ストレス社会と心の主侍医

表紙

メンタルヘルスマネジメント

ストレス社会と心の主侍医

企業診断 no.6

2003.6

同友館


癌より怖い心の病気1

「見た目は健康,でも心はポロポロ」「ぼろは着てても心は錦」どちらがよいか,簡単な問題のようであるが難しい問題でもある。私は映画鑑賞が趣味の1つであり,映画の中の,気の利いた台詞が特に好きである。「セント・オブ・ウーマン」というアル・パチーノが主役の退役軍人を演じる映画のなかで,彼が次のように語る。
「私は軍の指揮官として,多くの若者が戦闘で手や足を失うのを目の当たりに見て,戦争の悲惨さを思い知らされた。しかし,もっと悲惨なことがあることを知った。若者たちがそれをなくしてもっとみじめな姿になるものがあることに気づいた。それは『人間としての心』である。戦争のため心が破壊され,失っていく若者を見ることが一番辛かった。手には義手,足には義足がつけられるが,なくした心に義手や義足のようなものはない」
うろ覚えであるが,このような内容であった。
この話は,メンタルヘルスの重大さを端的に物語っている。私の医学事務所は,次の項でお話しする「主侍医」として,企業の経営者や社員の健康危機管理を受託することを主な職務としている。
その経験のなかで,最も多く相談を受けるのが「癌の治療」についてと「心の問題」についてである。癌の治療についての相談の場合,日本の高水準の診断や治療を受けられるよう,さまざまな医療決断の支援をし,最善の専門医を探し出し,紹介することに関して,われわれの事務所では比較的安定して提供できるに至っている。
問題は,「心のトラブル」に対する処方箋である。
こちらは,事務所の19年間の活動の蓄積をもってしても,なかなか困難な作業である。ケースごとに,オーダーメイド的に対策を考えているのが実情である。
職場のメンタルヘルスがなぜ問題になるのか。
その大きな理由はいくつかある。1つは,心の病気は,体の病気のように目に見えたり,検査データに現れたりしないから,自分で気づくのも遅く,周囲の理解も得にくいということである。もう1つは,体の健康よりもさらにプライバシーや人事などへの警戒感を抱くことが多く,社内の福利としての相談体制では対処できない傾向にあるということである。
それに加えて,気軽にかつ適切に治療が行える医療機関が少なく,そういった医療機関へのアクセスのための情報が一般人にはさらに入手が困難である。これらのことが,職場のメンタルヘルスの管理をより難しいものにさせている。
たとえば,ある職場で,1人の社員が「癌」に罹患し,その治療のためしばらく休み,その後職場復帰するという状況と,社員が1人うつ病を抱えながらなんとか出社しているという状況を比較してほしい。その職場の生産性や快適性はまだ,前者のほうが被害は少ないだろうことは想像がつくであろう。癌の場合は,残りの社員は「彼(彼女)の分まで頑張ろう。復帰したら,彼(彼女)があまり無理をしないでよいように体制を考えてあげよう」ということになり,なんとか生産性を落とさずに乗り切れる。
しかし,うつ病の場合,病気自体の周囲の人による理解も難しいから「彼(彼女)は,怠けているのか,やる気がないのかなあ」「病気だとしたら,どのように対処したらよいのかなあ」などと周囲も悩むし,時には周囲の人間もつられて精神的に落ち込む場合がある。うつ病は風邪引きのように流行(うつ)るものだ,とよくいわれるゆえんである。

主侍医」つてなんですか?2

「医療の新しい仕組み作りの提案と実践を通じて,医療の品質の向上に貢献する」ことを目的に,1984年に私が医学部時代の同級生たち十数名と立ち上げた事務所が,トータルメディカルシステムズ(現寺下医学事務所)である。最初の数年間は,主にハイテクを使った医療システムの開発と医師人事を中心にした医局システムの改革,先端医療モデル病院設立構想が3本の柱であった。この頃より,電子カルテや全国の医師間コンピュータネットワーク,民間医局としての医師派遣業務などを開発してきた。

今から思えば,事業として考えると,随分時期尚早な試みだったと多少の反省をしている。そういった開発をしていくなかで「安心できる医療」を追求すると,「昔ながらのお医者さん」がキーワードであることに気づいた。多くの人が「昔のお医者さんは往診もしてくれたし,家族のこともわかってくれていたし・…‥」というからだ。

でも,そんなことをいうかと思えば,かたや,いざ病気になると「大きな病院が安心」と大病院へ足を運んだあげく「3時間待たされた」「若い先生で頼りなかった」「いつもドクターが変わる」「威張った態度の医者だった」「検査,検査で,結果は,はい,1カ月後」などと不満,不安を聞かされる羽目になる。

医学の進歩に伴い,昔のような「なんでも診られる医師」という要求は,はっきりいって不可能に近い。医学が進歩したということは,当然,専門分化が進むという現象を伴う。科学としての医学なら仕方のないことだが,実際の医療の現場ではこの専門分化が曲者になる。せっかくの進歩が一般の人には享受できない現象が生じることになる。医学は着実に進歩しているのに,実際の医療現場では不安が一杯,ということになっている。

この現象を音楽にたとえると,昔の医療は「室内楽」であったが,現在は「交響楽」になったということになる。室内楽では演奏者が少人数であるから,指揮者役は,なにかの演奏をする人がかけもつことができる。しかし,交響楽のように大人数になると全体をまとめる専門家である指揮者が演奏者とは別途に必要になる。このように考えると,そういった指揮者的専門家が現在の医療の世界では必要になることが理解できよう。

そこで,注目したのが皇族の侍医のシステムである。天皇家には5名の侍医が常時所属している。もちろん,健康なときからである。健康なときから,体調などを側でみておくと,いぎ病気になったときに,より適切な対応が可能だ。昔の御典医も同様である。私自身が,医療を受ける立場になって,どんな医師を身近におきたいか考えてみた。

「そうだ,健康なときから,弁護士や会計士などのように,医師に相談役として側近にいてもらうと,普段の健康管理のみならず,大きな病気のときにより早く適切な診断と治療を受けられるよう水先案内をしてくれる。なにより安心だ。健康なときからそんな医師と契約するのだから,病気になってから弱い立場で初めて出会うのではなく,より対等に近い立場で出会うことになる」と考えた。病気の治療を担当するのが主治医だから,健康なときからそばにいるという意味で「主侍医」と名づけた。

今度は,医者の立場で考えると,この主侍医のシステムを維持するには,恐ろしいほど手間ひまがかかる。単なる「総合診療外来」なら,今までの内科医としての延長線上で何とかできるが,主侍医となると,もっと幅広い医療知識に加え,病気や患者の状況,医師の能力などを見立てる力と,多くの専門医との生きた人脈が不可欠である。それらをキープしていくためには,楽屋裏の活動として相当なことが要求されるが,楽屋裏の仕事は目に見えにくいから評価されにくい。

こういったサービスを国からの補助を一切受けずにわれわれ民間の事務所が続けていくには,それなりのコストをクライアントに負担していただかなくてはならない。車作りにたとえるなら,手作りのスーパーカー工房ということになる。そこで,クライアントは法人のみとして,契約の種類は,経営者の健康危機管理を引き受ける経営者契約と,制限付きではあるが社員の健康管理まで含める法人契約の2種類に限定している。

業績のよい企業で,その経営者がその企業の屋台骨になっていて,経営者の健康危機管理をすることがその会社の危機管理に直結することが自他ともに明らかで,かつその経営者が理解を示してくれる,という三つの条件が揃ったとき,初めてわれわれと契約していただけることになる。

主侍医」はどんな医者?3

では,医者であればだれでも主侍医になれるか,というとそうはいかない。主侍医の専門医の研修コースなどまだ存在しない。さまぎまな病気の初期判断ができて,適切な専門医へ紹介できる人脈を有していることが条件になる。言葉でいえば簡単だが,これを,個人の医師が十分にこなすことは並人抵ではない。

まず私自身が見本になろうと,幅広い医学知識と技術を習得し,各科にわたる専門医人脈を構築してきた。具体的には脳神経系,循環器系,消化器系の基本的な臨床訓練を受けて,心療内科的診察法を体験学習し,専門医人脈を築くために1,000名以上に及ぶ医師と実際に交流した。そして,クライアント第1号には友人でもある経営コンサルタントのSさんが名乗りをあげてくれた。それ以降,まったくの口コミで50件余りの契約数を平均して維持している。法人契約も含めると,担当クライアント数は100名くらいになる。

そして待望のスタッフ主侍医第1号として,卒後10年になる渡邉医師が3年前より私の片腕として活動しながら,医療判断医としてのトレーニングを積み,主侍医活動も本格化することになった。

「心の主侍医」の必要性4

13年間に及ぶ主侍医活動の体験のなかで,わかったことは,クライアントの相談事は「身体のサポート半分,心のサポート半分」ということである。

私の最初の予想では,身体の相談が9割,心の相談が1割くらいの配分ぐらいだろう,と思っていた。何といっても通常の医療では,心のサポートなどゼロに等しいのだから,それでも主侍医は心のケアを重視しているということになると考えていた。

ところが,いざ,蓋を開けてみたら,冒頭のごとくである。主侍医の主な仕事は,クライアントが重大な病気になったとき,何科にかかればよいか,具体的にどの専門医がよいのか,いくつかある治療法のうちどれを選択すべきかなど,医療のさまざまな決断場面において100%クライアント側に立ち支援することである。そのときの判断基準として「医学的根拠」「心理学的情況」「社会学的背景」の3つを徹底的に考慮する。一言でいえば,不安を安心に変尤るお手伝いをすることになる。

クライアントは癌などを中心にした身体の重大な病気を心配し,それらに備えることを主にイメージして,われわれと契約をする。しかし,実際には,日常のちょっとした医療問題の相談に加え,自分の健康に対する不安や,会社経営上の不安や,家族や社員との人間関係の不安などについての相談が圧倒的に多くなるのである。クライアントにとって,こういった不安を少し抱いたとき,遠慮なく相談できる専門家が身近にいることは,筆舌に尽くしがたいほど安心なことである。もちろん,このことが病気の早期発見にもつながる。

先ほど,癌と心の病気を対比したが,実はこの2つはとてもよく似ている。どちらの病気にとっても,早期発見は重要であるが,病気の初期は症状が少ないために,相当意識しないと早期発見が困難である。どちらの病気も会社に知られたくない,忙しくて検査する暇がないという気分になりやすい。しかし,発見が遅れるほど治療が困難になるし,合併症も増えてくる。職場復帰のタイミングが難しく,再発も心配される。以上のように癌と心の病気の間には共通点が多い。では,解決方法は何か。おのずと次のような答えが出てくる。

  • 気軽に検査や相談がきる窓ロを作る。
  • プライバシーに配慮する。
  • 自己チェックができる方法があれば,その活用を促せる。
  • 病気と判明したら会社の組織とは関係の少ない医療機関で治療が継続できる体制を準備する。
  • 予防的行動を周知させる。
心の病気のワクチン5

「仕事が忙しすぎたり,人間関係に疲れたりでストレスがたまっています」という状況と「うつ病の初期」とは小さくて大きな違いがある。前者から後者へ移行していくことは十分考えられる。しかし,前者の段階なら簡単な気分転換で解消してしまうことも多い。この時点で,各人がストレス過多状態を自己認識し,なんらかのストレス発散法を行うことである。インフルエンザ予防のための「手洗い,うがいの励行」とよく似ている。ストレス発散法としては,スポーツでもよいし,カラオケでもよい,各自に合った方法を持っておくことである。

では,インフルエンザの場合のワクチンにあたるものはないであろうか。私は「認知心理学」の応用をお勧めしようと考えている。うつ病や神経症の治療には,薬物療法と広い意味での精神療法がある。後者のなかに,精神分析療法,カウンセリング,森田療法,行動療法,認知療法などがある。私の診療では,最後に挙げた「認知療法」を実践しているが,この認知療法を応用することにより,うつ病や神経症のワクチン代わりになるのではと思いついた。

認知療法の詳細は,専門書に譲るが,ここでは,簡単に説明する。認知とは,各人独自のものの考え方や判断の仕方であり,今まで各人が生きてきた過程で作られている。自己判断のための一種のパターン認識システムが構築されているといってもよいであろう。もともとこの認知のシステムにゆがみがあると,本格的なうつ病や神経症になる。

普段は正常に認知システムが作動していても,ストレスが多くなると,この認知システムにゆがみが生じる。必要以上に悲観的に考えてしまったり.発想が狭くなったり,取り越し苦労をしたり,同じことを何度も考えたり,いつもは持っている自信をなくしたりする。

そうなると,さらに,気分が落ち込み悲観的になり,行動も極度に消極的になるという悪循環に陥り,うつ病や神経症になってしまう。認知療法とは,こういった脳の中のメカニズムを理性において認識し,認知のゆがみを矯正していこうという考えであり,今 もっとも新しい精神療法といわれているものである。 悪循環を招く思い込みを冷静に自覚し、理性的な思考パターンを自分自身に言い聞かせ説得する」という「心と頭脳のストレッチトレーニング」である。

われわれの認知療法の経験では,一度 うつ病になったとしても,認知療法をきちんと受け治癒した人から,「病気以前より,しっかりとした思考を持ち,生き甲斐を見つけられるようになった」と喜ばれることが多い。

この認知療法の最大の欠点は,とても手間がかかるということで,日本の保険医療ではほとんど実施が不可能に近いことである。臨床心理士と医師が手を組んで治療にあたるシステムがあまり実存せず,論理はあるが実践的にはなかなか受けることが難しいというのが日本の認知療法の現状である。かといって,うつ病や神経症になってから,自己の素人判断で認知療法を行うことは困難だし,時には危険が伴う。

そこで,私は 心の病気になる前に,認知療法の自己学習をすることを勧めているわけである。

自己学習のための本は,いくつか出ている。私の事務所でも,教材を開発中である。

心の病気の早期発見6

心の病気は癌と同じように早期発見が大切だと私は力説しているし,多くの専門家も同意見であろう。しかし,具体的な方法論がないというのもこれまた実情である。私たちは,別の項の執筆者でもある野村忍医師(現早大人間科学部教授,元東大医学部心療内科助教授)らとともに,ストレス自己チェックシステム「MIST」を開発した。 企業単位で採用し,個人単位でプライバシーを守りながら,自己チェックができるシステムである。 別項での野村医師の説明を参考に,ぜひ,利用していただきたいシステムである。

こういったシステムが入手できない人のために,いくつかのコツを教えよう。

  • 寝つきが悪くなったり、中途覚醒が頻繁になるなどの睡眠障害が数日続く。
  • 悲観的な考えが,何度も頭に浮かんでしまう。
  • 悪夢が多い。
  •  
  • 電車や飛行機に乗るのが不安になった。
  • 会社を休みたいと何度も思う。
  • 好きな食べ物も美味しく感じない。
  • いつもイライラしている。
  • 酒やタバコの量が多くなった。
  • なんとなく不安である。
  • 友人に会うのが億劫になった。

以上の10個のうち,2個でも当てはまるようになったら要注意である。

ストレス解消法を試して,変化がなければ精神科医か心療内科医と相談してみよう。

3個以上当てはまれば,すぐにでも専門医を訪ねるべきであろう。

    

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