正しい生き方から美しい生き方へ

正しい生き方から美しい生き方へ① 感動ありがとう

 

1998.4~1999.4

正しい生き方から美しい生き方へ①
感動ありがとう

ばんぶう

1998.4

日本医療企画


日本中の皆が楽しみにしていた冬季オリンピックも終わってしまった。このオリンピックほど皆がテレビの前で涙を流したことは他にはないのではないだろうか。特にジャンプの原田選手は印象的である。一回目のジャンプが悪くハラハラさせておきながら、2回目は予想以上に飛んだ。本来なら安定して飛ぶほうが正しい飛び方であろうが、原田のようなほうが我々を楽しませてくれた。言うなればこちらのほうが美しく感じて我々が感動したのかもしれない。

 正しさは客観的だが美しさは主観的である。
最近はテレビをみても、新聞を見ても暗いニュースや腹立たしいニュースばかりである。そんななかこのオリンピックは夢と感動を与えてくれたから、「感動ありがとう」という言葉がよく聞かれるのである。「感動」も「ありがとう」も最近は縁が遠かった。「末は博士か大臣か」で、我々が子供の頃は夢を持ち、勉強もしたし、よく遊びもした。その子供たちの目標であった学者や医者や弁護士、政治家、官僚の実態がこんなにはずべきかたちで露呈してくる現在、子供たちは何を目標に毎日を過ごせばいいのか。刹那的になったり、おかしな行動をとったりするのは彼らの親や先生だけの責任ではなく、大人の社会全体の責任であろう。今こそ、本当の大人たちは美しい生き方の手本を子供たちにみせて上げる時であろう。

正しい生き方から美しい生き方へ② 性善説は時代錯誤か

 

1998.4~1999.4

正しい生き方から美しい生き方へ②
性善説は時代錯誤か

ばんぶう

1998.6

日本医療企画


物騒な世の中になった。ずいぶん前までは拳銃事件はアメリカの独占市場だと思っていたし、つい最近まで日本でも特殊な世界での事件だと思っていた。ところが気付かないうちに「拳銃事件」が毎日のように新聞の片隅に載っていることが当たり前のようになってしまった。
 僕は、ずいぶん以前から「エイズにしろ麻薬にしろ拳銃問題にしろ、彼岸の火事だと思っていたら大やけどをする」と、いろいろな機会をみつけては警告していた。僕自身、具体的に行動できるのはエイズの抗体検査の勧めと、自分の子供たちや身近な子供たちへ麻薬や暴力の怖さを教えるくらいだが、こういった小さい力が必要なんではないだろうか。しつこいようだが物騒で世知辛い世の中になったとつくづく思う。世間が一体となって「中学生は怖い」と言っている。
 本当に人間の心が変化して冷たくて残虐な人間が増えてきたのだろうか。僕は性善説で周りでは有名なのだが、ある友人に「性善説の人にとっては住み難い世の中になってきましたね」と先日言われた。動物の本性から考えると「快を求め、不快を避ける」「食べるために努力する」「自分を守るためには相手を攻撃する」などは当然、人間も持ち合わせている。しかし、人間にはその他に独特な大脳の働きがある。自分は空腹でも子供たちに食べさせるだけで満足を得たり、修業と称して不快なことに立ち向かったりするし、時には自殺もするといった不可解さを持っている。
 「正しさ」の価値観から「美しさ」の価値観へ移行することは、21世紀を豊かに生きていくためのスーパー人間への道なのかもしれない。

正しい生き方から美しい生き方へ③ 孔孟思想から老荘思想 その1

 

1998.4~1999.4

正しい生き方から美しい生き方へ③
孔孟思想から老荘思想 その1

ばんぶう

1998.7

日本医療企画


正しい生き方から、美しい生き方へのパラダイムシフトをテーマにエッセイを書いている。別に「正しい」ことが悪いといっているわけではない。むしろ正しいことは当たり前なのである。価値判断を「正しいかどうか」というよりも「美しいかどうか」という基準に置き換えていくことが、これからの成熟社会には必要ではないかと提案しているのである。これは、言い換えれば、これからは物事の判断は自分で行うことが最も大切だと言うことである。
 今までは、会社の方針だからとか、学校の先生がどうだとかを最優先にすることに身を委ねすぎて、自分で判断するという能力を欠如する人間が増えてきているような気がする。
 ある時、若者と年輩者のテレビ討論で、若者代表の一人が「僕って幸せなのでしょうか?」とまじめに聞いていた光景が印象に残っている。大人たちも同じである。「会社のため、家族のためと一生懸命働いてきましたが、自分の人生ってなんだったのでしょう」よく似た話ではありませんか。こんなことを考えていると、昔、国語の授業で習った「孔孟思想と老荘思想」ということを思い出した。孔孟思想は「義を見てせざるは勇なきなり」で代表されるように、上昇志向の自己実現探求型である。老荘思想は「主となるより客となれ」で個人主義的自己癒し型である。私の言う正しい生き方は、これすなはち孔孟思想であり、美しい生き方は老荘思想であるといっても的外れではない。
 次回に、このことについて掘り下げてみたい。

正しい生き方から美しい生き方へ④ 孔孟思想から老荘思想へ その2

 

1998.4~1999.4

正しい生き方から美しい生き方へ④
孔孟思想から老荘思想へ その2

ばんぶう

1998.8

日本医療企画


前回は、孔孟思想と老荘思想について少し話した。
 どちらがいいかという意味ではなく、人間で言えば若いときは孔孟思想を中心に、中年以降は老荘思想も取り入れるのが良いのではということになる。
国で言えば、発展途上国では孔孟思想で、日本のように成熟してくると老荘思想も大切になるのではないか。また、企業で言えば、前者が急成長型ベンチャー企業や増収増益企業であり、後者が昔ながらのお店や収益横ばい企業である。癌の治療で言えば、前者が手術や抗ガン剤、後者が免疫療法や東洋医学的治療にあたるのではないか。
 このように例えてみると、何となく理解されてくるのではないだろうか。最近、私の敬愛する人物の一人「手塚治虫」の書いた本を読んだ。その中の彼の言葉を引用させていただく。
「僕が未来は技術革新によって幸福を生むというようなビジョンを持っているように言われ、大変迷惑しています。アトムだって、よく読んでくだされば、ロボット技術をはじめとする科学技術がいかに人間性をマイナスに導くか、いかに暴走する技術が社会に矛盾をひきおこすかがテーマになっていることがわかっていただけると思います。」さすが大天才は洞察力があるし、どのような分野にいても、はっきりした哲学を持っているものだ。いつの時代でも大天才が世の中を救っていく。しかし、急成長してきた日本においては、天才の出現を嫌う土壌があることが気がかりだ。
 「足るを知るこころ」と「素直なこころ」が混迷する日本を救うキーワードと思われる。

正しい生き方から美しい生き方へ⑤ モラルール

 

1998.4~1999.4

正しい生き方から美しい生き方へ⑤
モラルール

ばんぶう

1998.9

日本医療企画


タイトルの『モラルール』は私の造語である。
 この言葉が生まれたいきさつをお話ししたい。先日、後輩でもある友人の奥さんと世間話が高じて「臓器移植の話」になった。というのも、「最近、不安や不満を訴える人が多い。」という話題からである。医療の現場で言えば、高度な医療が整ってきたのにも関わらず、現代人は昔の人にはないほど医療に対する不安や不満があるのは何故だろうか。「人の心臓をもらってまで生きたいと思うようになったからだよ」と私が言うと「先生、臓器移植に反対なのですか?」と真剣に驚いて聞かれた。「医師も患者も人間として道理にはずれないという保証があれば、そりゃあ臓器移植も我々人間の知恵の結晶の一つとして恩恵を享受できるけれどね。僕でさえ、最愛の女房や子供たちが移植によりのみ助かるとなれば、道理を守れるかどうか不安だよ。心臓移植はある意味では核技術と似ているんだよ。人間は神様のような絶対的な判断ができるものしか持ってはいけない技術をもはや開発してしまった気がする。パキスタンの核実験もそうだろう。」「そうですね。やはり使う人間の条件が必要ですね。パキスタンのようにならないためにも、力のある国が抑止しなければならない気がするけど…だから、ルールが必要ですよね。」「そうね、ルールという人が決めた規則も大事だけど、それは何が正しいか、ということになる。僕は最近思うのは正しい以前に美しいかどうかが大切なんだ。人間のモラルというか。そうそう、『モラルール』というのがぴったりかもしれないね。」…といったいきさつで『モラルール』という言葉ができた。
 政治家のみなさんにも是非使っていただきたいと念願している。

正しい生き方から美しい生き方へ⑥ 規則と道徳

 

1998.4~1999.4

正しい生き方から美しい生き方へ⑥
規則と道徳

ばんぶう

1998.10

日本医療企画


前回、『モラルール』という造語を披露したが、その後たまたま読んだ「子供のための哲学」(永井均著)という本のなかに、規則と道徳の説明があった。その中にも書かれていたことを私なりの例えで説明してみる。
 「公衆の場所にゴミを捨ててはいけない」ということを考えてみたい。このことは日本では規則でもあり道徳でもある。
では、なぜ我々は普通は道ばたにポイッとゴミを捨てないのか。一つめの理由は、それが規則だからしないということである。二つめとしてゴミを道ばたに捨てることはみんなの迷惑になるからしないと考えるからである。三つめとして警官や他の人に見られると叱られたり罰せられるからしないという立場である。ところが車の窓から空き缶やタバコの吸い殻を平気で捨てている光景をよく見る。では、何故彼らはゴミを捨てるのであろうか。一つは規則や他人の迷惑や懲罰を忘れつい無意識に捨ててしまう場合である。もう一つとして、そんなことはすべて承知の上で捨てる人である。そこで規則の面から見ると、ゴミを道ばたに捨てない人と捨てる人は歴然たる差がある。
 ところが道徳の観念から見ると、罰を恐れてゴミを道ばたに捨てない人は、人が見ていなければゴミを捨ててしまうかもしれないわけだから、これはゴミを道ばたに捨てる人の方に近い存在となる。私が言いたい「正しさよりも美しさが大切」というのはここにある。人が見ていなくてもゴミを道ばたに捨てる行為は美しいであろうか。自問自答したい。
 『モラルール』の起案者や発令者は自分自身の中にある。わからなければ何をしてもいいという恐ろしい考えが青酸カレー事件や車の塗装面によく傷をつけられるといったありふれた事件の基盤になっていると私は考えている。

正しい生き方から美しい生き方へ⑦ 良い「みんな」、悪い「みんな」

 

1998.4~1999.4

正しい生き方から美しい生き方へ⑦
良い「みんな」、悪い「みんな」

ばんぶう

1998.12

日本医療企画


「みんな、君のことを生意気だと言っているよ」「僕はいいけど、みんながねぇ…。」このような言い方をよく聞かないだろうか。また、よく言っていないだろうか。
 かくいう私も、なるべく気をつけているのだが、「そんなことをするのはみんなに迷惑だよ」などと言ってしまっている。「僕に迷惑だよ」と、ズバッと言えばいいのに。人間関係の崩れる原則に、「トライアングルの法則」というのがある。
 AさんとBさんがもめると、Cさんが、間に入り助けようとするが、今度はCさんとBさんの争いに形が変わっていくという単純な法則である。そんなとき「みんな君のことを…と言っているよ」的な言い方をよくする。
 私には楽しいテニス仲間が数十人いて、年に2,3回「Terra Cup」という社交テニス大会を開催している。その仲間のひとりが後輩を「是非仲間に」と連れてきた。彼の座右の言葉に「鶴でも恩返し」「先輩は死ぬまで先輩」などがあり、比較的彼は古風な考え方をしている。ある時、彼が連れてきた後輩に「君は若いのだから、ボール運びくらい率先しなさいよ」と注意した。数週間後、別の友人が彼に「あなたが、この会は、年功序列だと言っているが、みんなそれに反対している。」彼は晴天の霹靂で驚いたのだが、大切にしてきた後輩に裏切られた想いと、例の「みんな」という言葉に痛めつけられたのである。結局、「そのみんな」は、若干3、4名であった。この話の中には「似て非なる言葉のマジック」も含まれている。
 「目上の方を敬う」ことと「年功序列」とは雲泥の差である。さて、時には「良いみんな」もある。「みんな君を友人に持てて喜んでいるよ」なんと勇気づけられる言葉か。くだんの後輩の件で、心を痛めていた彼に、たまたま偶然に高校時代の友人から手紙でこの言葉が届いたとにこやかに話すのを聞いて安心した。 私には楽しいテニス仲間が数十人いて、年に2,3回「Terra Cup」という社交テニス大会を開催している。その仲間のひとりが後輩を「是非仲間に」と連れてきた。彼の座右の言葉に「鶴でも恩返し」「先輩は死ぬまで先輩」などがあり、比較的彼は古風な考え方をしている。ある時、彼が連れてきた後輩に「君は若いのだから、ボール運びくらい率先しなさいよ」と注意した。数週間後、別の友人が彼に「あなたが、この会は、年功序列だと言っているが、みんなそれに反対している。」彼は晴天の霹靂で驚いたのだが、大切にしてきた後輩に裏切られた想いと、例の「みんな」という言葉に痛めつけられたのである。結局、「そのみんな」は、若干3、4名であった。この話の中には「似て非なる言葉のマジック」も含まれている。
 「目上の方を敬う」ことと「年功序列」とは雲泥の差である。さて、時には「良いみんな」もある。「みんな君を友人に持てて喜んでいるよ」なんと勇気づけられる言葉か。くだんの後輩の件で、心を痛めていた彼に、たまたま偶然に高校時代の友人から手紙でこの言葉が届いたとにこやかに話すのを聞いて安心した。

正しい生き方から美しい生き方へ⑧ 「便利」と「手間ひま」

 

1998.4~1999.4

正しい生き方から美しい生き方へ⑧ 

「便利」と「手間ひま」

ばんぶう

1999.1

日本医療企画


先日、住宅関連の企業に勤める人たちを対象にセミナーの講師を務めた。
その時、同時に講師をされた東京医科歯科大学教授の藤田紘一郎先生は「清潔は病気」と寄生虫の人体への役割を説かれていることで有名である。藤田先生は、「清潔第一的考えは、人間の本来の抵抗力を阻害し、神様が与えてくれた我々の能力を阻害するものである」といった内容のお話をされた。私の医療哲学との共通点に深く共鳴したのであるが、私は自分の講演内容で「便利の追求は、我々人間の情緒を阻害する。住宅の便利な機能はたいへんありがたいが、どこかに不便なところを作って、味わいのある家造りをすることが、これからむしろ望まれるのではないだろうか」「超便利な住宅は正しい家かもしれないが、多少の不便というか原始的な部分があったほうが、美しい家といえるのではないだろうか」という話をした。
 炊事洗濯など家事にとって、最新の電化製品は便利で、時間の効率化にもなり、そういったことのおかげで余暇が生まれ、主婦にとって趣味などにも時間を割くことができるようになったことは、たいへん良いことである。
そうはいうものの、電子レンジで「チン」のレトルトよりも、手間暇かけてじっくり煮込んだ料理の方がおいしいし、作り手の愛情がジワッと感じられて心地よいものである。
 藤田先生はなにも「不潔」にしなさいといっているのではなく「清潔、無菌一辺倒では不自然ですよ」と警告されているのである。私も「便利一辺倒ではなく、時には手間暇かけることが大切」と言っているのである。これは特に人間関係に於いてもそうである。

正しい生き方から美しい生き方へ⑨ ウサギと亀

 

1998.4~1999.4

正しい生き方から美しい生き方へ⑨ 

ウサギと亀

ばんぶう

1999.2

日本医療企画


今年は兎年である。 例年のごとく私は年初に1年のテーマを考える。いくつか候補を考えた。最終に残ったテーマは「美しき停滞、着実な向上」、「利他のわがまま」、「謙虚な自信」などである。美しき停滞…では、語呂が去年のテーマと似ている。利他のわがままもいいな、と思ったが、最終選考に残ったのは(といっても自分で候補を出して、自分で決めるのだが)、「質実剛健」である。
 3年前は「地道、自道、滋道」一昨年はこのコラムのテーマでもあった「温故知新」、昨年は今のテーマである「正しい生き方から、美しい生き方へ」である。不況も定着してくるとそれなりに人々に受け入れられ、新しい感性を呼び起こしてくれる。ただしあのバブル華やかな時代とその残像が残っている時代からみて「新しい」と思われるのであって、落ち着いて考えれば、昔ながらの人間らしさが大切になってきているだけなのである。 昨年のクリスマスにしろ、このお正月にしろ、家族とともに静かに過ごした人が多かったと聞く。かく言う私もミニ引っ越しの片付けもあり自宅でささやかな日々を送った。そんなクリスマスの夜、ベランダの戸を開けると、どこからともなく賛美歌の合唱が聞こえてきて、これぞクリスマス!と静かに感動した。「何も特別なことはなかったけれど、今年のクリスマスとお正月は良かった」と妻はぽつっと言った。
 話は脱線してしまったが、このコラムではテーマはまだ、「美しい生き方」である。兎と亀の話を思い出すが、美しさで言えば兎に軍配があがるが、「質実剛健」でいけば亀に軍配だ。次点テーマの「美しき停滞」、「謙虚な自信」から考えて、また卯年も考慮して「兎の皮をかぶった亀」ということにしておくか。

正しい生き方から美しい生き方へ⑩ 相対価値感と絶対価値感 その1

 

1998.4~1999.4

正しい生き方から美しい生き方へ⑩ 

相対価値感と絶対価値感 その1

ばんぶう

1999.3

日本医療企画


いよいよこのテーマでの話題も余すところ2回になった。
続けてお読みいただいている方は既に美しい生き方を実践されていることと思われる。日本人は(ほとんどのアメリカ人もそうだと私は思っているが)これだけ豊かになったのに、なかなか幸福感が得られないのは、「絶対価値感」の欠如なんではないかと考えている。そしてまた、美しい生き方をするにあたってこの「絶対価値感」が必要だと私は分析している。
 最近、音楽家の間で評判になっている「絶対音階」を御存じだろうか。我々凡人は、ドレミのレはドとミの間であるということで表現できるが、単音を声で表現する時は、その度に微妙に(私の場合は「大きく」)周波数は違ってくる。5分前に声に出した「ド」と今声に出す「ド」は、その音階は微妙に違いぴったりとは重ならない。ところが天分の才能がある音楽家はいつでも同じ「ド」を表現できるし、認識もできるのである。同様に「絶対価値感」を「自分自身のなかに価値の尺度を持っていること」と私は定義付けている。
 逆の「相対価値感」を簡単に説明するならば「隣の人にくらべてうちは裕福で幸せ」「開発途上国にくらべて先進国の日本やアメリカの国民は幸せ」と感じることである。冗談ではない。開発途上国にも日本のお金持ちよりずっと幸福感を持って暮らしている人はたくさんいる。我々の日常を振り返ってみると、この「相対価値感」に振り回されていることのいかに多いことか。
 私は今「絶対価値感」を養うトレーニングの開発を考えている。「絶対音階」は天分で、訓練では養われないそうだが、「絶対価値感」は、後天的にもトレーニング可能ではないかと考えている。読者で良い方法を思いついた方は是非御教示いただきたい。

正しい生き方から美しい生き方へ⑪ 相対価値観と絶対価値観 その2

 

1998.4~1999.4

正しい生き方から美しい生き方へ⑪ 

相対価値観と絶対価値観 その2

ばんぶう

1999.4

日本医療企画


前回、相対的価値観から絶対的価値観へのパラダイムシフトこそが幸福への道であるというようなことを述べた。
 もうお気づきのように、正しい生き方は相対的価値観に基づき、美しい生き方こそ絶対的価値観に基づいた生き方なのである。他人が決めた法律に従う生き方が正しい訳で、自分の判断があまり全面に出ない。美しいかどうかは多分に自分の判断が必要になってくる。「人をたてれば蔵が建つ。隣に蔵が建てばあたしゃ腹が立つ。」という言葉を最近、耳にした。まさに相対的価値観に振り回され、苛まされる我々凡人の絵模様ではないだろうか。

 人間の醜い心の中でも、「ねたみ」というのは特に醜逸(私の造語)である。かのキリストでさえ「汝ねたむ無かれ」とさとしたわけだから、昔からあった世界共通の感情なのであろう。我々人間を苦しみに導くものであることは間違いない。他人を苦しめるのではなく、ねたむこと自体が自分を苦しめるのである。十分な文明に満たされた日本、いまこそ心の平和を求めて自分自身を解放したいものだ。
 このタイトルでの最終回はなんだか宗教の時間のようになってしまったが、みなさんへの説教ではなく自分自身への問いかけでもある。日常を振り返ってもなんと相対的価値観で判断していることの多いことか。でも、言い訳じみてはいるが、「勝った、負けた」のような煩悩も、我々凡人にとって時には生きる糧にもなるのかもしれない。絶対的価値観のトレーニングをしようと前回言ったが、絶対価値観を悟りきると、もうほとんど神様なのであるから、「まあ、人生何事もそこそこ70点」が美しいのではないだろうか。

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