リレーエッセイ(Medical Tribune)

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Medical Tribune  

リレーエッセイ「時間の風景」
 
2017/2/2 
 


安心と納得の医療を求めて、医療正義を考える
 

医学部同級生の友人からこのエッセイのバトンを受け取った。昭和53年卒業だから、かれこれ40年になる。学生運動を実際に体験した最終的な学年だ。当時は学生たちによる立て看板がキャンパスに溢れ、ビラもあちこちに散らばっていた。今から思えば、乱雑な景観だったと言えるが、医学生たちは何を求めていたのか?と気にもなる。方法論の是非はともかく、医療や医学における正義を求めて、色々な形で闘っていたのであろうか?

今、「正義とは何か?」という問いかけが、医学の分野に限らず様々な分野での命題となっている。お金や権力の二極化が強まる中、本来の正義とは何か、幸せとは何か、一部の賢者が模範になろうと気になり始めた証だと期待している。

医学部出身者の進む道の多くは臨床医の道であり、少数派として基礎医学の道がある。本日は、3番目の選択肢として「社会医学」の道を伝えたい。

医療に対する日本の国民の満足度は意外と低いと感じる。不満が不安に変わり、さらに恐怖、攻撃となり医療裁判の件数が驚くほど増えた。しかし、それは、日本の医学医療のレベルが低いからではない。むしろ、日本の医学医療は世界トップレベルであり、医療保険の仕組みも世界に類をみない傑作品である。しかしシステムのどこかに問題があるから、国民は安心・満足していないに違いない。アポロ11号の月面着陸を思い起こして欲しい。1969年当時(なんと半世紀も前!)の技術を巧みに組み合わせるだけで、未来の夢が実現した。そこが仕組みづくりの素晴らしさだ。

昭和59年6月、同窓仲間らと共に、医療の仕組みづくりを通じて医療満足度の最大化に貢献しようと研究会を立ち上げた。カルテの共有システム(今の電子カルテ)や医師間遠隔相談システムなど。インターネットなど存在しない30年以上も前の話だから、今思えば時期尚早であった。後輩の医学部学生が、夜な夜な事務所に集合し、医学辞書をタイプし、ハドソンソフトから初めての医学辞書つきワープロが誕生した。「すいぞう」が「膵臓」と変換されて喝采する時代であった。

「安心と幸福をもたらすべき医学医療」の仕組みを追求していくと、ハイテクによるイノベーションも時代の流れだが、皇室の「侍医システム」という患者(クライアント)医師関係が理想だというローテクな結論に至った。高度細分化される医療環境においては、専門医とは別に、指揮者や管制官のような存在が不可欠であり、患者も含め人間的信頼関係で結ばれたチームによる医療が、医療満足度を最大化するシステムであると考えた。1990年には、自らも「主侍医倶楽部」と名付けた民間版侍医モデルの試みを始めた。

その活動の中、「医療判断学」という概念が生まれた。インフォームド・チョイスが進んだ故に、患者は選択や決断に悩む。主侍医は「医療上の意思決定の支援」のプロである。同窓後輩であり私が敬愛する故西本征央慶應義塾大学薬理学元教授の熱い依頼があり、1995年、慶應義塾大学医学部にて「医療判断学」の集中講座を開設した。最初は、「医学生の道徳教育か?」と、学生たちは感じたようだ。3日間連続の対話型集中講義として、教授以下教室員総出演し、講義後も夜遅くまでその日の学生の発言を検討して翌日の資料に反映した。その熱意が通じ、最終日には学生たちの目の色が変わってきた。「裏出欠チェックだ」と噂された授業感想文も、こちらが驚くほど充実した内容に変貌していく。ある時、学生の一人が「このような真剣な決断の支援は私にはできないかも」と医師になることに不安を訴えてきた。講師陣は慌て驚き「君みたいな人こそ医師、医学者になって欲しい」と必死に説得したことを思い出す。熱心に教育すれば学生の心に届くことを教室員一同恐ろしいほど体験した。

風変わりな授業と評されたが(ハーバードのサンデル教授の授業のようであるが、我々の方が早かった?)、授業の出席率は高く、数名の欠席者が返って目立つほどとなった。しかし、神の悪戯か、西本教授のスキルス胃癌での急逝により10年間でこの講座は閉幕となった。

今、世の中は模範となる人間像を求めている。我々、医師は色々な人たちと日常的に出会う。そして命を握っていると頼られる。さりげない模範となれるのか、その意味を噛み締めたいと自戒する日々である。

 

    

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