Home

ちょっと一言

1  2  3

TERRA信頼医師団応援します。すべては患者のために。

2016年01月13日

私は30年あまりもの間、医療分野の意思決定を支援することを任務として活動してきましたが、そのために大切な要素は二つあると思っています。一つは自らが医療判断医として、クライアントの訴えを詳細かつ丁寧に聞き取り、不安の核心に迫る技術と知識と熱意と誠意を持つことです。そして、もう一つは実際に治療を担当してくれる専門医の方々と親密かつ適度の緊張感を持って共同診療にあたれるような関係を維持していくことです。この二つを磨くことが、クライアントである患者さんの安心と納得を得るために不可欠なものとなっていますし、自らの活動を振り返り苦労はしたけれど自負できるところでもあります。

このような活動の中、素晴らしい医師たちと出会ってきました。日本の医療はこのような人たちで支えられているのだなあとつくづく思います。医師の中で、実際に医療の現場で汗水流して直接患者さんに貢献している人たちの割合が問題だと考えています。研究や教育の仕事を中心にする人も必要でしょうし、管理職や行政の一員として医療の品質を総合的に高めていこうとする人も少数ながら必要でしょう。しかし、そういった意識の薄い権力とお金しか興味のない人も少なからずいることは結構問題です。また現場でも、金儲けの手段としか考えないような医師もいるでしょうし、勉強不足の医師もいます。また医師免許を持ちながら、医師を辞めていく人も少なからずいます。こういったことが「医師不足だ」「いや医師の偏在だ」とか「勤務医は過酷な労働だ」「開業医はまともに医療をやっていると成り立たない」などの声を反映しているのかもしれません。

何かを良くするのには二つの方法論の方向性があるでしょう。「悪いものを無くす」のと「いいものを増やす」という単純な話です。

マスコミ的には前者の方法論を取ることが多いですが、時には正反対の極論として「神の手」「行列のできる医者」「予約の取れない医者」のようなバラエティー番組を展開します。どちらも困ったものです。まっとうな医師たちは「バラエティなどのテレビに出る暇」はありません。テレビに出る暇があれば、行列に並ぶ患者さん、予約の取れない患者さんを一人でも丁寧に診てあげた方がいいに決まっています。

そんなことを考えていると、「信頼できる医師の信頼している医師は信頼できる医師」という、何やら早口言葉のような言葉が浮かんできました。今まで私の患者さんたちがお世話になった素晴らしい医師たちを「Terra信頼医師団」として、お礼の気持ちとこれからの任務として広めていこうと考えました。
人は、いい模範を見ると自然と真似したくなります。逆に悪貨は良貨を駆逐します。それなら駆逐できないほどの量と質の良貨があればいいと考えました。

よく医師を評価するときに「医師としての能力」と「人間性」の両方が大切だと言われます。「能力」の関しては理解がしやすいでしょう。「技術が高くや知識が豊富であることは良いことだ」に異論はないでしょう。その他「肩書き」「学歴」もある程度は「能力」を反映しているかもしれません。問題は「人間性」の評価の方です。一言で言うとたやすいのですが、その評価は難しいです。難しすぎます。私の仕事で、専門医を紹介するときに、患者さんは「能力」の高さを求めるのは当然ですが、人間性については「優しい人」「一生懸命な人」などと要望されるのですが、個別の場合は、結局は相性みたいなものを大切にしています。一般論で「人間性」というのを説明するのは難しいのですが、私は「熱意」と「誠意」に分けて考えています。「熱意」は文字通り「熱く燃えたやる気」のようなものです。しかし、その動機にはいろいろあります。出世やお金が動機になる人もいれば、使命感で燃える人もいます。名誉やプライドで熱意を燃やす人もいるでしょう。いずれにしろ「やる気満々」なことはいいことなので、あまりその動機を追求しないようにしています。問題は「誠意」です。こちらの定義としては、患者さんとの間の個別なものと考えています。簡単に定義すると「面倒であったり、自分に若干不利益なことであって、相手のために真心で尽くす」ことです。こうなると「熱意」の定義とは異なってきますし、患者さんとの関係性においても、多少は揺れ動きます。人によっては大きく揺れ動くこともあります。「能力」「熱意」はその医師にある程度固定したものですが「誠意」を引っ張り出すには、半分は患者さん側にも責任があることになります。医師といえども一人の人間ですから、患者と医師も人間関係のひとつ、お互い誠意を持って接することが大切となります。私たちは、そういった気持ちで、日々「医療決断支援」という仕事をしています。私の信頼医師団の医師たちは、「誠意」を豊富に持ち合わせています。それでも患者さんの対応次第では、引っ込んでしまうこともあります。患者さん側の誠意をきちんと専門医に伝え、専門医の誠意を引き出し、それをきちんと患者さん側に伝えるのです。誠意をまったく持ち合わせていない人は、ほとんどいません(と思っています。例外はいるでしょうが)

「誠意ある医師を応援することにより、誠意ある患者さんを支援する」
私の事務所の合言葉です。

▲ページ上部へ戻る

天職を支える心持ち

2015年09月07日

物事を、いろいろ考え尽くしていくことは面白い。人間のみに与えられた特権かもれない。

だからかもしれないが、最近「稼ぎ方マニュアル」関連の本に隠れながらも「なんとか哲学」やら「幸せの考え方」的な本も平置きの本の中に散見されるようになってきた。個人的には、楽しみな傾向だと思う。「なぜこうなんだろう」と思ったら、科学者は実験を繰り返し、真実を追求していく。本当はどうなっているのか知りたいから。「知りたい」という要求も、人間の本能と言えよう。科学万能主義では、実験も大切であろうが、「思いを馳せる」というやり方もある。想像する、空想する、推定する、仮説を立てる、などいろいろあろう。医師の世界では「空想で診断治療されたらたまったものではない」とお叱りを受けるだろう。当然である。しかし、医学的な現象を解明するにあたって仮説が必要なように、医療の仕組みを考える上では空想や想像も必要な要素だと思っている。人にとって幸せを担保する医療とはなにか、と考えなくてはならないからだ。

子供に「大人になったら何になりたいですか?」とよく聞く。「野球選手がいい」「お医者さん」今時は「俳優さん」「ゲームの達人」などと答える子供たちもいるだろう。「どうして?」と聞くと、様々な答えが返ってきます。
自分の職業や周りの人のことを想像してみた。その結果、仕事への思いは「人々に安心を与える」系のものと「人々に喜びを与える」系のものと、「自分自身の安心や喜びのために」系の3軸の要素があると考えてみた。別の軸もあるかどうかご意見をいただきたいところだが。
僕の医師という仕事の主軸は「人々に安心を与える」系であることは間違いないであろう。なるほど、僕は生まれ変わったら、また医師になろうとは思わずに、「芸術家」や「建築家」や「映画監督」、「料理人」もいいなあ、と友人に話す。これは、「安心を与える」系から「喜びを与える」系への転向を考えているんだなと自己分析している。
勿論、この3軸のどれが良くてどれが悪いという話ではない。芸術家の中では、もともと「自分自身の安心や喜びのために」系から志したが、結果として多くの人々に「喜びを与える」ことになるケースが多いであろう。問題は「自分自身の安心や喜びのために」系の中に、金や権力の亡者となったり、強盗やコソ泥や殺人者まで混在発生することである。反社会性人格障害者や一部の自己愛人格障害者によるものであろうが、軽症の場合は、身近にいる「嫌な奴」というところであろう。物事には程度というものがあり、ある意味では「量」は「質」をも変えてしまうことは道理でもある。

みなさんも、自分の仕事や人との付き合いなどで、自分の軸を考えてみてはどうだろうか?人生とはなんであろうか?自分はどこに向かっているのだろうか?答えは出ないだろうが、いろいろ考えてみるのも楽しいものである。知りたいという欲望は、人間特異のものかもしれない。

▲ページ上部へ戻る

東大教授汚職事件に思う

2013年07月26日

今日の新聞やテレビのトップニュースに現職の東大教授の汚職事件(横領?)が取り上げられていた。
国民のみなさまも、「またか!」とお偉い人の汚職に対して、さほど驚かなくなったのではないだろうか?
事件自体も嘆かわしいし、驚かない国民にもなんだか物悲しい感じがする。

僕の今年の年賀状やこのブログなどでも、今後「幸福論思想家」を目指すと、豪語したのだが、思想家は実社会の現場を離れてこそ自由にものが言えるし、言った事に自己の損得と関係ないことが明白な立場が説得力に於いても大切だと思っている。しかし、僕の「医療分野の監督相談役」としての主侍医稼業はそう簡単には終了宣言できない。だったら、今の務めを行ないながら、言える範囲だけでも言いたい事を発信していくこともありかと思っている。

今回の事件は、単に悪い人間がたまたま大学教授になったのではなく、構造的問題が今の大学内には蔓延ってきていることがそもそもの根本的問題だと僕は思っている。僕が大学にいたころも悪徳教授はしっかりいたし、それにごまをする悪徳な取り巻きもいた。しかし、周囲の真っ当なアカデミックな人々は、そのことを認識していたし、自分はあのようにはなりたくないと思っていた人は多かった。

しかし、現在の大学はどうだろうか?「いくら国家の繁栄は経済の発展があってのもの」という名の下に、大学のアカデミズムは消えようとしている。大学内でさえ、ほとんど全ての活動が経済的価値の指標で測られる。日本においては、東京大学はアカデミズムの中枢であるべきだと言ってもそんなに異論を唱える人はいないだろう。勿論関西に京都大学あり、九州、東北にであるが、少なくとも日本を代表するアカデミズムの殿堂である東京大学の中には、企業があまりにも関与しすぎているように僕には思える。医学部にしてもそうだ。東大病院も独立採算であるべきだという真っ当そうな批判のもとに、売り上げを意識した病院運営を余儀なくされたし、運営側の責任者もそれをよしとして、売り上げ(だけでなく経営という視点を重視するということだが)向上に悪戦苦闘した。それを成し遂げた人にそれなりの賞讃が与えられた。

しかし、僕にはなにか違和感を感じざるを得なかった。日本を代表する病院として東大病院を考えるなら、独立採算を最重要視するのは得策だろうか?しかも、どのような技術料も同等に評価する国民皆保険制度のもとに於いてである。それを成し遂げたとしたら、その経営陣は大学の中枢においておくよりも、どこか大企業の社長になった方が向いているくらいの人材ではないだろうか?
すぐには採算が取れないが、未来の重要な技術になる可能性を研究したり、また永遠に採算など取れないだろうが、人類の未来に何らかの貢献をするかもしれないことや、ただ人間にとって興味のあるだけの事などを、損得抜きで研究するのが大学の、少なくとも国家の中枢的存在であるような大学の役割ではないだろうか。そして、その研究をしたり教育したりすることに一生を捧げたいと思うような人が大学に残って研究する学者になっていくのが真っ当なのではないだろうか?国家としては、そんな研究をする大学を全面的に支援し、報酬はさして多くはないが名誉と自分の知識探求欲を満たして満足するのが大学者であり、それ故に尊敬もされたのである。


ところが、現状の大学者をみてみると、少なからぬ人たちがお金に大きく関与している。新しい発見をしてベンチャーする事に(のみ)生きがいを見いだしている人がごまんといる。そして、本日の汚職教授のように、お金と結びつく研究をしている人を羨ましく思い、自分もそれを目指してしまう。最近では、企業と組まない大学研究者は稼ぎが悪いと肩身が狭い。医学や工学系ではそれが顕著で、文学部などはそれこそ大学学部のマイナーになりつつある。もともと文学部などはオリンピックで言えば、マラソンなど花形である(と僕は思っている)。オリンピックが、ゴルフやテニスや野球が中心になったらもはやオリンピックという「人間の肉体の極限を競う」という趣旨から外れて「いかに観客を集めスポンサーを集めるか」という興行的なものに陥ってしまう。それなら「ワールドカップ」や「全米オープン」などと同じになってしまうし、その傾向もちらほらでてきたのではないだろうか?ただ4年に1回しかないという特徴があるから貴重だとなってしまうだけであろう。
大学も同じである。実践利用されてなんぼのものと競うだけでは、企業内研究室と変わりはない。100M走の0.01秒なんてどうでもいいような事を競ってこそオリンピックなのである。少し前「(大型コンピュータの性能が)どうして1番でなくてはならないの?」ととぼけた(と僕には思えた)質問をした政治家を評価した風潮があったが、それでも一番を目指すところが大学の研究であって、企業なら当然「歩留まり」のほうが大切である。このように、企業家からみてくだらないと思えるような事を、綿密に飽きもせずに続ける事が出来るのが大学者の本来像ではないだろうか?

特殊で過激な意見を述べたように思われるかもしれないが、その底辺に流れる思想は、普通の当たり前の事ではないかと思っている。今後、「幸福論思想家」の端くれとしては、「ほとんどの社会活動には、幸福論的グランドデザインが大切で、例外は純粋な大学での研究テーマや芸術活動くらいではないだろうか?」と思っている。
東京理科大の理念に「科学は良心に向かう」という言葉をみたが、まったくその通りだと思う。核爆弾は科学の成果ではないという事である。
ながなが書いたが、本日の汚職教授のような人が現場では歓迎され、大学内でも評価されているのが現状で,氷山の一角のような事件だと思えるということである。もっというなら、犯罪かどうか以前の問題で、すべて目に見える目先的経済的効果のみで判断する大学研究の傾向に警鐘を与えた事件となれば幸いである。

テレビをみればAKB、大学をみればベンチャー起業、少し頭が良ければインベストバンクで大稼ぎ、大企業の役員報酬は億単位が当たり前、本屋の店頭では「年収**万円で億を稼ぐ方法」などの本、なんだか金儲けを制したものが世の中を制した気持ちになってしまう世の中、これって面白いでしょうか?夏目漱石も芥川龍之介も決して大金持ちではなかったのにあこがれたなあと嘆く僕は変でしょうか?
稼ごうとする気持ちを批判はしていない。むしろ良いことだと思っている。しかし、「量は質を変えてしまう」と僕は思っている。行き過ぎた世の中を変えていける若者の活躍を期待したい。面白い世の中建設のために。(2013/7/26)

 

▲ページ上部へ戻る

医者選び相談センターオープン

2013年06月14日

「どの病院の、どの専門にかかったらいいか?」「出来れば具体的にいい先生を教えて欲しい」

毎日のように、友人からこのような相談を受けます。主侍医としての徹底的な相談とその上での見立て、最適な専門医を選定して、あらかじめそのドクターに連絡するという医者仲間では「未曾有の手間暇」と賞讃(あきれかえってですが)される割には、評価されにくいビジネスモデルを実践している我が身に取っては、単に気軽に知り合いの専門医の名前をほいほいというのも気が引けますし、事務所の主侍医倶楽部ゲストの料金を提示するのもっと気が引けてしまいます。「だからお前は商売が下手というより、そもそもできないんだ」と仲間のビジネス成功者から馬鹿にされます。

僕だけでなく、個人の医師として、友人からこのような相談を受ける仲間は多いのですが、「一般人は、医者は何でも知っている、どんな専門医へも紹介できると思いこんでいるようだ」「自分のそれなりの地位を(妻の)友人のために振りかざすのも良くない気もするので、これからは無理だよ、と言ったんだ」などとの嘆きの声をよく聞きます。

「それでもなんとかしたい」と思ってしまうのが僕の悪い癖とはしりつつ「多くの仲間の方々の要望に可能な範囲で応えてあげたい」と思い、医者選びの相談を無料でやってみよう、と決意しました。そうすれば僕や仲間の医師へのそういった相談を一手に受けることが出来ます。そして、その場で、私どもの考えている患者と医師の関係が上手くいく仕組みについてみなさんに理解して頂くための広報センターとしての役割を果たせばいいと思いました。

無料とは言っても、相談だけでなく、専門医を指名しての紹介状作成を希望される場合は、その実費を頂くことになります。

私どもの事務所と飯田橋駅の中間にある本センターでは、7月1日より専門スタッフ(看護師、保健師など)が常駐していますので、お気軽にお立ち寄り下さい。
私どもが30年にわたり築いてきた、専門医ファイルに基づき専門スタッフご相談にのっています。

▲ページ上部へ戻る

もっと多くの人に主侍医サービスの安心を!

2013年02月04日

若干敷居が高く閉鎖的でもあった「主侍医倶楽部」の安心を多くの人に提供できるサービスモデルを作ることが目下の関心事です。

主侍医倶楽部の20数年の経験を活かして、ある程度内容を絞ることにより提供側の必要コストを下げ、また提供可能な人材の育成も実現性の高い仕組みを作ることを意識しています。

まずは友人知人の方に「主侍医倶楽部ベーシック(人間ドック管理型主侍医サービス)」への参加を呼び掛けます。また、既にお付き合いのある法人の方にSOSサービスの法人契約をお勧めします。いずれも内容からすると超リーズナブルだと自信を持っています。これらにご参加の皆様と主侍医倶楽部会員のみなさまに、これからのの目玉と考えている「スーパー医局」によるスーパーコンサルテーションサービスのご案内をしてまいりたいと考えています。

健康を真剣に考えている友人知人のみなさま、いち早くのご連絡をお待ちしています。

▲ページ上部へ戻る

デジタル時代の恐怖

2011年08月24日

私どものホームページが、この数日アクセス不能になったお詫びをトップページで申し上げましたが、その原因について判明したことで、いろいろ思うことがありお伝えしたいと思います。このホームページは、友人がボランティアとしてご努力いただくことにより成り立っています。そしてメンテナンスは、その方のお力を借りながら私も含めてスタッフが行なっております。いわば手作りのホームページです。私は、多少こういったことに詳しい方ですが、勿論素人です。ホームページを作るには、それを置いておくサーバーが必要ですし、アドレスを管理することも必要です。たいていの場合は、それらを代行する会社に依頼します。簡易な場合は、それらがセットになっています。つまり一つの会社と一つ契約をしていればいいわけです。我々のホームページは、旧来のものも裏側に存在したり、多少複雑になっています。レンタルサーバーとアドレス管理は同じかと思っていたら、同じ会社だけど部門が違ったようです。しかもその管理費を年間払いします。数ヶ月前と数日前に期限切れの警告メールがきます。今回はレンタルサーバーの会社(H社)から8月末で期限ですというメールが着ました。気がついてよかったとひやりとしましたが、私がネットで送金し、ことなきを得たと思ったその日の夕方から不通となったわけです。H社からは「入金確認のお礼メール」が届いています。私はこのH社がホームページの管理の全てだと思っていましたから、訳が分かりません。おまけに私どものアドレスでアクセスすると、怪しげな画面が出ます。「関連検索」「スポンサー企業」とのタイトルで、商業的美容外科など商売的医療を全面に打ち出したような名前がずらりと並ぶ、もっとも苦手とし私どもの事務所のポリシーとはかけ離れたような画面がしつこく出てきます。早くなんとかしなければと焦って、ボランティアの友人の手も借りながら調べました。この嫌な画面には「MMドメイン社」の名前があったので、H社とともにメールにて問い合わせしました。電話での問い合わせが出来ないからです。返事は、まったく機械的なものでした。いろいろ調べた結果、アドレス管理費は、同じH社でもMM部門が管理していて、別に支払うことになっていることが判明しました。年間950円という費用です。それが8月21日で期限切れだったわけです。お知らせメールが届いていたのか、大変な努力をして調べましたが見当たりません。その原因もようやく判明しました。MM部門への登録とH社への登録と2種類あり、前者に登録していたアドレスが古いアドレスのままであったのです。メールが届かないなら、そういうときのために住所や電話番号など個人情報を登録しているのではないのか?という問い合わせには返事もいただけませんでした。自己責任で管理しなさい、ということでしょうが、ネット社会のこの世の中、あちこちでメールアドレスなどを登録していて、こういった失念はありえます。提供する側のプロのシステムにはそれをカバーする優しさが欲しいと思うのですが、そんなことを考えていたら薄利多売の商売がなりたたないのでしょう。

いずれにしろ、ようやく原因が分かり950円を振り込みました。しかし、半日しても回復しません。一部の地域では回復していたようです。世界中にあるアドレスを管理するポイント(DNSといいます)によりタイムラグが生じるということです。こんな面倒なことになるのに、1日たりとも期限が切れると、連絡の努力もせずに回線を切ってしまう冷たいシステムに驚きました。

このように、ネット社会ではまるで血の通わないロボットのような仕組みが働いています。そしてその仕組みを理解できない人々がほとんどです。情報操作はもしかすると今までのテレビなどのアナログマスコミより危険かもしれないと今回の事件を通じて思いました。

それにしても私どもの「主侍医倶楽部」のサービスは、世界中のあらゆる倶楽部サービスで最高の親密丁寧さだなあと思いました。全てのメンバーの顔パスどころか声パスといってもよいほです。超一流のゴルフクラブでもありえません。有り難いことに「そんなことでは商売にならないでしょう」とクライアントの方々から逆に心配されています。 私のこれからの役割は、こういった誠意と熱意を込めても発展的な(緩やかな)ビジネスモデルが成り立つことを示したいと思っています。

▲ページ上部へ戻る

脱原発と原発依存についてのテレビ討論にがっかり

2011年08月08日

数週間前になってしまったが、標記の件について、経済界の重鎮たちが討論をしているテレビ番組を垣間見た。経済界の重鎮対象のアンケートだから、脱原発賛成数が過半数となっていたのはやむを得ないという印象を受けた。そして脱原発反対論のコメントの多くは、企業の利益を守る立場だから当然と言えば当然かもしれないと一定の理解はできた。もっとも僕の目にはそれらのコメントは自己利益優先の了見の狭いものに映り、もっと大局的な視点を持った人こそが大企業のトップに欲しいものだと痛切に思った。しかし、最も許せなかったのは、得意顔で「脱原発当面反対、将来的には賛成」と尤もらしい意見を言った人だ。どこの会社かはあきれ果てて忘れてしまった。自分では正義の味方よろしく、または中立を意識した良識人とでも思っているのだろう。その偽善的コメントからは「自分が社長の間は、原発がなくなると困るが、その後は良きに計らってくれ」という内容にしか汲み取れなかった。「今すぐ無理でも、脱原発を目指すべきだ」という考えなら、素直に「脱原発賛成派」となるのがまっとうな意思表明の仕方である。こんな似非(えせ)人道主義に騙される国民も悪いのだが、このようなタイプの人が選挙に立候補してそれなりの支持を集めるから驚きだ。それに比べると、管総理が思わず自分の意見で「脱原発」を表明したことのほうが、人間としてより信頼できるくらいだ。勿論、一国の総理としての手順を踏む必要はあったのだろうが。

とにもかくにも、前回書いた「縮退」現象の張本人のような人々に振り回されていると、世の中は破滅に向かってしまうと憂慮している。

 

▲ページ上部へ戻る

「縮退」現象について

2011年08月08日

僕の医師仲間はまっこと多彩なのですが、その一人に小池弘人ドクターという方がいます。小池先生は東京四谷で統合医療を自ら実践されています。つい先日、先生の近著「統合医療の考え方活かし方」という本をご恵送いただきました。この本の中に、先生が統合医療に至った経緯は詳しく書かれています。

読み進めていくと、医療の底辺を流れる本質がちりばめられていると思いましたが、中でも「縮退」という概念を引用されている一文に目も心も止まりました。「一部の人やものの間だけをお金やものが循環しつつもだんだんと狭い場所に集中して早く回っていくさまを、物理学者の長沼伸一郎先生は「縮退」と呼んでいます」これは引用の引用となってしまいましたが、意味深い解釈だと思います。小池先生は、あらゆる分野で縮退が生じていると言及されています。僕も全く同意見です。世の中はこのとてつもない「縮退」と呼ばれる危険領域に向かって加速している恐怖を感じています。いつ破局が訪れるのか?原発事故などもこの一つではないでしょうか。

この本のメインの主張のひとつに「統合医療ではきづきと覚悟が必要」と書かれています。僕のライフワークである「医療判断学」も同じだと思っています。何事もいいとこ取りは出来ませんから「覚悟」が必要でしょう。物事を判断して決断していくリーダーにこそ「最高に厳しい覚悟」が必要なのに、日本の政治家も大企業のトップたちをみていて「覚悟」が出来ていないさまが情けなく惨めっぽく感じるのは僕だけでしょうか?

この本の中でもうひとつ「部分を集めると全体になる」という要素還元主義への批判が書かれています。「良い部品を集めるだけでは決して素敵な車は作れない」とカーマニアの僕が昔から主張していたこともそうでしょうが、医学や政治判断などシビアな分野では特に大切な基本的心構えだと思います。

▲ページ上部へ戻る

東日本大震災に教えられたこと15 日本は二つになってしまった

2011年04月27日

「頑張ろう日本。日本はひとつ」というかけ声に水をさすような題名を付けてしまったが、おおよその日本人は、そのように感じているからこそ「日本はひとつ」と叫んでいるのでしょう。でも、現実は「被災者」と「非被災者」という厳しい2極化をしてしまったと感じているのは僕だけではないでしょう。勿論、「明日は我が身」かもしれない運命の厳しさは誰にでもつきまといます。被災者の方々にとって「日本はひとつ」とただ叫ばれても複雑な思いを持つのではないでしょうか。

震災前の不景気を評して、「上流社会と下流社会の2極化」も言われていました。こういった大きな2極化が好ましくないということから、今回も「日本はひとつ」というムードをかもし出したいと多くの人が思っているのでしょう。

僕自身の考えもこういった2極化に憂慮しています。文明が発達しすぎて、経済活動も複雑化のあまりの単純化現象を起こし、「勝ち組」と「負け組」がはっきりしてきました。それが「上流社会」と「下流社会」にそのまま翻訳されそうになっていたのです。そうなると、経済活動の勝ち組は、少し知恵を巡らした「搾取組」が「勝ち組」であり、それ以外は「搾取される組」または「経済的裕福に価値を認めない人々」が「負け組」となる2極化が加速されました。企業家のみならず、スポーツ選手、医師や弁護士、芸術家の領域までそういった2極化が進みました。「大量の利益を出すか出さないか」「賞金を稼ぐか稼がないか」「神の手かそうでないか」「絵の値段が高いか安いか」

なんとつまらないことでしょうか、と僕は思います。

では「みんな一緒のひとつ」がいいかというと、それもつまらないでしょう。僕の考えは「緩やかな若干複雑な多極化構造が人間として面白味がある」ということです。僕は建築物を見るのが好きですが、前にも書きましたように、「バカの一つ覚えの高層建築の乱立」には辟易としています。

話しを元に戻しましょう。まことに遺憾ながら「被災者」と「非被災者」の二つに分かれてしまった現在、それぞれの出来ることは違います。それぞれの立場で、日本を復旧(東日本を復旧し、日本人のマインドを復興)していくことに貢献したいという思いは強いのだと察します。そのためには「非被災者」こそ、この二つに分かれた運命を認識し受け入れ、過剰に怯えたりするのでなく、一時的な高揚での一時的ながんばり活動ではなく息の長い日常への思いを育むことが必要だと自分を戒めています。「被災者」の方々は、否応なくそして立派にその歩みを既に始めていると僕にはそう感じています。

▲ページ上部へ戻る

東日本大震災に教えられたこと14 孫さんも続きました!

2011年04月04日

有名スポーツ選手に続き、ソフトバンクの孫さんもさすがの「私的100億円寄付とこれからの役員報酬全ての寄付」を発表しました。こういった輪が広がることが復興のマインド的な好影響があるでしょうし、経済の活発化にとっても重要でしょう。経済的に2極化が進むと、ますます消費が滞ることが予測されますが、こういった形で富裕層の不活動貯蓄が放出されていくことはたいへんな経済効果があるでしょう。現在の企業活動で成功者を自認する人は、孫さんに続いて欲しいと思います。孫さんとは昔何度かお目にかかりましたが、今後の日本のためにもボランティアで是非主侍医を引き受けたいものだと思います。

▲ページ上部へ戻る

東北関東大震災に教えられたこと13 隣人と力を合わせなさい!

2011年03月31日

被災者の方々の様子を拝見していると、頭の下がることばかりです。東北地方の人々の素晴らしさは、今や世界的な評価です。しかるに、我々東京人等、非被災者は全く評価されていません。むしろ買いだめや、エネルギー過剰消費で冷たい視線を浴びているくらいです。被災者の方々をみていると、悲惨なめにあっているのに譲り合ったり、助け合ったりしているのがごく自然に映ります。我々東京では、マンションの隣に住む人の顔も知らなかったり挨拶さえもしません。これでは助け合うどころではありません。ある防犯学者は「近隣の人たちが顔馴染みであることが、最大の防犯につながります」と話されていたことを思い出します。身近な人々と助け合い、喜び合うといごく普通のことを忘れ去ってしまっていたのではと深く反省しています。

身近な人から信頼の輪を広げることは医療の分野でも大切だと痛感しました。

▲ページ上部へ戻る

東北関東大震災に教えられたこと 12 遼君ありがとう!

2011年03月31日

このシリーズ第5回目に「石川遼君、昨年の稼ぎをみんな寄付してはどうだろうか?」と提案しましたが、まるでそれに呼応してくれたかのように、昨日、「今年の全賞金を被災者のために寄付する」と宣言してくれました。日本を代表する人気者が率先して、若干の(?)自己犠牲を伴った支援をする模範をしくれた意義は大きいと喜んでいます。イチローはいつもながらいち早く名乗りをあげましたし、松井も続きました。

実業界ではあまり出現しないのは残念です。庶民から稼いだお金を元に政治家になろうとしている人もいるようですが、偉そうなことを言っているようでも何もしない。そんな人の選挙スローガンはやはり驚くほど稚拙です。もし、都民がそんな者を選ぶようなら、東京に三くだり半を差し出そうと密かに決意しています。

僕など庶民の間でも、今回の義援金への参加の多さには驚きますが、残念ながらインパクトは小さい。我々小額の寄付しか出来ない者にとって、額の問題ではない、支援の気持ちを実行する意義は大きいのだと自分を慰めるのですが、、やはり国民的英雄が模範を示すことは影響力が段違いです。言わして頂ければ、多少の贅沢をする以上の稼ぎはこういった時に使うためにあるのではないでしょうか?

日本は、通常においても大型の寄付行為が少ないと思っています。だからこそ所得上限論を主張しています。日本人は稼ぐのが好きだが、使い方が全くもって下手でだらしない、と日頃から感じています。どれくらいの資産を持っていれば老後が安心で、どれくらいの遺産を子供たちに残したいというのでしょうか?いくら残しても子供たちは幸せになりません。多くの実例を目の当たりに見てきました。それよりも、美しい使いっぷりを子供に見せてあげた方が、よほど子供たちにとって幸せなことでしょうか?

老後の不安のための過剰な貯蓄には、我々医療関係者も責任の一端があります。北欧等に比べて、日本の福祉の量もそうだが、質の低さがそうさせているのです。不安だから過剰な反応をするのです。買いだめや風評行動も同じでしょう。

お金がそうそうなくても、充分な安心と幸せな日々を過ごせるという社会作りが大切だと思っています。その一翼を担いたく、安心医療の仕組み作りを一層進めたいと新たに決意しました。主侍医活動を20年間行ない、医療における安心のポイントや日常的医療の質の向上のためのポイント等を随分勉強しました。その経験と知恵を活かして、今後の活動を強化して参りたいと考えています。サポーター、パトロン、スポンサーのみなさまのお申し出をお待ちしています。

▲ページ上部へ戻る

東北関東大震災に教えられたこと11 計画停電に思う。魂を売るな、日本の建築家

2011年03月23日

「このくらいの暗さ、静けさ、肌寒さもいいかもしれないね」

周囲の人たちや、テレビの中でもこのような声を多く聞きました。今まで、平気で電気を使いまくり、場所によっては夜か昼の区別がつかないくらい。六本木や新宿などでは、昼より夜の方が明るく感じられるくらいでした。

多くの人々が「やりすぎていたなあ」と反省しているように伺えます。

しかし、これも時間が経てば忘れ去られていくのだろうなあ、とも心配しています。

幸い僕の事務所や自宅は計画停電の区域に入っていませんが、感謝の意味を込めながら、暖房をはじめ、便座暖房は勿論、自然に点く門灯なども切り、部屋の電気も暗めにしています。自宅はいいのですが、事務所やクリニックの暖房や照明では患者さんやお客さんに迷惑をかけることになりますが、ほとんどの方々は「当然ですよ」と力強く言ってくれます。このようなことが東京のあちこちでも起きているのだったらいいなあと思っています。

 

僕のいる飯田橋では、都内の最後と言われている大規模再開発工事が始まっています。旧東京警察病院をはじめとする大規模ビル(なかにはまだまだ十分に使用できるものも多い)を連日取り壊しています。今も、その解体のための音が聞こえてきます。この10日間、その光景を見るとなんとも切なくなります。東北地方では、家が自然に破壊されたというのに、ここでは、何千何万人と住めるようなビル、マンションを大勢の人手を使って壊しているのです。いずれの解体ビルもあの津波でも倒れそうもないしっかりしたものばかりです。

そして20個以上のビルのあとには、何が出来るのでしょうか?

なんの意外性も無い、マンネリとも言えるくらいですが、またもや超高層ビルが2本建ちます。建築工学の進歩で、彼らは超高層にした方が土地の利用効率がいいといいますが、僕は真っ向から反対です。人間の感性としても、医学的立場からでも。高層ビルは電気消費の塊です。エレベーターがないと身動きすら出来ません。もしかすると単位面積あたりの電気効率は高層ビルがいいと、専門家の反論があるかもしれませんが、その人は人間失格の専門家だと思います。科学的効率だけで人は語れないからです。

東京にこれ以上高層ビルが必要でしょうか?常識的に考えて誰もが判断できるのではないでしょうか?土地を有効活用して、儲けることばかりを考える不動産開発の人々、それに魂を売ってしまう建築家や建設会社。古い建物を大切にするヨーロッパの町並みを綺麗だと言っている建築家たちが、このようなことを容認するどころか、競って設計コンペに参加しているのかと思うと情けなくなります。我々凡人が何を言っても駄目です。心ある力ある建築家が連合して、このような流れにストップをかけてみませんか?

 

しかし、あきらかに「やりすぎ」です。

良識ある日本の建築家を信じています。 

医師たちの間で「手を抜かない」「あきらめない」「やりすぎない」をモットーにする活動をしていますが、いろいろな分野でも共通すると思います。僕は医学の世界で頑張ります。他の分野で賛同して頂く方は、ご自身の分野で頑張ってください。頑張る人がいないと世の中住み良くなりません。勿論、頑張らない人がいてもそれも人生だと思います。

▲ページ上部へ戻る

東北関東大震災に教えられたこと10 よく見えた人の本性

2011年03月23日

今回の未曾有の悲劇を生んだ災害に際し「人の優しさ」「人の我慢強さ」「人を思い遣るこころ」に触れるとともに「非情さ」「身勝手さ」「残忍さ」も垣間見たというお話をお聞きしました。それぞれの人々の「何が大切か?」を見たことになるのでしょうか?

数時間前、震災から1週間目の黙祷を捧げました。

長い長い1週間でした。

僕は日頃「まさかの時に助けてくれる友こそ真の友」より「嬉しい時に、心から一緒に喜んでくれる友」のほうがより上級だと言っています。若干訂正しなければならないと、今回のことで思い直しました。今まで、ここまでの危機感を味わったことが無かったからだと思います。テレビドラマで、可哀想なストーリーを見た時に、泣けてくるのはみなさんも体験していると思います。それに引き替え、登場人物の嬉しいことには、それほどリアルに喜びません。悪いことへの同情、共感は引き出されやすいが、自分が羨むような人のよいことへ一緒に喜びを感じることの方が遥かに発火点は高いような気がします。だからこそ、親友の情の深さは悲しい時よりも嬉しい時に分かると主張していました。

ところが、今回の場合のように、極限の事態の場合は、本性を現すものですね。外資系の企業の多くの幹部は、日本を見限り逃げてしまったところもあると聞きました。さんざん日本の市場を食い荒らしたところほどその傾向が強いようです。従業員をおっ放り出して、自分だけ逃げだした社長もいると聞きました。忙しい時期に重要な事務所スタッフが突然いなくなったと友人からも聞きました。

一方、重病人を抱える病院で、医療スタッフが自分の身の危険も覚悟で居残って働いている姿がたくさん放映されています。有名でもなく大学教授でもない現場の医師たちとスタッフです。一目散に逃げるような医師もいることは知っています。そういう人は自分が安全な時はまるで人道主義者のような発言を平気ですることも知っています。なかなか見破れないのが残念ですが。

リーマンショックや911の時もそうですが、今回の災害を利用して巨富を稼いだり、詐欺をしたりする人もいるというから驚きです。

一方、海外から日本の被災地にボランティア活動に来ている人もいました。感動的でした。

 

悲惨な余裕の無い時ですがよく見ておきましょう。真の姿を。

 

誤解のなきように「退避」と「逃亡」とは違うことを付け加えておきます。

「退避」は「攻めるための勇気ある一時的撤退」だと解釈しています。

 

生前の親父に厳しく教えられました。

「医者になるのだから患者さんには常にベストを尽くせ」

和歌山で長兄が開業して、次兄とともに当直の手伝い等をしていた時です。夜通し急患が運ばれてくるので、兄弟で交代に起きて患者さんに対応しようと打ち合わせました。ところが救急車が到着すると、親父が我々の当直室にやってきて「お前らみんな起きろ!患者さんは真剣なんだ。一人より3人の方がええに決まってるやろ」と怒鳴るのです。親父は医師ではありませんでしたから、長く医療活動を続けるにはこういった交代制も仕方ないと説明しても頑として聞き入れてくれなかったことを懐かしく思い出します。

一方、親父は和歌山の知人や親戚中でも有名な「子煩悩」でした。子供を守るためなら何でもするという迫力は兄弟4人とも常日頃十分感じていました。我々兄弟が全員医師になることを半ば(95%?)強要したようなものですが、その理由は、戦争の時(ラバウルにいたようです)軍医に助けられ(自分も戦友も)かっこいいし有り難いと思ったことと、軍医は安全な場所にいられることを知ったからです。大切な子供にかっこいい仕事について欲しいという願いと、万一戦争になっても安全なところにいられるだろうからという親としての思い遣りという相反する思いがあったのだろうと思います。

昨夜、一昨夜、子供たちとそのフィアンセを集めて連日論議をしました。次男は仙台から無事東京へ退避できましたが、喜びもつかの間原発危機が襲ってきました。友人等からも東京から退避した方がいいのではないかとの温かいアドバイスもたくさん頂きました。「海外の私のところへ来なさい」和歌山の実家でも「何人でも受け入れ体制を整えている」と心強い声が伝わってきます。親としては、子供の安全を最大限守るという責務があります。しかし、彼らも成人して、一人は医師として働き出したばかりです。親の気持ちとしては、想像も及ばないくらいの最悪の事態を空想して、より安全なところへ退避させたく思います。しかし、現状では事実上「逃亡」になります。本人も当然納得しません。

スタッフとも話しました。スタッフの身を守るのも責務、クライアントの身を守るのも責務。小さなことしか出来ない僕にとって、家族、スタッフ、クライアントの身を可能な限り守り抜くというバランスのいい決断を迫られます。

原発についてのより正確な情報知識を得る努力をすること。

それに基づいて、総合的判断をするが、事前にいくつかの想定により場合分けをすることが大切です。

子供たちも、スタッフたちとも、2重3重の緊急連絡体制を敷いておくこと。今のところ、東京では冷静な対応でよいと僕は判断しているので、平常通りに業務はやろう。ただ、独自の判断で、東京より西に退避したいなら拒まない。平常通りの行動の中で、親(代表)が東京を離れているときの緊急事態の場合の行動指針を決めておくこと。関西に避難するときはスタッフも全員引き受けが可能なように準備する。

などなど、細部にわたる取り決めと、大きな心構えを話し合いました。

スタッフとは「主侍医という活動の真価が問われるとき」という認識を持つことを確認し合いました。

 

ここではとても書き尽くせないくらいの、厳しい決断を迫られ胃に穴があくような感じでした。

家族スタッフクライアントの中だけのリーダーとしての判断にこれだけ悩んでいるのですから、国民のリーダーは大変だと共感はしています。でもそれがリーダーなのですから。

 

親父だったらなんというかなあ。「いち早く子供を安全な場所へいかせろ!」「医者なんだから患者さんに全力投球だ、手を抜くな」そんな怒鳴り声が聞こえてくるようです。親父だったら僕には出来ない決断を考え抜いただろうなあと思いを馳せました。

▲ページ上部へ戻る

東北関東大震災に教えられたこと9 福島原発で活躍の人々への尊敬と感謝

2011年03月18日

くの国民が、福島原発での最前線で活動している人々に期待に熱い視線を向けています。東電や保安院の幹部も現場に行くべきだとの声も多く聞かれます。

決死の覚悟をして現場で頑張っているのは事実です。

ピンボケの記者が「現場での隊員の健康を犠牲にしているのですか?」とまるで人道主義者であるかのようなつもりで質問していました。この状況下で、厳しい状況も知っている中で、このような質問をするマスコミ記者のマインドレベルに驚きました。そういえば津波現地で水に囲まれた屋根に必死でしがみついている人に向かって「大丈夫ですか?」といっている記者がいましたね。いずれも同様ですが、それらの記者には言っていることとはうらはらに「人のことを心配し配慮してあげる心に欠陥があるとしか思われません。本人は「あなたの健康(からだ)のことが心配です」と言いたいのでしょうね。本当に心配している人は、そんな状況で決してそのような質問や声がけはしません。

福島原発で頑張って作業している人々は、どのように選ばれたのでしょうか?友人たちや息子たちも交えて討論しました。今時有無を言わさない命令はあるのでしょうか?自衛隊ではどうなのでしょうか?僕には分かりませんが、とにかく身体を張って、覚悟を決めて頑張ってくれているのは確かです。中部電力の停年前の原子力一筋で頑張ってきた人が、志願してこの現場作業に加わったという話しを聞きました。家族も「頑張って」とそれを見送ったということです。テレビで放映されたかどうかは知りませんが、感動的な話です。東電の作業員にしろ、自衛隊にしろ、消防隊、警察にしろこの現場に出向いている人たちは、映画の「アルマゲドン」の地球救援隊のような方々たちでしょう。

僕は提案します。この事態を収めることができた暁には、現場一線で頑張り抜いた東電の社員さんは、テレビの前でゴロゴロしていた東電幹部の方々と一斉入れ替えをしてはどうかという提案です。勿論、現場で働く人たちとそれを取りまとめて指揮する人が必要なことくらいは分かっていますが、JALにしろ東電にしろ、その他の大企業でも、おおよそもはやほとんど役に立たない人が、それなりのポストでぬくぬくと高給を貰っている人が少なからずいるということです。そのつけが現場で頑張る社員や消費者に回っているのです。

福島原発はこれからどうなっていくかは分かりませんが、名も無い現場の英雄たちに国民皆が感謝したいと思っています。一段落まで乗り越えたら、そういったチャンスが是非欲しいものです。一人一人のすがすがしい顔をなんとか拝みたいですね。国民のみなさんは、お偉い方々の、偽善に満ちた顔を見るのに辟易している今日この頃だったと思いますので。

▲ページ上部へ戻る

東北関東大震災に教えられたこと8「民主自民公明共産党結党の勧め」

2011年03月18日

前項に続いて、復興10年は、超党体勢で日本を再建していくというくらいの思い切ったことが必要ではないでしょうか。この気の遠くなるような再建活動では、各政党のそれぞれの強いところが全て必要です。今やピュアな「共産主義」のシステムは成り立たないことは世界的な共通見解かもしれませんが、復興においては一部には共産的考えも必要でしょう。富のあまりにも大きな偏りはこれからの成熟した国には向きません。全てが均一では労働意欲がわかないから、頑張ればどれだけでも稼げるという仕組みは絶対必要だと人は言います。僕はそう思いません。「行き過ぎ」は必ず破綻します。極端な話、せいぜい平均個人所得の10倍が限度で、それ以上は99%が税金でもいいのではないでしょうか。「それでは産業は活発化しない」と多くの人に反発されます。息子の一人までから反論されました。「そこを工夫するのが、成熟型資本主義」ではないかと思っています。年間5000万円以上個人的に稼ぎたい方は一体何が欲しいのでしょうか?「命よりこころ」論(ここでは詳細を省きますので、ブログの他の部分をご参照下さい)と同じく「お金より栄誉」論も成立するかもしれません。社会としてのなんらかの工夫で、適切な成熟型資本主義のモデルを作るよい機会かもしれません。

話しは、飛びましたが、昭和の「戦争復興とその後の成長、競争社会」から平成の「欲望の権化化と安穏の入り交じりによる二極化加速と破綻」となり、これから「再復興」の試練が訪れました。やはりキーワードは「競争」から「協力」でしょう。今回の災害では、被災者またはその恐れがある人々と全く難を逃れた人々との決定的な二極化、全て失った人々や身動き取れない人々と余裕のある人々との二極化など、いろいろなところで二極化の権化が発生しました。それを利用して更に強者となるものを許すのか、本当の勝者は人の心にあるという流れが勝者となるのか偏見を持ちつつ見守りたいと思っています。小さな存在の僕ですが、前者は絶対に許さないという毅然とした行動をとりたいと決意しています。

▲ページ上部へ戻る

東北関東大震災に教えられたこと7 災害時の報道のあり方への提言

2011年03月18日

んとこの1週間は長いことでしょうか?テレビは毎日悲惨な状況の報道ばかりで相当タフな人々も精神が参っていることでしょう。それでも、現地の被災者の方々、一線で救助や復旧に当たられている方々のことを思えば、そんなことは言っていられません。

そんな報道を1週間見続け、いくつか感じたことを書いてみます。

 

緊急分担報道体制の可能性は?

地震直後から、ものの見事に各チャンネルで被害の模様をリアルタイムに映像で報道を始めました。そのリアルタイム性にも驚きました。各チャンネル共にいつのまにかCMのない特別報道番組となっていました。この素早い対応には今から振り返ると驚嘆の一言につきます。この素早さが、政府や東電にもあればと思いましたが、テレビを見続けていますと、各放送局がそれぞれ強烈な被害の生々しい画像を繰り返し流します。どこのチャンネルも同じ内容です。安否確認や、救援活動の進捗具合や、インフラの状況や、連絡体制の問題や後には原発の状況や各人にとって知りたい情報は違うのに、とにかく津波の酷い被害状況を何度も見せられてしまいます。むしろそんな画像は見たくなくて、避難場所状況や安否状況や救援活動状況だけ見たい人もたくさんいたはずです。こういう時こそ、各放送局は協力体勢を敷いて、報道分担をするべきではないでしょうか?実際被害状況を映そうとする報道ヘリが邪魔になったようなことを、官房長官は話されていました。普段の報道ではスクープ合戦が大切なこともある程度は理解できますが、未曾有の災害と自ら報道しているのですから、未曾有の放送局分担報道をされたらいかがなものでしょうか?あるチャンネルは被害状況専門でもいいでしょう。あるチャンネルは、原発だけで、専門家も1放送局に一同に集めると、より正確な報道に努めるだけに留まらず、実際の復旧活動にアドバイスできることも可能かもしれません。また他のチャンネルでは、安否情報、避難所情報、インフラ情報、ボランティア情報など被災者に直接的役立つ報道を専門にします。被災者は、津波の映像を何度も繰り返してみたくはないのではないかと想像します。我々のように難を逃れたものにとっても、胸が痛む映像ですから。

 

ついでに政府の指導体制についても分担体制もあるのではないでしょうか?

地震の直前まで、民主と自民公明は醜い(?)争いの渦中でした。さすがに、被害の重大さのもとではそういった争いは引っ込みました。国会の休会問題では小競り合いがありましたが。そして、管総理のもとに、政府として民主党中心に総司令部が設けられましたが、ご存知のように、この広範で甚大な被害に対しては力不足の感は否めず、国民の不安は募りました。ここでも未曾有の災害が起こったのですから、未曾有の体制による対応もよいのではないかと思います。福島原発問題の指揮系統は自民党に任せる、被災者の保護やケアは共産党に任せる、自衛隊等による救援活動は公明党に任せ、民主党は全体指揮と復興活動の計画指揮などとして、各党首はそれなりリーダーですから、分担の決定権を持ち、党首同士が徹底的に連携するというようなプランはいかがでしょうか?

民主党だけではいかにも荷が重すぎます。

▲ページ上部へ戻る

東北関東大震災に教えられたこと6 文明に溺れた反省

2011年03月18日

多くの心ある日本人、知恵ある日本人が、感じたり、気付いたり、実際に発言提言したりしていたこと。

 

こんなに恵まれた生活をしていていいのだろうか?

こんなにいつでもどこでも食べたいものを自由に食べていていいのか

こんなに当たり前のように高層ビルばかり建てていていいのか?

朝から晩まで携帯電話やインターネットにしがみついていていいのか?

24時間開いているコンビニが当たり前としていていいのか?

深夜でもこんなに明るい町でいいのか?

頻繁に「自分にご褒美」でいいのか?

なんでも経済(お金)優先でいいのか?

バラエティ番組優先のテレビに振り回されてばかりでいいのか?

お風呂を2日も我慢できない人間であってもよいのか?

大体において「電気」の存在すら感じない電気依存症でいいのか?

なんでも自分中心、他人とは表面的な「携帯クリック」的お付き合いでいいのか?

 

書き出すときりがないですね。平成の日本人は、老いも若きも人情の面白味が激減したと感じている人は多いでしょう。僕も含め、そう思う自分のこともそういった傾向にあると感じつつ。

「行き着くところまで行って、崩壊して、また立ち直る」という自然の摂理に委ねるしか、人間の心の復興はないと神は考えられたのでしょうか?

それにしても厳しい試練です。

最近は、反省し始めた日本人も増えてきていたのではないでしょうか?

東北の地方の我慢強い対応をみていると頭が下がります。もし、これが東京に起きていたら、我々東京人は彼らのように粛々と耐えられるでしょうか?

▲ページ上部へ戻る

東北関東大震災に教えられたこと5 勇気付けられる海外からの支援

2011年03月16日

害ばかりを報道して、救援活動が報道されない、と悲壮に思っていたら、海外からの救援隊の到着風景が報道されるようになりました。なんと心強いことでしょうか?実際には、言葉の問題も含め、指示系統をどうするかなどの難問があるとはいえ、「心強いイメージ」は大きいものです。また、各国首脳の「出来るだけの救援をしたい」というコメントも、いつもは日本から発していることが多いのだが、受ける側になると「有り難いものだ」と涙ぐんでしまいました。各国の新聞報道も日本への悼みの思いと復興への願いが伝わり、これも有り難く感謝の気持ちで一杯になりました。インドの中学か高校生たちが教室を暗くしてロウソクの火を灯しながら「Japan We Are With You」「Japan We Share Your Grief」と書いた紙を手に持ちながらお祈りをしてくれている写真には、目が涙で曇ってみずらくなりました。心汚れていく人々も多い中で、今回の悲劇から、多くの人々の心の中に「本来の慈愛に満ちた人間のこころ」も復興するのではと期待しています。

僕個人にしましても、被災者の家族になるという希有な体験をし、その家族の消息が分かった時は膝をおり、声を被災後初めて聞けた時は詰まって声が出ませんでした。親族、友人から心配の連絡を頂き、気にかけて頂いていることに嬉しく心強く思いました。逆に心細い一人住まいの姪や帰宅難民にはお泊まりいただき、まもなく被災地から戻る息子とその友人を預かります。東京もいつ被災地になるかもしれません。勇気付けたり、人のお役に立とうとする立場でいられる今の自分の運命に感謝し、小さなことでも役立つと思うことを着実にしたいと思っています。十分水も飲めて、美味しいものを頂けるのを申し訳なくも思いますが、感謝しながらそれを楽しませて頂くこともできることの一つだと思います。「今日よりよい明日はない」という本を最近読みました。幸い災害から逃れた人が、粗食でもご馳走でも、ワインでも水でも、小説でもゴルフでも、感謝しながら楽しむことはいいのではないでしょうか。明日は出来なくなるかもしれません。決して刹那的な意味ではなく「今日よりよい明日はない」という平静の自分をじっくり味わい楽しむというスピリッツだと思います。

でも、被災者のために出来ること、今は節電や節電波(不要な携帯電話使用等)が最も大切なようですので、出来るだけの協力をしたいものです。今日の東京は暖かいですが、少しくらい寒くてもいいではありませんか、部屋の中にいるだけで幸せですし、便座が冷たいくらい平気ではありませんか?ドライヤーも自然乾燥か3日や4日に一回の洗髪でもいいでしょうし。また、富裕層といわれる方々には思い切った寄付もお願いしたいと思います。義援金と呼ばれる我々庶民からの小額の寄付を集めることも大切でしょうが、大口の寄付は手続きも簡単で効果は絶大だと思います。

アメリカで難を逃れた石川遼君。昨年の稼ぎの残りを全部寄付してはどうでしょうか?本当の国民的英雄になれます。そして、綺麗ごとを言ってはいるものの、国民大衆からお金をトローリングして、その力で政治家になろうとしているような偽善者のなかに潜む本当の人情を引き出す模範となってみてはどうでしょうか?

 

▲ページ上部へ戻る

東北関東大震災に教えられたこと4 原子力発電保安員の記者会見から

2011年03月16日
震災2日目の朝の保安院の記者会見に立った代表の説明にはいささか驚いたのは僕だけではなかったようです。さすがのテレビ局も途中でその中継を切り、アナウンサーの小宮悦子氏は「災害直後のこの場面で、この内容はいかがなものでしょうか」というまことに適切なコメントをされました。「言い訳」「保身」のための前置き的内容で固められ、中身がまるでない内容が延々と続くのである。この人の個人的な資質の問題もあるのでしょうが、いかにも役所的な無難な回答をする癖が身に付いているのか、上司から言ってはならないことをたくさん授かり頭が混乱していたのでしょうか。さすがに、次回からの記者会見に姿を現さなかったようです。僕は、最近の「何かと人の粗を探し文句をつける風潮(その最たるものが国会議員同士での小競り合いだった)」に、ほとほと嫌気がさしていました。マスコミもこぞってその風潮を鼓舞するから、どの業界も「まあ思い切った決断はせずに、ひとの流れに身を任せて、なにかあればその時の先導者に文句を言えばいい」という「事なかれ主義」が蔓延していました。その延長があの保安員の態度に現れていたのでしょう。「最悪の場合を想定した行動」は、最悪の場合が起こらなければ、「あんな余分なこと、あんな無駄なこと」をしなければ良かったのにと非難されることになります。「結果で決断の良し悪しを判断する」ことが当たり前になっているからだと思います。僕の仕事の「医療決断支援」でも同じことです。数多くの経験から、「どちらを選んでも幸せと思えるようになるまで、じっくり話し合って、内容を検討してから決断の助言に入ることが大切」と思い至りましたが、今回のような緊急の事態では時間がないのでその手法が成立しません。「どんなに恨まれても最悪の状態を阻止する」という気概がリーダーには必要なのでしょう。昔の武士は、それで結果が悪かったら、「腹を切って」いたわけだから、マスコミに叩かれそのため次回の選挙に落選するなら、それはそれでいいと「腹をくくって」はいかがなものでしょうか。

▲ページ上部へ戻る

1  2  3