)というボランティアのことを知った。アメリカの病院では多いらしいが、日本のプロの道化師が国内でその活動を始めたという。「どうして始めたのですか?」という質問に、「理論や具体的な計画というものはなく、人から命じられた使命とでも言うべきものに動かされたのです」と答えていた。私はそのような無計画な自然さにとてもリアリティーを感じ、日頃の私自身の活動に対しても勇気を与えられた気がした。

医師のみならず教育者や政治家などにも、それなりの使命感が行動の根幹にあるはずである。とは言っても人間は弱いもので、つい他人の眼や個人・所属団体の利害を中心に動いてしまう。しかしそこからは、決して他者の幸福どころか自身の幸福も生まれてこないことに、本当の知恵者たちは気づき始めたようである。利他の心こそ本物の利己につながるという、大きな哲学が生まれつつあると私はみている。

性善説ルネサンス⑥ 良心は幸福になるための必需品 自己のためにも利他主義であれ

 

2006.4~2006.11

性善説ルネサンス⑥
良心は幸福になるための必需品
自己のためにも利他主義であれ

ばんぶう

2006.9

日本医療企画


私は、医療活動の基本理念を「安心と幸福の医学」としている。そもそも医学の大きな目的のひとつは「医療に還元され役立つこと」である。それでは医療の目的は何か。「病気を癒すことによって人々に健康と安心を与え、幸せな生活を送ってもらうためのインフラ的役割を担うことである」と私は考えている。「健康であることが人生の目的」という人は、まずいないだろうから、良い医療が人生の目的になってしまってはいけない。また、一般にインフラは「便利」で「安心」であることが要求されるが、それらは幸せな生活に役立つように設計されている。こうした意味で、私は医療の仕組みを考える時に「果たしてそれは人間にとって幸せなことか?」といつも自問自答するようにしている。

残念なことに、今も世界中のいたるところで、人間同士が傷つけあっている。戦争に限定しなければ、もちろん日本も例外ではない。人間は自分の幸福を大切にする生き物であるはずだが、他人の幸福は目障りなのだろうか?

長年の主侍医活動や心理精神医療活動の経験から「しっかりとした良心や使命感を持たなければ本当の幸せは訪れない」と私は確信するようになった。「良心」とは、「愛情に基づいた義務感や責任感」、「使命感」とは、「自分の能力を利他のために捧げようとする義務感や責任感」と、私は定義している。

の中には人を欺いたり、陥れたりすることにより利益を得て、一見幸せになっているような人がいる。そこまで極端ではなくても、利他の心を忘れて自己利益・自己保身に走り、富や名声を得ている人も多い。しかし、その幸福そうな笑顔の奥底には空虚さが潜んでいる。もちろん彼らもそれには気づいており、だからこそ必死に富を守って、ゴージャスな生活でその空虚さを覆い隠そうとするのだろう。

先ほどの私の定義に従って行動しようとすれば、他者の幸せを願わない限り、自分にも幸せが訪れない---つまり、自己利益のためにも利他主義にならざるを得ないのである。実に分かりやすい話だと思うが、いかがであろうか?

性善説ルネサンス⑦ 扇動と洗脳

 

2006.4~2006.11

  性善説ルネサンス⑦  扇動と洗脳

ばんぶう

2006.10

日本医療企画


テロのニュースが世界中で相次いでいる。「物騒な話だねえ」と彼岸の話では済まされなくなっている。そもそも彼岸の話だからどうでもよいという類の話でもない。特に近年起こった「自爆テロ」は、全世界の人々を恐怖と不安に落とし入れた。他の動物もそうであろうが、人間にとって最も嫌なことは「不安」なのである。不安の余り、最後の選択肢である「自殺」をする人が後を絶たないのであるから間違いない。

自爆テロを実行する人を想像してほしい。それが正しいと信じ切っているのであろう。まさか脅かされているのではあるまい。自爆テロを実行した人は位が上がるというから、家族へのなんらかの補償などもあるのかもしれない。いずれにしろ本人は自分の行動が正しいと信じているのである。一般に他人に信じてもらうために、人はどのような行動をするであろうか?自己犠牲をしてでも人のために尽くす、誰が見ても誠意ある利他行動をする、あきらめずに熱心な説得をする---このような行動の前には、多くの人は納得し信ずるようになるであろう。一方、最近巷に溢れているような「人を納得させるテクニック」的なもので人を信じさせることもできるかもしれない。嘘をついて人をだますことも詐欺の手口であるが、信じ込ませることには違いない。「赤信号みなで渡れば怖くない」的に人を誘導するのは「扇動」と言えるかもしれない。

扇動とよく似たものに、扇動は一時的なものであるのに比し、洗脳は半恒久的な価値観や思想の強制的改造と言えるかもしれない。自爆テロという、想像するだけで恐ろしい行動も、洗脳により可能になるのである。扇動は大衆的なものであり、洗脳はそれよりも若干ソフィスティケートされた響きがあるかもしれないが、より深刻である。

心理医学の世界で「トラウマ」という現象がある。酷く嫌な体験をすると脳の一部に固定記憶されることである。覚えたいことはすぐ忘れるのに、皮肉なことである。トラウマはいわば自己体験による洗脳と考えると理解しやすいかもしれない。洗脳の怖さを垣間見るたびに「我、扇動されず、洗脳されず、他人を扇動せず、洗脳せず」とつくづく思う。さまざまな医療相談を仕事としている私は、誠意ある説得で何よりも大切な「安心」を提供することを心がけたい。

性善説ルネサンス(最終稿) 筆を折る

 

2006.4~2006.11

  性善説ルネサンス(最終稿) 筆を折る

ばんぶう

2006.11

日本医療企画


突然のタイトルに驚かれた方もいらっしゃるでしょう。継続して読んでいただいていた読者の方にご説明とご挨拶をいたしたいと思います。当欄のシリーズエッセイはまもなく10年目を終えようとしていたところでした。担当の編集の方も3代目になる長期連載となりました。10年間もお読み続けていただいた方は本当に数少ないと思いますが、長らくのご愛読に心から感謝申し上げます。

このエッセイでは「医者」という立場を離れて、自由に思いのたけを書いてよいというお許しを頂き、毎年ひとつのテーマを決めて、そのテーマに基づいたエッセイを12回一区切りとして書いて参りました。この毎年のテーマは、私自身にとっての「一年の計」どころか「一生の計」ともいえる言葉を考え、選んだり造語したりしたものです。私にとって最終的に大切なものは「こころ」である、という思いは募る一方で、昨年は「魂を売るということ」、今年は「性善説ルネサンス」をテーマに、人間心理の微妙なところに踏み込んできました。勿論、実体験に基づいたフィクションというものもあり、私自身も編集者も気を遣いました。実在する人物の中傷になったり、政治的宗教的批判になったりすることは本意ではないからです。このエッセイを書くために、日頃思いついたことを常にメモをし、マンネリ化しないように努力をしてまいりました。

前号は「扇動と洗脳」という難しいテーマを選んだため、新しい編集者と見解の相違が顕在化してしまいました。後ほど、話し合い「文章の内容をより引き立たせたい」という編集者の熱意であったことが分かりましたが、厳しいタイトルに挑戦し、魂を込めて書き大切にしてきたこのエッセイシリーズであっただけに、再び書き続ける情熱を呼び戻すことはできませんでした。今は、書きためた10年分のエッセイをまとめてみることと、別の場で続編を書かせていただくチャンスを待ってみようと考えています。

はなはだ回顧主義的になりますが、この10年間のタイトルのみをここでご紹介させてください。「温故知新」「正しい生き方から美しい生き方へ」「質実剛健」「少数精鋭主義」「常識に照らす」「吹っ切りのち復活」「一生懸命足るを知る」「グローバルより顔馴染み」と昨年、今年となります。読者の方には、本当に申し訳ありません。また、別の機会でお会いできることを楽しみにしております。

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