グローバルより顔なじみ

グローバルより顔なじみ① 幸せなグローバル、不幸せなグローバル

 

2004.5~2005.4

グローバルより顔なじみ①
幸せなグローバル、不幸せなグローバル

ばんぶう

2004.5

日本医療企画


新しいテーマを考える時期になった。毎年この時に、自分自身に言い聞かせたいことを1年の題目としてモチーフづくりをしている。数年前より、仕事上においてもプライベートな場においても「グローバルな時代に対応しないと…」とよく言われる。周囲もなんとなく「その通り」とうなずいている。実はこのところ、私はこの「グローバル」ということに大変疑問を抱いている。
 確かに、国内にしても世界にしても地域に限定されない人間同士の触れ合いが可能になったことは、人間の叡智の結晶であろうし、楽しいことでもある。半面、最近よく起こる社会問題をスキャンしてみると、相次ぐ医療ミス、BSE問題、京都の鳥インフルエンザ事件、森ビルの回転ドア、世界同時不況、イラク戦争とテロなど、グローバルなゆえに顔がよく見えなかったり、必要以上に拡大肥大しやすいことから端を発している事象が多い。
 個人的な好き嫌いで恐縮だが、私はアメリカという国は好きではない。見習うべきところは多く、私の専門分野においても随分と参考にはさせていただいているし、アメリカ人個人個人は好きな人が多く、映画はハリウッド映画かイタリア映画が大好きであるのだが。私は、昨年50歳を迎え、公私において「個別材料づくり主体」から「組み立て主体」へ活動の中心を移そうと目論んでいる。若干逆説的ではあるが、その時の心構えの中核に「グローバルより顔馴染み」を据えようと考えている。
顔馴染みを大切にできないようなマインドにグローバルなどという高邁こうまいな精神は育たないという自戒である。目の前の人と話している最中に、携帯電話ばかり気にしている姿はみっともなく卑しく感じるのは私だけであろうか。もっとも仕事で呼び出されるためだけに携帯電話を持たされている人がいるとしたら、その方々には別次元の話であり、文明の利器による過剰労働「まことにご苦労様」である。

 

高邁こうまい…けだかく衆にすぐれていること

グローバルより顔なじみ② 顔馴染みは双方向、有名は一方通行

 

2004.5~2005.4

グローバルより顔なじみ②
顔馴染みは双方向、有名は一方通行

ばんぶう

2004.6

日本医療企画


「グローバルなんて気取るより、これからの僕は顔馴染みを大切にして、こじ んまりと生きてゆきたいと考えるようになった」と、最近、話すことが多い。すると、意外や意外、「私もそう思います!」と友人たちから賛同共感の嵐(少し大袈裟か?)なのである。心理学でいうところの人間関係の基本は「ストローク」と呼ぶ人間同士の触れ合いである。つまり、一番基本的日常的なストロークは「挨拶」ということになり、「おはよう」「ありがとう」「よおっ」などがそうである。反対に、マイナスストロークの最大のものは何であるか、想像がつくであろか? 悪口、陰口、中傷、攻撃などではなく、答えは「無視」、つまり「しかと する」ことなのである。
 世の中、マスコミやテレビの一人勝ちの様相が強い。有名になることが勝利のように見える。日本人やアメリカ人などは概して有名人に弱い。実際の家 族や友人のことよりも、芸能人の私生活のほうをよく知っている人も冗談では なく多い。たとえば、料理の鉄人の店などといって、こちらは相手を知っていても、向こうはこちらを知らない。平たく言えば、どんな人が食べるかもわからず料理をしていることになる。有名人とのストロークは実は一方通行なのである。お互い顔の見えないことを嫌って、インターネットでも「顔の見える販売」などといって、製作者や店長の顔や人柄が見えるような販売形態をとって人気を博しているところも多い。しかし、これも所詮は一方通行のストロークである。
 ところが顔馴染みの人とは、双方向のストロークを持つことができる。この両者のストロークの質には雲泥の差がある。質の高いストロークを体験してこそ、人間の心は成長するし、大体からして人間らしい面白みがある。携帯電話、メールでしか話せない若者、仮面をかぶってしか人と接することができない歪んだ大人たちは双方向のストロークが欠如しているといえるのではないだろうか。

グローバルより顔なじみ③ 割れ窓理論に思う

 

2004.5~2005.4

グローバルより顔なじみ③  割れ窓理論に思う

ばんぶう

2004.7

日本医療企画


今やニューヨークは、東京よりも安全だと言われるようになった。数十年前のニューヨークを知るものにとっては信じがたい話らしい。自慢ではないが、私は、昔のNYも今のNYも知らない。聞きかじりとさまざまな報道や記事から想像しているだけである。昨今の日本、特に東京での生臭い事件報道を見るにつけ「少なくとも日本の安全神話はとっくの昔に崩壊している」と納得がいく。
 話を主題に戻そう。「割れ窓理論」について若干の説明をしよう。1970年代、犯罪学者ジョージ・ケリング博士が提唱した理論である。その一部から抜粋的に説明すると「割れ窓(割られた窓)とは、この言葉のとおり建物やビルの窓ガラスが割られ、そのまま放置しておくと、外部からは建物やビルは管理されていないと認識され、さらに割られる窓ガラスは増え、建物やビル全体が荒廃し、その結果、地域全体が荒廃していく」となる。では、割れ窓をなくすことで何が変わるのかというと「安全に対する住民意識が変わる」というのである。
 この理論を1994年はじめて実際に応用実行したのが元NY市長のジュリアーニ氏である。日本の犯罪学者小宮信夫氏は「犯罪を減らすためには、犯罪心理学など原因の探求ばかりに固執することより、犯罪が発生する機会を減らす工夫が大切であり、そのひとつに領域性ということがある。つまり、地域住民の結束感〈縄張り意識)を深めることが大事である」と話してくれた。「縄張り意識」というと、悪いイメージに使われがちだが、むしろ「まず隣近所を大切にしなさい」という人間社会として当然の教えなのだと私は考える。近所付きあいを忘れて、グローバルを連呼する日本の社会に犯罪者が混じりこんでも見分けもつきにくいし排除する力も弱い。日本版「割れ窓理論」や「領域性」は犯罪予防の分野のみならず、われわれ医療分野も含め、多くの分野で応用実施されることが望ましいと私は考えている。私の心の窓も若干修復が必要だなあ、と感じ入る次第である。

グローバルより顔なじみ④ 個人と集団の違いとは

 

2004.5~2005.4

グローバルより顔なじみ④
個人と集団の違いとは

ばんぶう

2004.8

日本医療企画


「三人寄れば文殊の知恵」という格言がある。凡人でも3人寄れば文殊菩薩のような知恵が出る、という意味である。これはこれで納得できるが、このことわざを捩もじって「百人寄ればサルの知恵」と私は変化球を使っている。弱い人間も集団になると結構怖い。小学校や中学校などの「いじめ」もたいていはこの図式である。子どもたちの集団が一人の子どもをいじめるのが通例であって、一人の独裁者的な子どもが他の子ども集団をいじめるというような話はあまり聞いたことがない。政治家でも医師でも銀行員でも一人ひとりに接すると、結構使命感も持っているし、適度に謙虚であったりもする。ところが政党や派閥や医局や大銀行貸付部などに所属するや否や、なんともまあ情けないくらいに変貌するから不思議である。私自身、そんな自分になるのが怖くて大学の医局を辞した経験がある。以後、一匹狼(羊?〉の悲哀をイヤというほど体験することになったのだが。最近、仕事上で、とても残念な体験をした。医療のビジネス化について、日本有数の大企業の系列の会社と論争をすることになった。「企業の目的の第一義は利潤追求」であり「医療の第一義は社会貢献」であるという、最近よくある論議であり、「株式病院論争」にも通じるものである。その企業の役員たちも、個人的には「企業の社会的責任」については深い理解を示す尊敬に値すべき立派な人物たちであり、私はどちらかといえば好きな方々であった。一方、私も「企業の利益追求」という立場は理解しているつもりである。ところが論争が私個人対企業という形になった途端、話がかみ合わなくなった。なんとか歩み寄ろうとしても「大企業であるわが社としては」とか「わが社の常務会で決まったことで」とか、誰の口からも同じ言葉が出るようになってしまったのである。昔、大学にいた頃、「医局の方針ですから」「教授会で決まったことですから」と患者さんの個人的な願いを退けたことはなかっただろうかと記憶を遡る自分であった。

グローバルより顔なじみ⑤ 策略は名誉の友よ コリオレイナス!

 

2004.5~2005.4

グローバルより顔なじみ⑤
策略は名誉の友よ コリオレイナス!

ばんぶう

2004.9

日本医療企画


先日、劇団昂のシェイクスピア公演「コリオレイナス」を観劇した。勇敢な武将であるが、プライドが高く、執政官に推薦されるも民衆への媚びた挨拶をどうしてもできない。「なんでも慣例に従ってやらねばならぬというのか? そうであれば昔からの塵がそのままたまり、間違いばかりが山のようにうず高く積もり、真実は埋もれかくされるだろう」
 なんとか息子を名誉ある執政官にしたい母親ヴォラムニアは説得する。その時の殺し文句が「策略は名誉の友よ」なのである。シェイクスピアを見るたびに、400年たっても、人間は同じことをやっているのだなあ、と思う。それだけ臨場感を持って語るシェイクスピアの凄さなのであろうが、人間の心自体は何百年も何千年も進歩していないのだと痛感する。意識しているか潜在意識かは別として「策略は名誉の友だ」と自己を納得させている利権政治家や出世ばかり考えるサラリーマンなど例を挙げればきりがない。私は、自分の身の回りに「策略は名誉の友」と思いそうな人を少なくとも半数以下にしたいと考えている。格好をつけて言っているのではなく、人生の後半に際し、数多くの(グローバルな)知人より、少数でも安心できる顔馴染みの友人たちと過ごす時間をなるべく多く持ちたいと考えるようになった。仕事でも、少数精鋭の信用・信頼できるスタッフとともに、心から信頼してくれているクライアントのために、身も心も知恵も捧げたいと願っている。人の価値観は同じようで人により随分違う。大きく分けて二つあるように私は思う。若干哲学的な表現になるが「自分に近い考え方の人々」と「その反対の人々」である。もちろん、時には「ブルータスよ、おまえもか?」とがっくりくるのは仕方のないことではあろうが。

グローバルより顔なじみ⑥ 顔馴染み王国 イタリア!

 

2004.5~2005.4

グローバルより顔なじみ⑥
顔馴染み王国 イタリア!

ばんぶう

2004.10

日本医療企画


夏休みを利用して家族4人でイタリア旅行に行った。初心者向けパッケージツアーで、わずか6泊なのにミラノ、ヴェネチア、フィレンツェ、ローマ、カプリと足を伸ばしたのだから、毎日バスで移動の大忙しツアーである。私は言い訳がましく、「今回のツアーは目次旅行と命名して、次回からの旅行の準備である」と言い張っている。このツアーのよくできたところは、しっかりした添乗員がいて、さらに観光地の先々で専門のガイドが手配されているということだ。寺院や美術館ごとに専門のガイドと的確に待ち合わせをしているから驚きである。
 添乗員さんとガイドさんとは顔馴染みであり、ガイドさんは現地の係員たちと顔馴染みである。私たちと添乗員さんとはすでに顔馴染み状態であるから、全体が打ち解けた雰囲気になる。また、イタリアで感じたのは、お店やレストランなど小型店が多く、スーパーや百貨店、ロイヤルホスト的なところが少ないことだ。お店には店主らしき人が厳然といて、お客さんとは既に顔馴染みかもしくはこれから顔馴染みになるのかどちらかなのだ。
 さすが、スローライフを提唱する国である。グローバルショップの権化であるコンビニと、グローバルツールの代表である携帯電話遊びに現うつつを抜かす若者が目につかず、気持ちが和んだこともよかった。私の大好きな映画である「ニューシネマパラダイス」や「ゴッドファーザー」の人間臭さが今でも残っている国であり、古代や中世の建物が普段着のまま歴史を語っている。人間関係の歴史を大切にする気持ちが私の主張する「顔馴染み」であり、合い通じるものがここにあるのだなあと思う。
歴史を大切にしていた日本が、歴史を忘れようと、自分たちよりはるかに歴史の浅い国から多くの文化を取入れ過ぎたうえ、それを無制限に膨張させているのが、今の日本ではなかろうか。

グローバルより顔なじみ⑦ 気にかかった言葉"見ぬもの清し"

 

2004.5~2005.4

グローバルより顔なじみ⑦
気にかかった言葉“見ぬもの清し”

ばんぶう

2004.11

日本医療企画


最近、読んだ本のなかで「見ぬもの清し」という言葉が気にかかった。概して人の目に映りやすいものは汚く見えて、目に見えないものは清く正しく見えやすいという意味だ。一昔前は「末は博士か大臣か」と、わが子に期待する未来をこの言葉に託したものだが、今は政治家も、大学教授や医者なども一概に尊敬される職業ということではなくなってしまった。マスコミなどにより、一部の人たちの醜態があまりにも日常的に身近に知るようになったからである。昔は大臣など雲の上の存在であり、尊敬というか畏怖の念が基本にあったのであろう。同様に、つい最近まではその実態や内輪が想像できないほどの大企業は、なんとなく「清く正しいものだ」という固定概念があった。
 その証拠にNTTや東京ガスからの請求書はそれほど内容の確認無しに請求どおりに支払うのが常であるのに、個人商店からの請求書の中身は念入りに確認する。ところが最近では、三菱自動車のように大企業であろうが、問題がおきるとマスコミで大きく叩かれ、衆目の知るところとなる。
そうなると、三菱製の自動車がすべて壊れそうに見え、やはりT社やN社がよかろうということになる。とにかく大衆というものは一方通行に傾きやすいし、未だに大企業や大学などの権威に弱いのが日本人である。
 しかし、よく考えてみれば大企業や大学などといっても、個人の集まりである。三菱自動車に勤める人すべてが悪者でもなければ、今のところ問題のない自動車会社に善人ばかりいるわけではない。私は良い傾向と思っているが、最近の日本では中小企業こそ日本を支えているという意見も出てきた。個人が堂々と責任と信念を持って技術や発想を展開しているからである。個人の顔を大切にしようとする風潮が復活しつつあると期待している。ブラボー顔馴染みである。

グローバルより顔なじみ⑧ 自然に顔馴染みは通用しない

 

2004.5~2005.4

グローバルより顔なじみ⑧
自然に顔馴染みは通用しない

ばんぶう

2004.12

日本医療企画


大雨、台風、新潟地震とこのところ自然災害が相次いでいる。政治問題や企業汚職なとのニュースが陰に隠れる勢いである。これだけ苛酷で凄まじい自然の猛威にさらされ、現代文明もたじたじといったところである。ついにあの不滅の新幹線も脱線した。奇跡的に犠牲者が出なかったのは、人間の叡智なのか神の情けなのか判然としない。これだけ厳しい自然の試練を与えられると、少なくとも人間同士いがみ合ってはいけないなあという思いが募る。それでも、人は人を妬み嫉み、他人を騙してでも自己の利を追求し、自己の快楽に走る歴史を繰り返すのであろうか。
 最近、私は友人から心痛む話を聞いた。詳しい内容は差し控えるが、自己の利を守るために長年の友人である彼を裏切り、自己の会社での立場を守るために人間としての誠実の魂を悪魔に売り渡したのだ。そしてもっと悪いのは、そんな自分の心を守るために自分をも裏切る嘘をついているようなのだ。よくある話ではある。私は、その話を聞いて、裏切られた人に同情するのではなく、むしろ魂を売ったほうに哀れみを感じてしまった。何も正義感ぶって言っているのではない。私は職業柄、心に傷ついた人の相談を受けることが多いから、こんな話に敏感になりがちである。地震の被害にあった人の傷も相当だが、思わぬ人に裏切られた心の傷は相当深い。最大の傷は親に裏切られた場合であることは、皆さんもご承知であろう。ダンテス・ピークという映画であったと思うが、主人公の「自然は苛酷だが、人間はもっと残酷だ」というセリフを思い出した。
 自然には、顔馴染みの情けなどなく、容赦なく我々に災害をもたらす。むしろ「大雨の後に地震」というように、自然には泣き面に蜂的に、顔馴染みにきつく当たる傾向さえある。そんな自然より残酷な人間にはあまり会いたくないものである。

グローバルより顔なじみ⑨ 必学!心理学的ファンデルワールス力

 

2004.5~2005.4

グローバルより顔なじみ⑨
必学!心理学的ファンデルワールス力

ばんぶう

2005.1

日本医療企画


今日は、少し難しい言葉を覚えてほしい。「ファンデルワールスカ」という物理学の用語である。2個の原子が非常に接近すれば、相互の弱い結合作用が生じるという自然の法則である。そしてその相互吸引力は、それぞれの原子に特有のファンデルワールス半径と呼ばれるものの和に近づくまで増大し、それよりもさらに近づいてしまうと、今度は正反対に強く反発しあうという現象が起きるのである。しばしば自然界の現象は、人間関係の学習に役立つことが多い。この現象でピンとくることは、人間関係の「間合い」に酷似しているということだ。人はある程度近づくと、互いに引き付け合うが、それぞれに定まった距離感以上に近づくと反発し合う。この距離感が「ファンデルワールス半径」にあたると仮説してみた。
 しかし原子の場合は、その原子独自の一定した「ファンデルワールス半径」が存在する。人間の場合も独自の距離感はあるのだが、時と場合で変動するから物理学のようなわけにはいかずにそこが難しい。各人の好奇心、寛容力に加えて、相手方との好き嫌いを中心にした相性があり、また社会的な(仕事関係など)バイアスも「間合い半径」の決定要因となるからである。そして同様に相手方の「間合い半径」もあり、その和が「お互いの間合い」となるわけである。しかし、そんなに難しいことではあるが、これは勉強してマスターしがいのあることであろう。私が仕事で、さまざまな心理医学的相談事を受ける場合の問題事は、たいていの場合は人間関係に起因するものである。私自身がかつての嫌な体験を順に並べると、親や親友を亡くしたこと以外の上位のほとんどが人間関係の間合いの失敗であると認めざるを得ない。あまり杓子定規に、「間合い半径」を決めてしまうのも、人生世智辛くなるが、快適に生きていく知恵として、活用してほしい。

グローバルより顔なじみ⑩ むしろ頭デッカチとなるも 心デッカチとなるなかれ

 

2004.5~2005.4

グローバルより顔なじみ⑩
むしろ頭デッカチとなるも 心デッカチとなるなかれ

ばんぶう

2005.2

日本医療企画


一般に、科学一辺倒や理論優先的で計算高い考えに対し、「頭デッカチ」と批判的に使われることが多い。私は心理医学的面接という手法で、心の不調を訴える患者さんや重病時の医療決断の支援活動を行っている。その基本的な理論に認知心理学がある。-言で言えば「気分や衝動で行動せずに、理性や思考のもとで行動するよう心がけると苦しい感情が落ち着くものである」という理屈である。これは宗教的教えでなく、科学的説法であるところが新鮮である。人が行動をする時は、大きく分けて思考か、気分で決断する。人間のさまざまな感情や気分と思考とは密接な繋がりがあり、また、それらと免疫や自律神経などが複雑に絡み合っていることが解明されてきた。
その絡み合いにさまざまな神経伝達物質と呼ばれるホルモンの一種が活躍しているのである。
 糖尿病などの治療で薬以上に生活習慣が大切なように、心の健康にも生活習慣が重大な影響を与えるのである。心を支えているメカニズムは非常に繊細である。「酸いも甘いも」わかることは大切でもあるが、あまりにも苦い体験は心にとって試練を超えて、「トラウマ」というリスクファクターになるのである。
 このあまりにも苦い体験の代表例は「配偶者との離別」であったり「親友の裏切り」であったりするわけであるが、顔馴染みのちょっとした一言で傷つき、不幸や抑うつのどん底に落ち込んでしまうこともある。そんな時こそ「頭デッカチ」となり、理性的な判断を最優先するように自分に言い聞かせることが、うつ状態に入り込まない最大の防衛策となる。芸術家の諸氏には「心デッカチ」は必需品であるが、われわれ凡人が楽に暮らせる秘訣の-つが「時に頭デッカチになる」ことであるのは、意外な事実なのである。

グローバルより顔なじみ⑪ 人柄も能力のうち

 

2004.5~2005.4

グローバルより顔なじみ⑪  人柄も能力のうち

ばんぶう

2005.3

日本医療企画


人間の能力を評価する指標はい〈つもある。かつては「IQ知能指数」一辺倒であり、その批判から「EQ」という和訳すると情緒能力とでもなる指数が、何年か前にもてはやされた。知能指数以外にも、客観的に判断しやすいものとして体力や運動能力、各種芸術的能力、経済力、取得権威など枚挙にいとまがない。高学歴、スポーツランキング上位者、売れている芸術家、お金持ち、大会社役員や大学教授など、一般的に「あの人は偉い」と評価されたり、妬まれたりする対象となる。「頭が良いとかお金持ちなどというより、人間にとってもっとも大切なものは人柄だよ」とまことしやかに言われるのもこれまた事実である。
「人柄か? 能力か? う-ん悩ましいなあ」。ルノワールやモーツァルトの作品は好きだけど、ご本人と友達になりたいわけではない。さらに、人柄は悪いが腕の切れる医者と人柄はいいが技術の伴わない医者の選択も究極の選択になってしまう。「いわゆる能力が上位か、人柄が上位か?」と自問していた時、友人の話のなかで「人柄も能力の一つですから」というフレーズが頭に響いたのである。上か下かではなく、同格として能力の一つと考えればいいのだ。
 知能のなかにもさまざまな要素があるように、人柄の要素にも「品位、品性」「受容力」「寛容力」「配慮力」「思いやり力」「自己犠牲力」などがある。
ただ残念なことに、人柄カは社会、特に日本の社会では評価を得にくい。あるビジネスコンサルタントの本に「人柄を良く見せる方法」という項目があって悲しみ驚いた。しかし、顔馴染みから評価されると言う意味では、「人柄力」は孤高の一番であることは誰もが承知のところである。

グローバルより顔なじみ⑫ 安心の顔馴染み 顔馴染みの落とし穴

 

2004.5~2005.4

グローバルより顔なじみ⑫
安心の顔馴染み 顔馴染みの落とし穴

ばんぶう

2005.4

日本医療企画


顔の見えないクローバルより、顔馴染みを大切にすることがIT時代の今こそ大切という意味を込めて、一年間書いてきた。私は医療判断医という独自の仕事をする心療内科医であると自称している。患者さんのさまざまな悩みに接し、不安を軽減するお手伝いをしている。病気の不安、誤診の不安、もっと良い治療があるのではという不安、人間関係の不安など、世の中なんと不安だらけなんだろうと痛感する。ある種の神経症の根源に「安全確保行動」ということがある。人間(他の動物もそうであろうが)は「快を求め、不快を避ける」ことを本能として所持している。不快の代表格が不安なのである。快の本能にはたくさんある。食欲、性欲などはその価表格であろう。そして、忘れがちではあるが、決して忘れてはならない、そして人間特有の快の本能に「知識欲」があると私は主張している。いわゆる「知りたがり」というやつである。科学などの学問からゴシップまでこれまた守備範囲は広い。インターネット中毒はまさにそうである。それが行き着くところの知らない「グローバル地獄」となる可能性があると、私は警鐘を鳴らしたくこの1年のタイトルとした。
 顔馴染みのいいところは「安心」なところである。医師は顔馴染みの患者を金儲けのために薬漬けにしたり、出世のためにモルモット扱いにはしない。しかし、最近の凶悪犯罪で、身近な人のインタビューで「あの人に限ってそんなことをするとは…」というようなことを聞くことは多いし、親友に裏切られて傷ついたという患者さんは私の外来では後を絶たない。顔馴染みにも落とし穴があるのか、はたまたそれは偽の顔馴染みであったのであろうか? 再び、昔映画で聞いたセリフ「自然は苛酷だが、人間はもっと残酷だ」を思い起こすが、「愛する人のために尽くすことは人間の最上の喜び」であることは永遠の事実であることを皆さんに報告してペンを置きたい。

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