魂を売らないということ

魂を売らないということ① 安易な道、困難な道

 

2005.5~2006.3

魂を売らないということ①  安易な道、困難な道

ばんぶう

2005.5

日本医療企画


今年のタイトルは何にしようかと迷った。例年、自分に言い聞かせるキーワードをタイトルに1年間エッセイを書くことにしている。昨年は「顔馴染み」をキーワードとして意識して活動してきた。もちろん、今までタイトルにしたことは有効期限1年ではなく、無期限であるつもりだ。そういう意味でも、今年のタイトルは「悪魔に魂を売らない厳しさ、信条」としようと考えた。
1年間「悪魔」という文字を見るのも辛いだろうから、若干ソフトにしたつもりである。
 自分も含めて最近の世の中、なんと自分の魂を安売りしていることの多いこと、とため息が出てしまう。
携帯電話、インターネット、コンビニと究極の便利文明クッズが世界中で繁殖していることが大きな原因の一つだと考えている。情報が氾濫し、一人でも生きていけると勘違いしてしまうような文明において「自分が可愛い現象」が強化されすぎてきているからだろう。かつて、昭和初期までは身分制度に基づく戦争などにおいて「自己犠牲」を強いられた歴史がある。もちろん自己犠牲は強制されるべきものではない。前々回のエッセイで言及した人柄力という個人の能力のなかの一つに「自己犠牲力」を加えた。そういう意味では、便利文明のなかでは「人柄力」が発揮しづらくなってきた
のかもしれない。中途半端な「人柄力」は、いわゆる馬鹿を見るだけになるからである。周りの様子を虎視眈々と見て、馬鹿を見ないように我先に「自分可愛い」を実行してしまう。そして、それが連鎖反応を起こしてしまうのである。昔観た映画に、アル・パチーノ主演の「セント・オブ・ウーマン」というのがあり、そのなかで彼が「人生の分岐点では難しい道と簡単な道が目前にあることが多く、多くの人は簡単な道を選んでしまうものだ。たいていの場合、難しい道のほうが正しくて、実はそのこともわかっているのに」

「自分のことは棚に上げて」という批判を覚悟で、1年間このテーマのエッセイを書いていきたい。

魂を売らないということ② 魂の価値

 

2005.5~2006.3

魂を売らないということ②  魂の価値

ばんぶう

2005.6

日本医療企画


一般に「物を売る」ということは、そのものに値段が付いている。または、売り手と買い手がいて需給関係で-応の値段が付く。我々が、「魂を売る」時はどういった価値基準で取引を行っているのだろうか。最近、「ライブドア対フジテレビお家騒動」がマスコミを賑わした。随所に「魂のバーゲンセール」や高級品に見せかけた「魂桐の箱詰め商法」が見られたことには、異論を唱える人が少ないと思う。「やっぱり、魂にも値段があったんだ」ということになろう。では、高く売れる「魂」に価値があり、安くしか売れないものは価値が低いのであろうか。また、そう安くは売らない「魂」がお値打ちであるのか。「魂」の売れ残りとはどんなものなのか。「魂」を商品と仮定して考えると結構面白いし、理解がされやすい。
 私のこの欄でのエッセイを振り返ってみると、決してその通り実行できているわけではない。しかし、私が願っている生き方であることは間違いない。「温故知新、歴史からいろいろ学ぼう」「正しい生き方から美しい生き方へ、法律の隙間を狙うよりかっこいい生き方をしたいなあ」「質実剛健、ぼろは着てても心は錦がかっこいいなあ」「少数精鋭主義、大きいことはいい時代は終わり、でもまた、最近その傾向になってきたけれど」「常識に照らす、物事の判断は結構優しく常識的に考えることだ、科学的研究の仮説でさえそういうことが多い」「吹っ切りのち復活、心の切り替えは過去の心の清算や受け止め方の歪みの訂正からやるのが心理療法でも基本」「一生懸命足るを知る、文明の利器に溢れたこの日本で足るを知るには努力がいるんだ」「グローバルより顔馴染み、身近な近くの人を大切にしてこそ、多くの人に貢献できるようになるんだ」。こういったことに反論する人は少ないだろうが、「自分のことを棚にあげて」と批判する人はいるだろう。自分を棚に上げることは、「魂」を高い商品棚に上げて、値段こそ「オープン価格」だが、売るつもりはないという自己確認の第一歩なのでは、と考えている。

魂を売らないということ③ 魂の維持費

 

2005.5~2006.3

魂を売らないということ③  魂の維持費 

ばんぶう

2005.7

日本医療企画


「医者と弁護士と坊さんは、特に誠実でなければならない。なぜならば『人の不幸をもとにしての職業』だから」。私が尊敬している友人の医師Nさんが生前よく言っていたことである。私自身、職務に苦しくなって「少しぐらい魂を売ってもいいかな」と思いたくなった時に自分に言い聞かせる言葉である。彼のことはこのエッセイで以前に紹介したが、アルツハイマー病の世界的研究者であり、47歳の若さで胃がんにて他界した。その晩年、私は彼の病床で「そうは言っても長く生きていると、お互い徹底的に許せなく嫌な人間ができてきたよね。努力して自分がつくる薬や医療の仕組みがそんな人たちをも同様に助けると想像したら、最近では熱意が急に冷めそうになる気がするんだ」とこぼしたことがある。彼は「そうだね」と笑って同意した。
 その時、医学研究者として鋼鉄の熱意を持つNさんでも、私のような凡人と同じように感じることがあるのだと安堵したものである。「問題は、そういった気持ちをどのように処理して熱意信念を持ち続けるのか、ということだね」と話し合った。その時の答えは、同じ信念を持った仲間だけを見つめることかなあ、ということだったと記憶している。この辺のことが魂を売らないで維持していくことのコツなのかもしれない。
言い換えれば、魂を維持していく費用は相当なものになるということになる。そんな信念を持った仲間を探すのは-朝一夕にはいかないからである。一般に物を維持するには「保存」「手入れ」が必要である。そして何より大事なことは、その物を日常的に適度に使い込むことも大切である。万年筆でも、車でも、家でもそうである。使わないで置いておくだけだとかえって痛みが早いものである。また、使いすぎもいけない。
こうなると物よりはるかにデリケートな魂は制作費より、維持費のほうが高くつくことになりそうだ。神様は、魂の維持可能期限を最大でも80年くらいに設定したのかもしれない。

魂を売らないということ④ 再度、オセロ型 敵対反応とは

 

2005.5~2006.3

魂を売らないということ④
再度、オセロ型 敵対反応とは

ばんぶう

2005.8

日本医療企画


以前、このエッセイのシリーズで「オセロ型心理反応」と題した文章を書いたことがある。共感したり、同情したり、親しく接していた人が、何かのきっかけで一旦敵対したとたんに、今までの共感とは裏腹に「あいつはこんなことを言っていた」などと正反対の反応をすることがよくある。オセロゲームで一つの駒を白から黒に変えるだけで、ぱたばたと周辺の白い駒が、一気に黒に変化するのと似ていることから私が命名した心理学的反応であるが、人の心が傷つく大きな要因の一つである。
 親友同士や夫婦や親子の間でこの反応が起こるとしばしば致命的になる。また、それに介すると「夫婦喧嘩は犬も食わぬ」という格言どおり痛い目に遭うことになる。なぜこの反応が起きるかと考えると「結果よければすべてよし」の反対の心理反応であり、今現在、信頼を裏切ったり意見が対立することにより、過去同じ考えであったり、賛同したことまでも否定してしまいたくなる気持ちの表れである。「坊主憎けりや袈裟まで憎い」に近いがもっと醜悪なものである。この反応を起こす人には「演技性性格」の人が多く、迫真の演技をすることが多く、周囲の人は騙されやすい。恥ずかしながら心理医学の専門と自称する私も何度か騙されて落ち込んだ経験がある。裏を返せば、人から信頼される人間になる最低の条件は、このオセロ型敵対反応を少なくとも自分自身は起こさないことである。人と意見が対立したり、友達も嫌いになることもあろうが、過去の共感同意したことまでひっくり返すことはしないことである。対立する自分の意見をはっきりと表明するのとこのオセロ反応とは似て非なるものである。
 オセロ反応を示す人の口癖であるが「自分に正直になって考えると…」と前置きして、平気で過去を覆すのであるから怖い。こういった人々とは距離感を置くことが大切である。私の経験では、つくり笑いが得意な人に多く、一見優しそうで無害に見えるから注意が肝要である。常設の
魂バーゲンセールに近づく無かれ。

魂を売らないということ⑤ 魂を入れ直すことは可能か?

 

2005.5~2006.3

魂を売らないということ⑤
魂を入れ直すことは可能か?

ばんぶう

2005.9

日本医療企画


《ある程度可能だとしても、そのプロセスは非常に難解》

生活習慣の改善でさえとてつもなく困難な作業

つい先日、大学の同窓会の企画で、単に先輩と呼ぶには、今や有名になりすぎた養老孟司先生の講話をお聴きするチャンスに恵まれた。

 そのなかで「血液型性格判断が本当なら、まあ一生血液型は変わらないことになっているから、性格も変わらないことになります。ナンバーワンよりオンリーワンなんていうけれど、誰も同じじゃないから誰もオンリーワンだし、逆に誰も(人間という意味では)同じなんです。無意味なことを何でもやみくもに英語で言えばいいというわけではないですよね」と、いうようなことを持ち前のユーモアの香辛料として使われていた。思わずその通りだなあと心の中で拍手をした。
 よく「根性を入れ直す」とか「魂を入れ直す」などと使われるが、大体からしてそんなことは可能なのであろうか?
 人の能力や性格などを評価する時に「遺伝」なのか、「環境(教育)」なのかとよく論議される。その結論は未だに出されていない。いろいろな病気の原因についても同様である。遺伝なのか、環境(生活習慣)なのか。ほとんどがその両面により規定されている。病気の場合、遺伝による病因の変換は現在までのところ不可能とされている。(今後は、遺伝子治療で変貌してくるだろうが)。
 だから、病気予防には生活習慣改善が何よりも優先される。そのためには病気の認識がとても大切で、そうでないと生活習慣改善という、とてつもなく面倒で、骨折りで快適性に欠ける取り組みは持続しない。
 同様に、魂を入れ直すために、遺伝子を入れ替えるのは不可能で、環境改善や教育変容により試みることになるが、それはたいへん困難な作業となる。現状の魂の問題点を深く認識しないと、やはりそんな難解で面倒なことはしないものだ。自分の魂の欠陥を知ることになる一大事件が起きるか、偉大な教育者が現われるかのどちらかであろう。
 しかし、サリン事件を思い起こせば、時には人命救助を本業としてきた善良な医師を大量殺人鬼にしてしまうような「逆・魂の入れ直し」もあるから気をつけなければならない。

魂を売らないということ⑥ 科学的職人である医師

 

2005.5~2006.3

魂を売らないということ⑥  科学的職人である医師

ばんぶう

2005.10

日本医療企画


《“手を抜かない”“あきらめない”“やりすぎない”を肝に命ずべき》

信頼できる医師の定義は極めて困難

医療決断のお手伝いをする「主侍医」という私の仕事にとって、信頼できる医師仲間と親密な関係を継続的に保つことを要求される。
 この「信頼できる医師」の定義はきわめて難しい。学歴、肩書きだけでは判断できないことは、今や誰もが承知している。あちこちで「名医」が取り上げられる。そんな「名医」をただ集めればよいかというとそれだけではうまく機能しない。私はクライアントの医療決断のお手伝いをして、その結果に基づいて診療をゆだねる医師を探すわけだが、単にその専門分野の有名な「名医」に紹介状を書けばよいというわけではない。
 まず、その「名医」と専門家同士としての関係を築いている必要があり、さらに人間としての良好な関係も維持していないと、大切な患者さんを紹介し、共同診療をしていくことは困難である。今までに1,000名以上の医師たちと交流を持ち、いつでも快く患者さんの紹介を受けてくれる専門医たちが数百名はいる。
 もちろん、すべての医師をスキャンしたわけではなく、出会った医師の繋がりを大切にしていった結果だから、非常に偏った集団ということになる。そんななかの友人の医師が「お前の目で見て、確かと思われる医師だけでいいじゃないか。それが確実で、その医師の繋がりを大切にしていけば十分でしょう」と言ってくれた。私自身、事務所の零細で不安定な運営を脱却するためには、もっとシステマティックな信頼の専門医ネットワークができればと思っていたが、別の友人も「それは無理。お前しかできない手作りのネットワークだからこそ値打ちがある」と励ましてくれた。
 手前味噌の前口上が長くなってしまったが、私の「信頼できる医師」の基準はなんだろうかと自問してみた。自分が患者になった時を想定してみた。どんな些細なことも面倒な時でも絶対に「手を抜かない」でほしいし、どんな困難にぶつかっても決して「あきらめない」でほしい。そんなことは医師として当たり前でしょう、とお叱りを受けるかもしれないし、医師以外の職業ても同様であろう。しかし、この当たり前こそが難しいと私は思っている。そして、医師の傲慢に陥らないよう、「やりすぎない」ことも自然の摂理を大切にした科学的職人である医師にとって肝に命じるべきであろう。「手を抜かない」「あきらめない」「やりすぎない」が医師魂だとつくづく思う。

魂を売らないということ⑦ 当たり前の原点に戻って考える

 

2005.5~2006.3

魂を売らないということ⑦
当たり前の原点に戻って考える

ばんぶう

2005.11

日本医療企画


《助けてくださいと連呼する政治家へっぴり腰の医師》

選挙戦のなかで気づいた候補者たちの異様な光景

今回の総選挙は歴史に残りそうな選挙であった。小泉首相が郵政民営化の成否を賭けて行った解散に基づく選挙であり、自民党が圧勝をおさめた。大方の予想通りであったが、自民造反議員、刺客と呼ばれた候補、政権を狙う民主党の三つ巴という、 対岸の火事の立場からはおもしろい選挙となった。
 壮絶な選挙戦のさなか、テレビに映る候補者たちは、いつものごとく「お願いします」「ありがとうございます」の連呼である。そのなかでも印象的な言葉は「私を助けてください」であった。どう考えても異様な光景のはずなのに「がんばれー」と素直に声援する民衆。あまりにも変だ。そしてそれに気が付かないのはもっと変だ。
 元来、政治家は国民を助けるために身体を張って働いてくれるから、国民は政治家を尊敬し感謝するのが当たり前ではなかったか。そんな建前をいまさら言うのは子どもじみている、と思う読者の方も多いであろう。しかし、夢の少なくなった今の日本を何とかするためには、当たり前の原点に戻って考えることが必須ではないだろうか?
 先日、高名な医師であり有名な病院の元院長でもあるH氏と宴席でお話しする機会を得た。明快に日本の医療システムの不備について自身の見解を述べられ、とても勉強になった。そんななかでも、マスコミの責任が大きいことに言及され、医師や病院を
訴えるケースが増加の一途であることを嘆かれた。「こんな風潮だから、“へっぴり腰の医師”が増えて、患者さんのためと思っても思い切ったことや新しいことへのチャレンジを避ける傾向になった。医学生も卒業後、救急部門や外科部門を選ぶ人が極端に少なくなってきた。このままでは医療インフラが崩壊する」
 私は“大丈夫だと言えなくなった医師”という言葉を提唱し、医師と患者の信頼関係の没落を嘆いている。大丈夫だと言えないかわりに、「あなたがこの手術で死亡する確率は一%です。それでも受けるかどうかはあなたが決めて下さい」と患者に伝えることになる。統計学的、インフォームドコンセント的には後者が正しいはずだ。「私に任せれば絶対大丈夫だから」と安心させてあげることは時に訴訟の標的ともなる。

 「最近、初診で来られる患者さんが怖くて。挑戦的な感じだし、録音機を忍ばせている人もあると仲間から聞いたし」と本当に怖そうに話された医師の鑑のような大学の先輩の言葉がリフレインする。 

魂を売らないということ⑧ 夢をみるには力が必要

 

2005.5~2006.3

魂を売らないということ⑧
夢をみるには力が必要

ばんぶう

2005.12

日本医療企画


《医師や医学生の夢を育てる社会のまなざし》

力のある医師は夢をみなくなる?

「ホネツギマン」という可笑しいタイトルの映画を観た。好きな脚本家の一人であるイーサン・コーエンが製作に加わっているということで興味を持った。しかし、今日のテーマはそのあらすじにはあまり関係ない。登場人物のセリフのなかで「夢をみるには力が必要なんだ」というようなセリフが気になったからである。
 夢をみるだけなら空想力以外の力なんか必要ない、と思っていただけになるほどと思った。医療を少しでもよくするために、あれこれ試みてきた私が疲れ果てているのは、これだったとわかったからだ。夢をみがちな私にとって、その力があまりにも不足しているから困難を乗り切った直後はへとへとになってしまい、肝心な時にエネルギー不足になるのだ。
 どうしたらよいのか? 答えは二つ用意されている。「夢をみない」か「力をつける」かという単純な二者択一である。若干、負け惜しみの嫌いがあるが「力があると夢をみなくなる」のではないだろうかとうすうす感じていた。国のために犠牲奉仕の精神でと思っていた政治家が議員バッジをつけたとたんおかしくなるように、医師も免許を取った途端に傲慢になるのであろうか? 人の命を救うことが夢であると医学生や医学部を目指す子どもたちは心に誓っていたはずだ。
 私が医学生に医療判断時の心構えについての集中講義をはじめて一〇年、その生徒は総勢一〇〇〇人になるが、多くの生徒たちの純粋な心に触れて感動してきた。この子たちが、マスコミで叩かれるような傲慢な医師に変貌するとは信じがたい。そもそも私の知りうる限りでは日本の医師の多くは非常にモラルが高く、彼らの献身的な努力により日本の医療レベルの水準が保たれていると私は信じている。一部の医師のモラルの低さや傲慢さが余りにも注目され、マスコミによりミスリードされているのではと苦慮している。
 現場で実際に働く多くの医師は、患者さんの健康回復という夢のために腕を磨き、時間と労力を捧げている。私利私欲のために医師稼業をしているのは圧倒的少数派であることを国民はもっと理解し、国民全体で心ある医師や医療スタッフを支えていくことこそが安心できる医療を築く唯二の道であり、ハイテクによる医療システムに、最終的には答えはないと私は考えている。

魂を売らないということ⑨ 「うずしお」に思う

 

2005.5~2006.3

魂を売らないということ⑨  「うずしお」に思う

ばんぶう

2006.1

日本医療企画


《信念を通すか、曲げるか、持たないか、それとも》

人間社会にもある渦と凧 信念ある場所に渦が生じる

鳴門の大塚美府館を訪れたついでに、観光船に乗り「うずしお」を見た。鳴門海峡に行けはいつも渦潮か見られると思っていたが、そうではない。一日のうちでも見頃の時か決まっている。潮の干満の時間によるものである。
 博識の読者諸氏には聞知のことであろうが、渦潮の出現するメカニズムから考えると当然のことであろう干満の潮の流れと地域的な潮の流れが複雑に路み合って渦潮を発生するというのである。鳴門の渦潮を見た人は多いと思うが、不思議な光景に感じたのは、渦潮の発生する場所が激しく皮立っているのに、ある部分か
ら外側は全くの凪の伏能であるということだ。

 「ウーン、何かに似ているなあ」と思った。潮と潮がぶつかり合うところは激しく波立ち、どちらも譲り合わない時には渦を巻いてしまう。ところが少し離れたところては、まるでその波立ちや渦は嘘のよっに平穏な凪である。人間社会でも全く同じではないか。
 思想と思想がぶつかり合う。大変な荒波が立ち、双方譲り合わなければ周りを巻き込む旋風となり、時に人は殺し合う。ところがその同時期に、コンビニの前で尻餅をつき携帯電話でたわいもない長話をしている人々かがいるこれは規模の大きな例えだが、卑近な例はたくさんあるだろう。
 信念を通して戦わず、魂を売って傍若無人を決め込む輩を非難するために「うずしお」の話を書いていると読者は思うわれるであろう。確かに今までの私のエッセイの流れからするとその通りである。しかしなから、私の心のなかではまさに渦か巻いているのである。
 私事で過去を振り返ってみてもなんと数多くの渦をつくつてきたことかと我ながらあきれ返ってしまう。
最近は「年齢のせいか荒皮や渦から離れて、凪の世界でのんびり暮らすのもいいなあ」と家族や友人にこぼすことが多くなった。たいていの場合は「私はそう願いた
いけれど、あんたには無理よ」「そんなことをするとお前は退屈で死んでしまうよ」と言い返されてしまう。今のところは私も修業が足りず、その通りかもしれないが、「今に見ていろ。僕だって優雅な暇を味わう風流人になってみせるぞ」と心のなかで叫んでいる。

魂を売らないということ⑩ 何と比較するのか

 

2005.5~2006.3

魂を売らないということ⑩
何と比較するのか

ばんぶう

2006.2

日本医療企画


《リニアモーターカー 加速減速錯覚相対性理論》

比較評価と絶対評価 人間の順応力に驚く

「取材旅行」と言えばずいぶん格好よい響きがあるが、エッセイのネタ探しを兼ねて今年は国内各地に行った。その流れで先日上海を訪れた。目的の一つはリニアモーターカーを体験してみることでもあった。「世界に誇れるもの」を体験することはホスピタリティーの研究には欠かせないと思っているからだ。
 駅はずいぶんあっさりとしたもので、東京モノレールの駅より閑散としている。お祭りのような雰囲気のな
かを搭乗するのかと想像していたが、若干期待はずれである。とにかくそのスピードを体験しに来たのだから、余分な飾りの部分はよろしい、とわくわくしながら乗り込んだ。シートベルトでもあるかと思っていたが、なんの変哲もない三人がけシートである。
 車内には速度を示す電光掲示板がある。一〇〇km、二〇〇km、とみるみる上昇。もっと静かなのかと想像していたが結構騒音がある。三〇〇kmぐらいのときは「さすがに速い。このスピードでは車の運転はできないなあ。やはりF1ドライバーはすごいんだ」と思った。三五〇kmを越えたあたりからすこし怖い感じがしてくる。最高速度の四三〇kmになると、ただ乗っているだけでも洛ち着かない気分になる。長時間乗ると神経も相当疲れるだろう。幸いにも最高速度を数分間保った後、あっという間に終点が近くなり減速を始めた。三五〇km、三〇〇kmとなると、「あれっ? このスピードだと車の運転が出来そうだ」と感じ
るではないか。二〇〇kmとなるとバイクでも付いていけそうだと感じ、
一〇〇kmの時は自転車でも追い越せそうに感じてしまった。ほんのわずかな出来事の問に、我々人間の感覚は混乱をきたしてしまったのだから驚きである。私だけでなく同乗した数人の仲間も同じように感じたらしい。人間の順応力の素晴らしさであろうが、ひとつ間違えばすごく怖いことになるかもしれないということになる。強烈な刺激であるはど、この慣れ現象は起こりやすいのであろう。
 人間の並外れた能力の一つに「比較評価」というものがあると私は考えている。反面、「絶対評価」がすこぶる苦手なのも人間であるまいか。
 つい先日、友人であり世界的なアルツハイマー病研究者であったNさんの三回忌に参列した。「幸せは追い求めてはいけない。欲になるからです。手に入るとすぐにそれだけでは満足できなくなるものです。幸せは拾うものです。どこにでもあるものなのです。その時その時に感謝することです」というお話をお坊様からお聞きし、幸せの絶対評価が出来ることこそ、幸せの基本条件なんだと自戒した。仏つくつて魂入れず、成功しても幸せならず。

魂を売らないということ⑪ お金には印がついている

 

2005.5~2006.3

魂を売らないということ⑪
お金には印がついている

ばんぶう

2006.3

日本医療企画


《日々着実に地味な仕事を実行し 稼いだお金に魂の透かしを入れる》

3つの戒めを守る医師がスーパードクターの条件

このテーマでの最終回になった。執筆している今は、ライブドアショックから一週間経ったところである。

一カ月ほど前、「患者さんとの関係」をテーマにした、若い医師向けに医師の心構えについての話をするセミナーの依頼があった。大体、この手の話は「自分のことは棚に上げて」するのが相場である。そのセミナー用に作成したスライドの一部をご披露する。
 タイトルは「誇り高きカッコイイ医師になろう」。近頃、特に日本では「カッコイイ」偉い人が少なくなった。お洒落で格好いい人は多くなったけれど。服や化粧品や宝石では「カッコイイ」人はつくれない。
 スライドの最後のほうで、「なぜ、今年の箱根駅伝で順天堂大学の難波選手がカッコよかったのでしょうか」「そうです。決してあきらめなかったからです」「なぜ、姉歯建築士たちはカッコわるかったのでしょう」「そうです。プロなのに手を抜いたからです」「なぜ、六本木ヒルズ族と呼ばれる大富豪たちは、そんなにカッコよくないのでしょ
うか」「そうです。やりすぎだからです」というやりとりをつくつた。まだライブドア事件の前だったから、こういったシヤレも通用した。こんな大事件になってしまったので、このスライドは若干変更しなければならなくなった。
個人的にも迷惑な話である。
 私は、常に医師として「手を抜かない」「あきらめない」「やりすぎない」を自戒している。こんな当たり前のこ
とを守り抜くことは相当難しいのが現実である。しかし、自分の身体を任せたい医師は、この三つをきちんと
守ってくれそうな人である。こんな地味なことを毎日着実に行っている多くの医師こそ、スーパードクターなのである。
 彼らのお陰で、日本の医療は世界的にみてもその偏差値は抜群に高い。彼らがコツコツと稼ぎ出す診察料と、
錬金術のような六本木ヒルズ族のお金と、有名スポーツ選手の高額契約料などを比較してみると、「お金に印
がついている」と言わざるを得ない。印がついていると考えると、「まあいろいろあるからね」と妥協的理解がで
きる。自分は「魂」の透かし入りのお金を稼いでいるのだと家族やスタッフに言い訳している。
 医師としてはともかく、プライベートでは前の二つを守りすぎるあまり、若干「やりすぎ」気味であることは深
く反省しているところである。 

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