質実剛健

質実剛健①  医学部入試「改革」医師不信

 

1999.5~2000.4

質実剛健①  医学部入試「改革」医師不信

ばんぶう

1999.5

日本医療企画


今月からテーマを「質実剛健」と新しくした。
 「飾り気がなくまじめで力強い」というような意味である。実は僕が小さい頃、今は無き明治生まれの父から、「質実剛健でいけ。ええかっこするな!」とよく怒鳴られたものである。人間小さい頃の学習というものは死ぬまで残るものである。いろいろな商売にチャレンジしていた父は、東大に進もうとした僕に、喜んではくれたものの「人の役に立ってはじめて値打ちがあるんや。東大なんかでえらそうにするな!」と僕には痛い言葉を言っていた。
 先月号の本誌の「こころの時代」で、和田秀樹さんが東大医学部(理Ⅲ)入試の面接試験導入について辛口コメントを書かれていた。僕も全く同感である。たしかに現在の入試制度が必ず良い制度だとは言えない。だからといって、医師の適性をみるために「面接試験」という単純発想で、それをマスコミが例の臓器移植と共にこぞって「日本の医学の大きな前進」などと奇しくも同時期に取り上げた。この問題点だけで本一冊書けそうである。政治不信が内部構造の変換だけではなんともならないのと同様に、医師不信が叫ばれるこの頃、その医師不信の温床である大学医学部の思い上がった形だけの自己改革は危険極まりない。「知識より人間性を」判定できる医師が大学教授にいれば苦労はしない。
 質実剛健な医師が望まれる今こそ大学入試以前に人間としての普通の愛情に満ちた生活で育つような社会環境の整備がまず第一ではないだろうか。そして、和田さんも言われるように、なんでも入試のせいにするのではなく大学及び卒後の医師研修システムをまじめに考えなおす時であろう。

質実剛健②  子供達へのメッセージ

 

1999.5~2000.4

質実剛健②  子供達へのメッセージ

ばんぶう

1999.6

日本医療企画


日本にしろアメリカにしろ少年達が物騒な事件を起こすたびに「最近の若者はなっていない、怖い」などと言われる。若者といっても、年輩者にとっても経験してきた時期があるわけだし、むしろ大人の鏡だと考えてもいい。結構「ひとの振りみて我が振り直していく」ものなのである。昔は「末は博士か大臣か」と研究者や政治家などは、子供達にとって目標やあこがれの職種であった。
でも、今の現実は政治家も大学教授も大会社の社長も医者も弁護士もスポーツ選手もかっこが悪い。少なくとも、電車の吊り広告の週刊誌の見出しを見ている限りは無条件で尊敬できる職種や人が皆無である錯覚を起こす。そんな中でまともに育つことは至難の業である。子供の前で偉そうなことを言っても、子供達はそんなことより親や大人の実際の背中をみて育つものなのである。そしてその影響力は大きい。
 先日、中学生の我が次男の机をみると、紙切れになにやら墨で漢字の練習をした跡がある。よくみると「質実剛健」「温故知心」「初心忘るべからず」「誠実」など、読者の方もご存じのように私がいろんなところで書いたり話したりしている言葉である。見ぬ振りして見てるものである。そして「知心」と改良しているところがまたよかった。後日、その次男に「温故知新の[しん]は新しいと書くんだよ」とさりげなく言うと、「えっ?あ、そう。意味もなく書いたんだけど…」と照れくさそうにしていた。「嘘つくな!」「物を大切にしろ!」と怒鳴りつける前に、我々親がまず自分をきちんと見つめることの方が大切だと痛感した次第である。次回は、この次男の友人達から教えられた「BBQ-Method、新個人主義」をご披露しようと考えている。乞うご期待。

質実剛健③  新個人主義の勧め

 

1999.5~2000.4

質実剛健③  新個人主義の勧め

ばんぶう

1999.7

日本医療企画


前回お約束したBBQ-METHODの話。
 先日、中学生の我が次男とテニス部の仲間数人を連れて山の家にテニス合宿に行ったときの話である。夜はベランダでのバーベキュー(BBQ)となった。私ら夫婦とは初対面の子達もいて遠慮気味だから一人一人取ってあげないとだめかなと思っていた。心配ご無用である。さすが中学生の男の子達。焼き上がる前にすごい勢いでお箸がのびてくる。今度はこれは奪い合いの喧嘩になるかと心配した。ところが「これは俺が食べるつもり」「じゃあこれは僕が予約」「ホタテほしい人、手を挙げて」「はいっ、はいっ」「じゃあジャンケンで順番を」と自己主張はするが、ずるをするものもいないし、他人の権利を素直に受け入れて実にスムーズ。ついには「僕たちばかりじゃ悪いから、おじさん達の分も確保しなければ。俺らは休憩。」という気遣いまで生まれる。この自己主張と他人の権利の尊重のバランスに不自然さはなくむしろ美しさまで感じる次第。
 我々大人だったら、さすがにバーベキューでは奪い合いはなく「どうぞ、どうぞお先に」と不自然な譲り合いがみられるのが普通。ところが日常の人間関係では、正々堂々とした自己主張は出来ず、むしろ「我がままや自己中心、利己主義」という名の下に自己主張を非難する一方、隠れて他人の足を引っ張ることが多い。他人の権利を尊重したり、他人の幸せを素直に喜んであげることが出来ない。自分の意見や希望をきちんと主張し、その2倍他人の意見もよく聞き尊重することが本来の個人主義である。
 利己主義とは似て非なるものである。新都知事の石原氏の言葉を一部借りれば「イエス・ノーをはっきり言える」ことこそ美しい質実剛健の精神であろう。「ノーと言わない振りした腹黒利己主義」野郎を駆逐することこそ住み良い日本を作るには不可欠である。夏目漱石ならぬ、BBQが示唆してくれた新個人主義の勧めである。

質実剛健④  質と量

 

1999.5~2000.4

質実剛健④  質と量

ばんぶう

1999.8

日本医療企画


品質と数量といえば「quality & quantity」と英語の授業を思い出す。モノの良し悪しを判断するときに尺度となる2大要素である。
それらは、多くの場合、逆相関する。食べ物をとって考えてみよう。高級フランス料理の前菜分の価格で牛丼を何倍食べられるか。では、価値判断として高級フランス料理が牛丼を凌駕していると結論付けできるであろうか。否である。とにかくおなかがすいているものにとっては、2杯の牛丼の方が価値が高いであろうし、小食のひとが少し贅沢をしたいと思っているときは、年代物のワインにオードブルというほうが価値が高い。質と量どちらが大切か、一概には言えない例である。
 別の観点になるが、高質=高価で、多量=安価という見方をしてしまうと、高価なモノはバブル的であり、金持ちを連想し、情愛がこもっていない感があり、逆に、安価なモノは、庶民的な印象があり、情愛がこもっているように感じる。
ところが、人間関係を代表とする、ソフト(心)に関することとなると事態が違ってくる(筈である)。今でも、若者達の間で流行っているのかどうか知らないが、「プリクラ」現象などは象徴的である。何でも話が出来る親友を持てない代わりに、プリクラ友達をコレクションすることで、寂しい心を紛らわす。
携帯電話やピッチもそうである。じっくり親友と時を過ごすのではなく、例えデート中でも他の誰からか電話がかかってきて「○○ちゃん?今どうしてる?平気、平気、大丈夫!」と目の前の彼氏を無視して誰かさんと話し出す。何が大丈夫なのか!こういった文化はおよそ質実剛健とはほど遠いものである。
かくいう私も毎年2000枚程度の年賀状を出したりもらったりしている。手書きできないほどの数の年賀状を出す意味があるのかつくづく考え直しているところである。「使い捨てではなく、良いものを何度も使う」ことが質実剛健のポイントであり、人間関係もそんなところが大切と思う今日この頃である。

質実剛健⑤ 二つの悪い心

 

1999.5~2000.4

質実剛健⑤ 二つの悪い心

ばんぶう

1999.9

日本医療企画


「汝ねたむなかれ」かのキリストも言われた説教である。
日本人は特に「ねたみ、そねみ」を持つ民族のように言われることをよく耳にするが、世界共通の人間の邪悪な心なのかもしれない。人間にとって大きな悩みの一つは、自分の内なる邪悪な心との戦いなのかもしれないと思っている。
気に入っている映画の一つに(親友に勧められ最近観たのであるが)「scent of a woman」というのがあるが、その主人公のアルパシーノが「私は今まで、どちらの道を選ぶのが正しいか、たいていの場合はその答えを知っていた。しかし、そちらを選ばなかった。たいていの場合、正しい道は困難だったから。」というようなセリフを言う。含蓄のある言葉である。
たいていの悪者は、悪いことを認識しているのだろうか?私は、「人間の悪い心には二つの種類がある」とよく言っている。「車を盗む悪者」と「車にこっそり傷をつけていく悪者」である。前者は、「自分の利益のためになら、何でもする」という心が隠されている。後者にはいわゆる嫉妬心が根源に隠れている。「他人が苦しむのを陰で楽しむ」わけである。どちらも怖いものであるが、私個人は後者が嫌いだ。前者の中には、ひもじさのあまり食べ物を盗む行為も含まれるので同情の余地がある場合もある。後者には同情のかけらもない。あなたの周りの悪い人間を思い起こしてほしい。どちらかのタイプに分類されるはずだ。両方持つ者は、即刻離縁すべき極悪人である。そうはいっても誰の心にもこういった邪悪な心が発生する危険をはらんでいる。
そこでこう考えてほしい。物質的には満たされつつある文明国日本では、他人の笑顔を得ることは最高の贅沢な喜びではなかろうかと。本当のあなたは邪悪な心ではなくこの「利他の心」が基本である筈である。「朱に交われば赤くなる」仲間選びも大切である。

質実剛健⑥ ブランドと品質

 

1999.5~2000.4

質実剛健⑥ ブランドと品質

ばんぶう

1999.10

日本医療企画


久々の長期夏休みを取り、テニス仲間と3夫婦で北イタリアへ食と歴史を巡りながらのリラックス旅行に出かけた、つもりだった。
ところが、旅行中にもめることになった。一組の夫婦が、どうやらブランドショップ(ベルサーチやテストーニなどの固有名詞を勉強させていただいたが)での買い物が旅行の大きな目的であったらしいのだ。全体の旅程は、イタリアの田舎町を車で回る情緒たっぷりなものだったが、一部変更し恥を忍んでミラノのブランドショップ街を大きな買い物袋を提げた日本人と会っては、伏し目がちに歩くことになった。
 私も、不器用ながら「おしゃれ」は良いことだと思っている。だからといって「ブランド品に眼がない」というのとは全然意味合いが違う。昨年のこの場でも書いたが、とかく日本人は「絶対価値観」を持つのが苦手なようである。ブランドのマークがなくては服や鞄さえも買えない。いわんや学歴を聞かなければ、人間の価値も判断できないのである。長年培われた質実剛健な品質が評価されて、はじめてブランドが生まれるものと私は考えている。
 日本人目当てのブランドショップは、もはや本来の価値は失われかけている。バブル時期を経て、日本の消費者も賢くなりブランドだけに騙されず、品質を見る目を養った。価値観の混乱の中で、見る目を持たない若者の高級ブランド志向が突然変異的に生まれたが、「安ければいい」という過剰反応も出たものの、そういう過程を経て、「質実剛健なものなら多少高くても」というしっかりした考え方も台頭し始めている。
 思い起こせば、私が育った昭和中期「巨人、大鵬、卵焼き」と言うブランド信仰を皮肉る言葉があった。言ってみれば「みんなが一番と思っているものがやっぱり一番良い」というような意味合いである。
歴史は繰り返すものだとつくづく思う。ガンバレ我らが日本。

質実剛健⑦  景気回復ケーキ

 

1999.5~2000.4

質実剛健⑦  景気回復ケーキ

ばんぶう

1999.11

日本医療企画


先日、大学時代の仲間のゴルフ旅行の帰り、新幹線の中でアナウンスがあった。「縁起のいい新幹線特製“景気回復ケーキ”はいかがでしょうか?」
その日はゴルフの成績もすぐれず、仲の良い先輩のドクターと悲嘆に暮れながら「あの時のパットは云々」と反省していたのであったが、このアナウンスを聞いて思わずニヤリとしてしまった。これはもしかして、そんなケーキを実際売っているのではなく、さすが元国鉄JR‘洒落と元気付け’でアナウンスしているのではとも思ったが、確かめはしなかった。
 バブルの崩壊とその後の不景気、そして景気回復に向けて、国民の価値観は大きく変わろうとしている。今はまさにその混迷期である。この変化を個々の国民の精神状態から言及してみると、「ブランド盲信主義」から「疑心暗鬼」の状態を経て、「質実剛健」なる心の芽生えの状態になりつつあると言えるのではないだろうか。
 身の回りを見渡してほしい。もう既に一部の人たちは、物事の本質を見分けて「品質のよいもの」「人格者」を支持する行動を示している。勿論大半の人々はまだまだ疑心暗鬼状態で、何が本質かも分からない代わりに、かといって過去のバブル時代のようにブランドだけで判断することも出来ないでいる結構苦しい状態に置かれているわけである。
そういう思いで考えると、かの“景気回復ケーキ”は、もし、本当に存在するなら、飾り立てた豪華絢爛なケーキでなく、品質の良いクリームとスポンジを使った一見質素な(つまり質実剛健な)ケーキであってほしいと願っている。そういうものが売れる状態を本当の意味での景気回復というのだと思う。
 相対的価値観ではなく、絶対的価値観を各人が持つことが大切なのである。

質実剛健⑧  ピース オブ ヘジタンス

 

1999.5~2000.4

質実剛健⑧  ピース オブ ヘジタンス

ばんぶう

1999.12

日本医療企画


「ピース オブ ヘジタンス」という英語の意味をご存じだろうか。「遠慮のかたまり」という意味だそうだ。先日、英語が堪能な友人から聞いたから、多分本当の話だと思う。大皿料理などで美味しそうなものが、一切れ遠慮がちに残っている例の「遠慮のかたまり」の意味である。「ふーん、アメリカでも遠慮のかたまり、という現象があるんだ。人類似たり寄ったりだ。」と妙に感心した。
話の意味合いは違うが、食べ残しについて考えさせられた一件がある。先日、幸運にも若い女性と食事を共にする機会を得たとき、その女性が出てきた料理を半分くらいしか食べずに残そうとしたので、「頼んだ料理を残すのはよくない。」と注意した。すると「先生は医者のくせに、人がおなか一杯なのに無理に食べろというのですか。食べ物と私の身体のどちらが大切なのですか?」「周りの友人はみんな平気で残しているよ」「食べたくても食べられない人も気の毒だけど、満腹なのに食べないといけないのはもっと辛いのではないですか」と猛烈な反論に出会った。あまりの反論理由に唖然としてしまった。
 昭和20年代生まれの私としてはせっかく作ったものを捨てるということに抵抗を感じるわけだが、価値観というものは変遷していく。「昔の質実剛健」と「今の質実剛健」は異なっているかもしれない。いわゆる昔の人は物の使い捨て文化を批判はしているが、「物」を大切にした戦時中は特攻隊に代表されるように「人の命」を粗末にした。同様に「人の心」も粗末にすることもある。
 中国では、客人の接待の時「食べ残すぐらい」の量が相手への気遣いだと聞く。物を捨てることで誠意を表しているのである。そんなことをふまえても、私は敢えて「物も心も大切にする気持ちは共通でそれこそが質実剛健だ」と言いたい。

質実剛健⑨  ニュース俗報

 

1999.5~2000.4

質実剛健⑨  ニュース俗報

ばんぶう

2000.1

日本医療企画


先日、帰宅すると、妻や子供たちがテレビで「金八先生」を見ていた。一緒に見ながら「金八先生も現代版になって変わったな」と思った。不良学生が登場した家庭内の暴力場面があり、私が顔をしかめると「これは超特別な過激な場面」と子供たちが言い訳めいて言う。
そんな話をしながら見ていると、画面に「ニュース速報」のテロップが現れる。『どこかで地震かな?』と思っていると[文京区音羽幼稚園の行方不明園児が遺体で発見される]という報道であった。
 実は、我が息子二人とも同幼稚園のO.B.である。人ごとではなく身につまされる事件である。妻も「〈自由に子供たちを育てよう〉と、頑張ってられた園長先生が気の毒に」と事件の酷さと、「お受験ムード」のせいにしている報道に落胆している。
私はどうも違和感を感じた。何だろうと考えると、この「ニュース速報」である。まだ、この被害者が生存していて、全国の皆に捜索の協力を至急お願いするならいざ知らず、このような人の不幸を他のテレビ番組を見ている人にいち早く知らせる必要があるのだろうか。報道されれば、多くのひとが興味を持つことは事実である。
 人間の本能のなかに「知識欲」というものがあり、これは結構「強力」である。良い意味で発揮すれば学問の探究になるが、ゴシップ好きの人間も同じ心理の仕組みで出来ているのである。後者の欲望にかこつけて商業主義に走ったのが、現代のマスコミの行き過ぎた部分だと思う。こうなれば他の欲望産業と同じである。インターネット、衛星通信など情報通信はこれからの人類の核になる分野であるだけに、関係者はプライドとともに深い哲学、倫理観を持って臨まないと、原発事故以上の恐ろしい副作用を人類にもたらすのではと危惧している。マスコミを含めた情報関連のプロたちにも「質実剛健」に値する仕事を望みたい。

質実剛健⑩  オセロ型心理敵対反応

 

1999.5~2000.4

質実剛健⑩  オセロ型心理敵対反応

ばんぶう

2000.2

日本医療企画


仲がよかったのに、何かをきっかけにがたがたと崩れてしまうことが多い。この人間関係を理解するにはいくつかのポイントがある。そのなかでも私が「オセロ型心理反応」と命名した恐るべき心理反応がある。
今まで、自分の親しい仲間と思って気を許して悩みなどを話していた時は、親身そうに同情したり共感してくれていた人が、何かのきっかけで一旦敵対したとたんに、今までの共感とは裏腹に「あいつはこんなことを言っていた」と正反対の反応をするようになる。この反応に遭遇した人はひどく傷つき、「もう二度と人を信用したくない」、と一時的に思ってしまう。
これを繰り返すと、人間不信が固定観念となる。まるで、オセロゲームでひとつの駒を白から黒に変えただけで、ばたばたと周辺の白い駒が、一気に黒に変化するのと似ている現象なので「オセロ型反応」と名付けたのである。昔流に言えば「可愛さ余って憎さ百倍」ということであろうが、結構人間関係では悪さをしている心理反応である。
誰にでもこの傾向は多少ともあるのであろうが、特にこのオセロ反応を何度も強く起こす人がいる。一般に作り笑いが得意な人に多く、一見優しそうで無害に見えるから性質が悪い。貴方の友人関係を破壊する怖い人であるので注意が肝要である。貴方の周りに少しでもそのような気がする人がいたら、距離を置いて付合うことである。かく言う筆者も時々大ヤケドをしているのであるが。

質実剛健⑪ 感謝オンデリバリー

 

1999.5~2000.4

質実剛健⑪ 感謝オンデリバリー

ばんぶう

2000.3

日本医療企画


ゴルフ仲間である(といっても大先輩なのだけど)工学部の名誉教授から、「タイと日本の学術交流のため、バンコクのオフィスに長期出張しているので遊びにおいで」と招かれて、友人と突如バンコクに行くことになった。
三泊のせわしない旅行であったが、ゴルフと美味をたっぷり堪能できた。そのゴルフであるが、タイ出身者による東京大学の同窓生のコンペという企画がたまたまあり、そこに飛び入り参加となった。一緒に回った人は、タイで会社を経営している方で、勿論日本語はぺらぺらである。その人の話のなかに、非常にためになったことがあるので今日はそれを紹介したい。
 「私、日本のしきたりに慣れたために、タイに帰ってきて戸惑ったことがあります。タイでは、例えば、部長は課長の給料の何倍もありますし、社長は何十倍も違います。その代わり、一緒に食事に行ったり、飲みに行っても、必ず上の者が支払います。そして、部下は勿論『ありがとうございます』と言います。ところがその人と翌日会ったとしても、『昨日はどうも』とか『この前はどうも』とかは決して言いません。最初は失礼なやつだと驚きました。そういったいわゆる一宿一飯の恩義は翌日以降に持ち越さないのです。」
日本人には「あれだけ…してやったのに」ということが、会社の中でも、親子の間でも多いのではと思う。人の面倒をみることはそれが快感で、ましてやその時感謝の言葉を貰ったら、お釣りがくるほどである。子供の面倒を見るのは、可愛いからで、その時その時元を取っているのであり、人にご馳走するのは気持ちのよいことで、その時に利を得ているのである。「あれだけ…してやったのに」がもたらす人間関係のもつれは意外と多い。我々日本人が見習うべき習慣だと痛感した。まさに「キャッシュオンデリバリー(料金引き換え払い)」ならぬ「感謝オンデリバリー」である。あとあと過度な期待をしないことが原則である。もちろん「鶴でも恩返し」。恩を受けたほうは忘れてはならないのだが。

質実剛健⑫ 「君たちはすでに英雄だ」

 

1999.5~2000.4

質実剛健⑫ 「君たちはすでに英雄だ」

ばんぶう

2000.4

日本医療企画


私の仲間には、妻を筆頭に映画好きが多い。
つい最近、ホームシアターなる設備を我が家に導入した。週末になると、仲間がそれぞれ、好きな映画のビデオと食べ物を持ち寄り、我が家では安物ワインを用意する。一緒に映画をみて、そのあと映画談議にふけるのである。贅沢なようだが、映画館へ行って、レストランへ立ち寄り、お茶をすることを考えると、一人あたりの出費は格段に少なくすむ。これも考えようにより質実剛健だと(多少は弁解気味に)思っている。話はそれてしまったが、映画好きな人にとって、今回のタイトルのセリフはどの映画のどこで出てくるかをすぐさま思いつくかもしれない。でも、念のため正解を言っておこう。「アルマゲドン」という最近のヒット作の中のセリフである。
地球に巨大な隕石が降ってくることが分かり、その隕石を爆破に行く勇気ある人々がNASAを飛び立とうとしている時に、NASAの代表が、「君たちはすでに英雄だ」と誇らしげにアナウンスするのである。このセリフがいいねと話題になったのである。英語でも“You are already heroes”となんの変哲もないのだが。その勇気ある人々が、本当に隕石の爆破をなしえるかどうかは「英雄」と呼ばれるのに関係ない、という単純なことである。
 しかし、最近、実際に新聞やテレビを見ていても、また、身の回りを見回しても、このような「英雄」はおろか「英雄的」行為さえも見ることがない。これは、英雄的行為をしたいと思う心が誰にも無くなったのではなく、英雄的行為を受け入れない現代社会の歪に起因しているのではないだろうか。どこかのCMのようであるが、つくづく「モノより思い」と痛感するこの頃である。 

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