吹っきりのち復活

吹っ切りのち復活①  復活の極意

 

2002.5~2003.4

吹っ切りのち復活①

復活の極意

ばんぶう

2002.5

日本医療企画


今年のテーマについては、何にしようかといささか迷い悩んだ挙句、世の中の状況を鑑みて「復活」が相応しいと思いついた。バブル破綻や経済不況、政情不安、テロなど問題点だらけであるから、「今年こそは復活」と誰しもが願い期待している。 復活の条件として必須なのはなんであろうかと考えてみると、何を隠そう「白紙に戻す」ことである。もちろん、過去の蓄積も大切で、数年前のこのエッセイのテーマに「温故知新」を取りあげたこともあった。今年のテーマと相反するように見えるが、これは「非なるようで似ているもの」なのである。逆に「吹っ切りのち復活」と「似て非なるもの」は「あきらめてやり直し」ではないだろうか。私は、治療が困難な悪性の病気の患者さんや家族の方に病名を告げる時、「(駄目かもしれない)覚悟と(治るかもしれない)希望を持って治療に臨みましょう」と言うようにしている。「嘘の楽観と現状を受け入れたくない不安感」は、返って事態を悪い方向に進めることが多いということを幾度となく体感したからである。医師になりたての頃は、「癌の告知」に私は消極的だった。特にポーカーフェイスが苦手で、嘘の病名を言うときの顔が引きつっているのが自分でも分かるので大変に辛かった。ところが、患者さんに癌であることを内緒にし、現状を受け入れないまま病気と闘うと、困難なことが多生じた。
「現状を受け入れる」ということと、「あきらめる」ということには大きな隔たりがあることに気付いたのである。
 このことは病気だけでなく、いろいろな場合に当てはまるのではと思われる。現状の悪い状態をまず受け入れた上でリセットすることが、復活の必要条件の筆頭ではないだろうか。そういった意味で「吹っ切り」こそ「復活」の極意と考えたのである。

吹っ切りのち復活② バーチャル欲望という名のバブル

 

2002.5~2003.4

吹っ切りのち復活②

バーチャル欲望という名のバブル

ばんぶう

2002.6

日本医療企画


「今回の不景気は長い」と私も思うし、マスコミでも世間でも同じように言われている。しかし、実際のところ48歳の私でさえ、今までの人生で本格的な不景気の体験はない。初めての不景気の体験であるから、比較的長いのか、景気の循環はこんなものなのか実は知らない。ただ、いわゆる例のバブル好景気というものを体験しているから、長すぎるのかどうかは別にして、少なくとも「始末の悪い不景気」に感じるのである。今年こそは景気の回復と言われ続けてすでに久しい。そのたびに「バブルの時はこの土地はいくらしたが…」とか「バブルの時はタクシー待ちは1時間が当たり前でしたよ」とか、もう一度来ないかなあ、という淡い期待を抱くような声が3,4年前はあちこちで、1,2年前でもちらほら聞こえたものである。
 私見であるが、昨年あたりから「バブルの頃は…」といった表現がめっきり聞かれなくなったのではないだろうか。むしろ価格破壊が進み、「景気もまあまあこんなものが普通なのかなあ」という声さえ聞かれる。これこそが復活のサインではないかと、私は感じているのであるが。
バブル経済の起こった理由は一言で言えば「人間の欲望」だと私は思っている。ゴルフをしない人までもゴルフ会員権を買うから、利用する当てのない人が土地を買うから、アルコールを飲めない人がワインを買うから、常識はずれの金額まで競りあがるのである。ゴルフをやりたい人がそのプレイ欲求のため会員権を買うなら、おのずとその限度額が推定できるだろうし、土地を利用するつもりなら、やはり限度額が算定できる。
ワインでも然りである。ところが、想像の世界の欲望にはきりがないから、とんでもない現象が起きてしまったのである。まさに、「バーチャルという名の欲望には気をつけなさい」と、「欲望という名のバブル」が教えてくれたのである。

吹っ切りのち復活③ リセット・リスタート

 

2002.5~2003.4

吹っ切りのち復活③

リセット・リスタート

ばんぶう

2002.7

日本医療企画


コンピュータを使っていると、「フリーズ」「ハングアップ」や「エラー」と呼ばれる問題が必ずといってよいほど付きまとう。
これは言わば「コンピュータのストライキ」といってよい現象である。「もういろんな事を命令されて訳がわからなくなりました」と悲鳴をあげているのであろう。
技術的には様々な理由が挙げられるが、コンピュータの頭脳の中枢であるCPUに直結するメモリー(記憶回路)が情報で溢れてしまうことが原因であることが多い。
 こうなるとそのままコンピュータを使っていても、頻繁にプログラムが停止したりするので、なんとかしないといけない。大抵の場合はいったん電源を切って再度コンピュータのシステムを立ち上げなおすしかないのである。俗に言う「リセット」という作業で、専門的にはそのリセットにより「メモリーの解放」という作業をしていることになる。沈着冷静なコンピュータでさえ「頭が情報で一杯になって判断不能」に陥るのであるから、我々生身の人間は行き詰まってにっちもさっちも行かなくなっても至極当然である。そんな時の対処法は、コンピュータと同じく「リセット・リスタート」がいちばん簡単・確実な方法なのである。最近のウィンドウズは、コンピュータを作動させながらこういったメモリーの満杯状態を常時監視し、ストライキを起こしにくいように制御できるらしい。人間でも、鍛えられてくるといちいち本格リセットをせずとも、部分リセットを行いながら、いろいろなことを同時進行で処理できるようになるのかもしれない。その処理可能量が人間の性能の目安なのかもしれないが、私のような凡人は、こまめにリセットをすることが「フリーズ予防」にも欠かせないものであると自戒している。

吹っ切りのち復活④ 再起動できない人間関係

 

2002.5~2003.4

吹っ切りのち復活④

再起動できない人間関係

ばんぶう

2002.8

日本医療企画


前回は、コンピュータの「吹っ切り復活」であるリセットについて心理学的見解を述べた。コンピュータの調子が悪くなったら、リセットをかけて再起動すれば、たいていの場合は調子が復活するものである。
人間の場合もそうであると言いたかったのだが、実際の人間関係はそう簡単には再起動ができない。
 コンピュータトラブルでは最悪の場合、情報を破棄するということになる。
その時にとりわけ注意すべきことは、ハードディスク内に今まで使った情報が残るという問題である。これは単に、コンピュータ上の操作で削除したり、ゴミ箱に入れても完全には消えず、どこかでその情報がこじ開けられて、秘密が漏洩するという可能性があるということだ。そういった現状を反映して、完全にコンピュータ内の情報を破棄することを代行してくれる業者が次々と出現してきている。しかも、その料金が高いから驚く。場合によっては、新しいコンピュータを買えるくらいである。
それでもまあ、コンピュータの場合はなんとかなるからよい。
ところが人間関係の場合は、都合が悪くなったからといって、再起動が出来ないどころか、ましてや完全なる破棄など出来ないので大変である。
悪化した人間関係は非常に伝染力が強いから、被害は大きくなる一方である。
だからこそ、こまめなリセットが必要になってくる。そして問題を起こすプログラムは早めに検出して、原因がはっきりするまではそのプログラムを使用しないことが、再び調子が悪くならないための鉄則といえる。人間もコンピュータも変わらないんだなあと、敬愛する手塚治虫先生の洞察予知力の深さに脱帽するばかりである。

吹っきりのち復活⑤  再生医療

 

2002.5~2003.4

吹っ切りのち復活⑤

再生医療

ばんぶう

2002.9

日本医療企画


医療界の今世紀の大きなテーマの一つに「再生医療」を挙げることができよう。最近の新聞紙上でもこの言葉が頻繁に登場するようになった。
 再生医療というと、いつも連想されるのは「トカゲの尻尾」である。トカゲの尻尾が何らかの外的力で切断されても、また同じように生えてくる現象である。私が幼かった頃は、なんだか不思議な感じがしたものであるが、よく考えてみれば、我々人間の爪や髪の毛、髭や皮膚なんかも同様である。特に眉毛なんかは剃ったとしても、前と同じぐらいに生えてきて、一定の長さくらいでその伸びが止まる。当たり前のようだけど不思議である。 そんな不思議を、手足でも出来るようにしようというのが、簡単にいってしまえば究極の「再生医療」なのである。臓器移植も狭い意味での再生医療になる。人工臓器も同様に再生医療になる。「どの辺までの再生が技術的に可能なのか」という問題もさることながら、遺伝子テクノロジーの発達により、「どの辺まで倫理上可能なのか」ということも同時に考えていかなければならなくなった。
ある意味では前半の回答は簡単で、後半のそれは難しい。人工腎臓や人工心臓はほとんどの人が受け入れるであろうが、人工大脳は誰も受け入れないであろう。角膜移植はおおくの人が賛同するが、心臓移植は躊躇する人も多い。凶悪犯罪人の「心」を入れ替える技術を持ったとしたら、再生したその人を許せるであろうか、など思わぬ判断を迫られることになるかもしれない。
 医療以外の分野でも同様と考えている。「20世紀は加速の時代だったが、21世紀は制御の時代」と私が常日頃話しているのは、こういった理由である。

吹っきりのち復活⑥ 悪い「吹っ切りと復活」

 

2002.5~2003.4

吹っ切りのち復活⑥

悪い「吹っ切りと復活」

ばんぶう

2002.10

日本医療企画


人間の慣れ現象とは恐ろしいものである。一部上場の(いわば有名な大きな)会社の倒産の記事を見ても驚かなくなったし、そのような記事を日経新聞でさえ一面記事に取り上げない場合もあることに気付いた。殺人事件の記事が日常茶飯事化していることと同様の悲しい時代の変化である。最も大昔、人間同士の殺し合い(恐ろしい言葉である)がそれなりに日常的であった時代もあっただろうから、時代の輪廻といったほうが正確な表現かもしれない。
 話を元に戻して、企業の倒産やら会社更生法というものは、まさに「吹っ切りのち復活」を目指そうというものである。今や、倒産やら個人破産やら社長更迭やらに慣れっこになり、それらはそんなに恥ずかしいことでもないような気がするのも時代の風潮である。私自身は、何を隠そうこの現象に憂いを感じている一人なのである。企業が一旦倒産宣言をして、借金を棒引きにして、一部の人事を変えて、再度復活しようということが連日のように見受けられるのは「倒産、みんなでやれば怖くない、恥ずかしくない」的であり、「悪い吹っ切り」の代表例といったところではないだろうか。
 多くの人に迷惑をかけながら、責任を取るべき中心人物たちは、倒産後も意外と優雅な生活をしているという事実はなんだか美しくないなあと私は違和感を感じる。私の勧める「吹っ切り」は「勇気ある撤退」ということである。つまり、撤退することに伴う大きな責任をきちんと受け止める覚悟が必要なのである。会社を倒産させて、借金を棒引きにしたり、多くの従業員を路頭に迷わせた経営者(陣)は、その従業員が一人残らず無事、次の職につくまでは自ら禁治産者の名を享受するくらいの覚悟が必要だと言いたい。それでも会社清算の道を選ぶなら、それはそれなりに立派な吹っ切りと評価できよう。

吹っきりのち復活 ⑦ 「吹っ切らずに復活」

 

2002.5~2003.4

吹っ切りのち復活⑦

「吹っ切らずに復活」

ばんぶう

2002.11

日本医療企画


 復活するためには、まず吹っ切ってけじめをつけることが大切であると主張してきたが、何事にも例外はつきものである。身近な例では、テニスやゴルフなどの競技を考えてみたい。「ゴルフで大叩きをしてしまって、どうしようもない状態」や「テニスで0対5と追い詰められた状態」の時「今回はもうあきらめよう。次回があるさ」と投げやりになってしまう。そう思った瞬間、その戦いはたいてい負けである。プロの競技を見ていても、そんなふうに選手が思っているのではと感じることがあるくらいだから、我々凡人の場合は日常茶飯事である。ひどい時は、朝一番のショットが大きくミスした場合、その瞬間からその一日のゴルフが苦痛になってしまうこともある(のは私だけだろうか?)。実に情けない話であるが、吹っ切りと諦めには大きな違い、いや、むしろ正反対の意味があるということを自戒せねばならない。 我々が属する医療の現場でも同じことが言える。
本人の生きたいという意志が寿命に大きく影響する。昔、何かの本で読んだのだが、ある国のある村で年に一度の大きな祭りがあり、祭りの前数ヶ月と、祭りの後数ヶ月の村民の死亡者数を調べたら、祭りの後の数ヶ月のほうが圧倒的に多いというのである。なにも危険なお祭り騒ぎがあるわけではない。村の長老たちにとって、その祭りに参加することが大きな生きがいなので、なんとかその祭りまで生きたいという気持ちが積み重なってこういった統計結果になったのだろうと、その本では分析していた。
 「生きることに執着」したり「勝負に執着」したりするのは、吹っ切る以前に大切なことである。経済復活のためには、思い切った整理・清算が求められようが、前回の「悪い吹っ切り」でも記したように、会社を簡単に倒産させない粘りも重要であろう。

吹っきりのち復活⑧ 「吹っ切りの予防医学」

 

2002.5~2003.4

吹っ切りのち復活⑧

「吹っ切りの予防医学」

ばんぶう

2002.12

日本医療企画


言葉の持つ力は大きい。相撲の力士が横綱になった時や、政治家が総理大臣に選ばれた時など「不退転の決意」「不惜身命」などと自分の気持ちをわずかな言葉に表すことが多い。彼らの長い演説よりも、その短い言葉は人々に長く大きな影響力を持つことになる。「はじめに言葉ありき」と、聖書でも教えている。私も、言葉の偉大さには常々感服している-人である。反対に、言葉の恐ろしさも相当なものである。親から言われた言葉、先生から言われた言葉、主治医から言われた言葉、親友から言われた言葉……勇気づけられる言葉もあれば、心の傷になる言葉もある。一般に勇気づけられる言葉より傷つけられる言葉のほうが、10倍も100倍も強力なものである。多くの人に影響を与える立場の人は、自分自身の言葉に大きな責任を持たなければならない。
 最近の良い例は、政財界の要人たちの発言であろう。長引く経済低迷の中、彼らのポジティブな発言に市場はあまり反応しないのに、ネガティブな発言には敏感に反応する。こういった市場心理も結局、人間一人ひとりの心理の集合体なのだから当然である。身近な例を挙げれば、ゴルフのラウンドでいくら良いショットを続けていても、一度悪いショットを打ちスコアを崩すとどんどん深みにはまるのは、たいていのゴルファーが体験していることである。人間心理上、そう簡単に悪いイメージは吹っ切れないものなのである。
 そうなると、「吹っ切りの予防医学」が大切になってくる。これは影響を与えるほう、影響を受けるほうの双方にとって、あらかじめ意識しておくべきことであろう。しかし、予防法も行き過ぎると毒になる。人の忠告や警告を無視する唯我独尊態勢になってはいけない。厳しい言葉も勇気づけの言葉に感じられるような、信頼できる人たちに囲まれた生活を送りたいものである。

吹っきりのち復活⑨  「予防医学とリスクヘッジ」

 

2002.5~2003.4

吹っ切りのち復活⑨

「予防医学とリスクヘッジ」

ばんぶう

2003.1

日本医療企画


「これからは予防医学の時代だ」とは、最近の健康関係の話題でよく登場する言葉である。私の医学事務所では、健康な時から、「病気にならないような対策」や「病気になったら医師や病院を誰やどこにするか」などの「予防医学的行動」のプロの“ブレ-ン”としての主侍医契約を職務としている。予防医学的行動こそ身近なリスクヘッジ行動の代表である。ところが、どの分野でもこのリスクヘッジほど難しいものはない。それぞれの分野の一流のプロは、リスクヘッジを心得ているものである。いやむしろ、リスクヘッジをしっかりこなしている人こそ、その分野のプロとして信頼してよい証であるといっても過言ではない。
 リスクヘッジとは、簡単に言うと「可能性は低いかもしれないが、自分の予想と反対の事態が起こっても、損失を最小限に食い止めるためにあらかじめ行う対策」となる。素人から見れば「予想に自信がないから」とか「無駄な行為」に見えることこそリスクヘッジと呼べるものであろう。例えば「株は底値だろうから買いましょう」と證券マンが進める場合、全財産で買うのでなく、定期預金や債権などへの分散投資を説くことが多い。これはポートフォリオと呼ばれ消極的なリスクヘッジである。本格的なリスクヘッジは、「株は底値だ」という予想に反して一部の株を売っておくという行為である。私も含め素人は、そのような行為を自分では決断しにくし、株が全面高になれば、きっと損をした気分になるであろう。
 「万一の場合は必要だが、使わない可能性が高いし、使わないで済むほうがよいと思うものに投資する」ということは、よほどの冷静なインテリにしかできない行動である。「吹っ切りのち復活」が難しい我々人間の命であるからこそ、リスクヘッジをプロに委ねたいものである、と今回のお話は自己宣伝になってしまった。

吹っきりのち復活⑩ 勇気ある撤退、みじめな敗退

 

2002.5~2003.4

吹っ切りのち復活⑩

勇気ある撤退、みじめな敗退

ばんぶう

2003.2

日本医療企画


「吹っ切り」というテーマで、いろいろなことを考えてきた。毎年、自分に与える年間のテーマを考える際に、自分の弱点をカバーしていくような言葉を考えつくのかもしれないとつくづく思う。私の好きな言葉であり、自戒の言葉でもあるものに「勇気ある撤退」がある。前に突進して進むことしか考えないのを勇気ある行為と半ば勘違いしていたと、数年前から反省することが多い。そのずっと以前から友人などには、「時には勇気ある撤退も必要だ」などと偉そうにアドバイスをしていたのに、なかなか自分のことではそれが実行できないのである。吹っ切りが簡単そうでいて、なかなか難しいということなのであろう。世の中には「似て非なるもの」が多く、その両者はまるで正反対の意義を持つ事がしばしばである。「撤退」が何故難しく感じるかと言うと、「敗退」と似ているからなのであろう。人間誰しも、負けて退くことはなるべくしたくないもの。しかし「撤退」は、いわば「負けるが勝ち」というか「負けるが価値」というか、堂々と退くことなのである。それを賛美する気持ちを込めて「勇気ある撤退」なる言葉が使われるのであろう。世の中を見渡してみると、政治の分野でも、経済の分野でも撤退の美学を感じるような場面にお目にかかることは少ない。○○党を辞めたといっても、××党に転属し同じようなことをしているといった具合である。引き下がるのにもエネルギーが要るから、力のあるうちに引き下がる必要がある。  軍隊が戦いのためにいろいろ準備した物を撤去して退くということが、「撤退」の語源らしい。敗退は、力尽きて退くことである。とても次の手立てを考える余裕がない状態である。敗退しないためにも、「勇気ある撤退」を常に念頭におきながら「怖がりの前進」をすることを心掛けて、日頃の行動をしたいものだと自戒している。

吹っきりのち復活⑪  吹っ切りお勧めリスト

 

2002.5~2003.4

吹っ切りのち復活⑪

吹っ切りお勧めリスト

ばんぶう

2003.3

日本医療企画


いろいろな場面を想定しながら吹っ切りの効用について書いてきた。総括第一弾として、読者の方々に役に立ちそうな吹っ切りアイテムをまとめてみよう。それらから撤退することにより、人生や生活が豊かになりそうな「もの」や「こと」を思いつくままに列挙してみたい。 「慣習的な接待」「愚痴いろいろ」「反省のない後悔」「不要不急のだらだらメール」「携帯電話」「タバコ」「必要以上のお金儲け」「子供の過保護」「上司の悪口」「部下への溜息」「仕事上最低限以外のパソコン操作」「惰性的な年賀状」「つけっぱなしのテレビ」「業務以外の実用書」「憎しみと疑い」「老後の過剰な心配」。次に、比較して欲しい吹っ切り方法の一例である。「目的明瞭な接待」「辛いことにも味がある」「受け入れと反省」「緊急メール・連絡メール」「固定電話の活用と余裕のある約束・スケジュール」「時々の葉巻」「使い道のある範囲内の収入」「子供への無条件な愛情」「上司への忠誠と進言」「部下への愛情に基づいた厳格な教育」「脇役的パソコン使用」「全部手書きの年賀状」「見たい番組を決めてみるテレビ」「役に立たない探偵小説や純文学や歴史探訪書など」「憎しみ・疑いからは逃げる」「老後への必要十分な備え」。
 私が医療決断の支援という仕事をしていて分かったことは、人間にとって最も嫌なことは「不安」だということである。吹っ切りの効果は不安を振り払うことに重点がある。今回のリストは、それぞれ意外と奥が深い。例えば、10年前には「携帯電話」をほとんどの人は持っていなかったし、無くても生活が成り立っていた。今は持たなければ不便による被害は甚大であろうが、その代わり得られる吹っ切り効果も多岐にわたる。そのリフレッシュ効果は絶大と想像する。読者諸氏も1ヶ月ほど試してみてはいかがであろうか。

吹っきりのち復活⑫  ボーダーレスとけじめ

 

2002.5~2003.4

吹っ切りのち復活⑫

ボーダーレスとけじめ

ばんぶう

2003.4

日本医療企画


一年間「吹っ切り」ということを考えてきたが、いかに吹っ切ることが難しいかが、我ながら返って身にしみてきた。考えてみれば、今の世の中「ボーダーレス時代」といわれ、物事や場所などに境界が存在しないことを良しとする風潮がある。航空機事情が発達し、異国の間が短くなった。むしろ、「異国」という言葉自体がエキゾチックではなくノスタルジックな言葉に聞こえる。さて、このボーダーレスだが、文明の発達の証だと手放しに大歓迎するべきものであろうか。確かに、多くの分野で、ボーダーレスの概念は人間に幸せという価値を与えてくれている。バリアフリーやユニバーサルデザインという考えがその代表であろう。一方で、「けじめ」という、日本古来の考え方がある。日本中、いや世界中どこでも同じコンビニがあり、ハンバーガーショップがあることは安心で便利かもしれないが、「ここには絶対にコンビには無い」という町や国があってもよいと私は思っている。そんなことは、都会人や文明国のエゴだという御仁もいらっしゃるであろうが、ただ闇雲に、商売、ビジネスという名のもとに、世界中の片隅まで便利文明を「今やビジネスはスピード」とごり押しするのはどうであろうか。
 「けじめ」の辞書の説明の一つに「節度ある態度」とあった。私自身、自分で言うのもおこがましいが、どちらかというと「マルチ人間」で、境目の無い広い視野が必要だ、と日頃から主張している。その結果、私自身、医師であったり、作家であったり、医療ビジネスコンサルタントであったり、教師であったりと、多彩と言えばかっこよいが、ジプシーのような生活を送りほとほと疲れている。実は、これからの人生、少しけじめをつけてみようと密かに考えている。「ばんぶう」のこのコラムエッセイは、読者の方へのメッセージでもあるが、言うまでも無く自らへの警鐘なのである。

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